不死鳥の恋よ、安らかに眠れ

ノベルバユーザー304215

彼女の名前①

 彼女は、記憶を失っていた。

 何か大きなショックが起きたのはわかっていた。

 文字通り、世界がひっくり返るようなことが起きた。

 それで、目覚めた時に、何も覚えていなかった。

「大丈夫か?」

 近くにいた男が言った。

 むさ苦しい顔立ちで、彼女はこの男は嫌いだった。

「他の者たちはどうしたんだ? いったい何が起こったんだ?」

 男も動揺していた。

「どこへ行く?」

 彼女は、男から離れた。

 空はまだ暗い。

 異様に紅い月が、血のような光を夜空に滲ませていた。

 フラフラとした足取りで、彼女は丘を降りた。

 男は男で、別の道を行った。

 彼の方も、それほど彼女に興味を持っていなかったようだ。

 森を抜けて、やがて街についた。

 朝がやって来た。

 活気のない街だった。

 住人は、物珍しげに彼女を見たが、声をかけるものはいなかった。

 彼女は、やはり何も思い出せなかった。

 とりあえず、体の思うままに、歩いた。

 たどりついた場所には、古びた家が立ち並んでいた。

 人々の身なりも貧しそうだ。

 女、子供、老人たちばかりだ。

 ある建物の前に着いた。

 錆びついた十字架と聖印が飾られている。

 皮膚のはげた女神の像。

 ここには、もっと大きな建物があったような気がした。

 その中心に、私は座っていた。

「あなた」

 老女が声をかけた。

「あなた、よその国の子かい? 蒼い目なんて、初めて見るよ」

 老女は、十字架の建物へ手招きした。

「今夜は満月だ。あなたみたいな若い女がフラフラしてきたら、危険だよ。男どもに、取っ替え引っ替え襲われることになる」

 彼女は、老女に招かれるまま、十字架の建物に入った。

「ここなら安心だよ。ここには、野蛮な奴らは訪れない。教会なんだから」

「教会……」

 その響きが、頭の奥を刺激した。

「教皇様」

 老女が先に奥へと歩き出した。

 礼拝堂になっていた。

 女神像の前に、一人の老人がひざまずいていた。

 老女は、教皇と呼ばれた老人に、彼女のことを説明した。

「私は教皇ゼノーです。旅の方、泊まる場所がなければ、今夜はここで休んでいくといい」

 ゼノーは、にこやかに笑った。

 食事をしているか怪しいほど、骨と皮だけのやせ細った老人だった。

「教皇……」

 記憶は蘇りつつあった。

 しかし、目の前の現実があまりにも違いすぎて、何が本当なのか、受け入れがたかった。

 食事があてがわれたが、味のないすえた臭いの粥だけだった。

 碗には、獅子の絵が描かれていた。

 紅い月。

 獅子を祀る教会。

 寝床も、カビの生えた毛布を敷くだけだ。

「わたしは……」

 彼女は、一人つぶやいた。

 粥の入っていた陶器の碗を投げつける。

 壁に当たって、砕けた。

「わたしは……」

 彼女は身を起こして、自問した。

 彼女は、自分の名前を思い出していた。

 彼女は、蒼の月の世界で教皇だった。

 大聖堂の中心に座っていた。

 しかし、その前は。

 孤児院の娘。

 ゼウシス=アキレウス、それは教皇になるときに、与えられた名前だった。

「わたしは……」

 彼女は、久しぶりに本当の自分の名前を口にした。

「わたしはエイミー」
 

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