「気分は下剋上」 森技官の優雅な受難

こうやまみか

56

 発信人の名前は「渋谷美樹」と表示されていた。ドラマなどでは――無知なのかそれともそこまで些細なことを取り上げても本筋に関わらないで敢えて省略しているのかは知らないが――触れられていないが、俺達は上司が思い出したように私物の携帯などをチェックするという伝統が有った。まあ、俺の場合、恋人名義で契約した二つの携帯を持っているので、本当に隠したい情報などはそちらに入れている。名義が恋人でも通話料その他請求書に上がってきた金額はキチンと支払っているが。
 上司に見られるリスクが有る以上、フルネームで登録していた方が好ましいのは確かなので「渋谷」ちなみに地名から拝借したモノで本名ではない。「美樹」も適当に思いついた名前で、俺が分かれば良いとだけ思っていた。
 ちなみに、新宿二丁目などで働くような――キチンとした労働というよりも、身体を張ったり、売ったりというその気分のよってお金を稼ぐ人も一定数居る――ある意味特殊な仕事(?)の人間はその人がその名前を名乗ったとしても本名とは限らない。だから名前は符牒のようなもので、お互い分かれば良いと思っている。
 そしてこの「渋谷」さんは当時の厚労省ナンバー2蹴落としの「些細な企み」で香川教授の身代わりを務めてくれた人で、先ほど田中先生とも話していた人だった。
『もしもし、雅さん久し振り。電話貰っていたみたいなんで掛けなおしてみたんだけど?」
 寝起きのせいか掠れた声が妙にセクシーだった。もしかしたら昨夜ずっと声を上げたり、せわしなく呼吸をしたりしてお愉しみだったのかも知れないが、そういうことは聞かないのがマナーだし、青々とした芝生の上をナースに車椅子を押されたり、パジャマ姿で散歩に勤しんでいる「健康的な」――いや、入院患者さんなので真の意味での健康ではないが――空間に相応しくない話題だろう。
 仕事で忙しかったり、れっきとした恋人が出来たりしたので新宿二丁目の「そういう」店からは自然と足が遠のいているが、そういう店で気だるげに煙草を吹かしながら――俺は非喫煙者だが――語り合うのとワケが異なる。
 ちなみに俺のそういう店の名乗りは――どうせ職場はバレている――「雅さん」だった。
「久しぶりですね。お元気でした?」
 一応無難な挨拶をした積りだったが、電話越しに仄かな、しかし楽しそうな笑い声が伝わってきた。
『久しぶりじゃないよ。一週間前に二丁目のバーでしっぽりと呑んだの……もう忘れた?』
 「しっぽり」の用例を間違えているのか、それとも面白がっているのかは知らないが、彼の惚気とか自慢話を聞いただけで、誓ってやましいことはしていない。彼が大輪の花のように綺麗なのを認めるにやぶさかではないものの、俺の好みは可憐な野の花を彷彿とさせる男性だった。
 そういう意味でも範疇外だ。
 それに。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品