「気分は下剋上」 森技官の優雅な受難

こうやまみか

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「ええ、なんとか……。やはり手術は苦手なので……」
 世間の皆様というか一般人の常識と医師の常識は異なる。そして不本意ながらも俺だって――そして臨床経験はほぼ皆無というペーパードライバーのような医師免許の持ち主だ――医師の端くれなので、田中先生も「医師の常識」が前提の話をしている。
 ただ、察しの良い田中先生は俺の顔色を見てやっと分かったような気の毒そうな眼差しを向けてきた。
 香川教授と田中先生なら、レアのステーキを――二人の仲睦まじい恋人の食生活がどんなモノかは詳しくは知らないので、本当に食べているかどうかは知らないし、そもそもどうでも良い範囲の話だが――食べながらでも平気で手術の話が出来る「常識」の中に居るので、うっかりそのカテゴリーに入れられて話をされたのだろう。
 まあ、日頃強がっている俺の自業自得だろうが。
「とにかくですね……。こちらも手を打つべきところは全て打ちますので、田中先生も何とかあの井藤とかいう研修医の動向と戸田教授でしたか……。脳外科の秩序は責任者不在のせいか無くなっていますので、准教授などに根回しをお願いします」
 田中先生がカラリとした笑みを零した――多分俺の弱みを気の毒にも、そして医師のクセにと思っていたのだろうが、その通りなのであれこれと弁解する気はなかった――直後、研ぎ澄まされた刃のような真剣さを浮かべた。
「戸田教授の奥さんはパリだかどこかでクレジットカードをパンクさせたのです。
 その話しは教授会ではウワサになっていたのですが、まあ、その程度のお金は――私には無理ですが――教授職の場合お給料以外に講演会のギャラとか印税とかで補填は可能でしょうし、奥様だって実家に泣き付くとかそういう方法は有りますよね?
 ただ、お金には困っていない井藤研修医がという可能性も高いのです」
 血液の流れよりもお金の流れを追う方が遥かに性に合っている。
 それに銀行は財務省に――マスコミにリークされているものも、それ以外のものも――反社会勢力との繋がりを暴かれているので、そちらの知人を動かすのが良いだろう。
「私が旧大学病院の院長にアポなしで会えるように、メガバンクの頭取には財務省の知人も会えるので、その辺りは徹底的に洗い出します。
 香川教授は「俺個人」のオファーに応えてくれて――と言っても田中先生が幹事を務めたとかいう医局の慰安旅行の温泉宿を我々厚労省ご一行が譲るという交換条件の賜物だったが――謝絶しかなかった厚労省への研究会などの俗にいう「霞が関詣で」を行ってくれたという個人的な恩が有った。あの時は覚えが良いと自惚れている上司のお覚えが更に目出度くなったのだから旅館を譲ることなど露ほども痛痒は感じなかったのも事実だ。
 それだけではなくて、個人的にも恋愛感情ではなくて人間的に好感を持っている。
 その教授の――確かに外見も綺麗な人だし、井藤研修医が劣情を抱くのも分からなくはないが、日本の、いや世界の至宝を守るために恋人の田中先生が奔走するのはある意味当然だが――俺だって恋人があんなヤツに目を付けられていて、あんな目で見られていると知ったら絶対に守ろうと決意するだろうから――田中先生が協力を要請してくれて大変光栄に思ったのも事実だった。
「ああ、なるほど。そちらの線はお任せ致します。宜しくお願いします」
 田中先生が「協力者」というか「共犯者」の笑みを向けている。
 その不敵な輝きを宿す眼差しを見た瞬間に、唇に笑みが浮かんでしまった。
 何故なら。

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