「気分は下剋上」 森技官の優雅な受難

こうやまみか

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 俺がまだ幼い頃は当たり前のように手書きだっただろうが、今の大臣の命令書は紙こそ透かし入りの特別製ではあるものの、サインやハンコ部分はともかくとして他はPCで作成されている。
 そして俺は大臣公設秘書官の一人が某北の国の工作員女性から「夜の接待」を受けているという情報を得たので、そのハニートラップ要員用に「薬」を用意して渡した。
 「薬」といっても――見た目だけでは分からないが検査すれば直ぐに分かる――「味の素」と食塩の混合物だったが。
 麻薬も独裁者の北の国では有力な資金源となっていることは知っていたし、かの国がこれ以上――そのお金が餓死者まで出るという一般国民に使われるならともかく――国力をつけないためという点もあった。
 その後「綺麗な女性工作員」からの接触は一切なくなったと聞いていて、その見返りに大臣のサインとハンコだけの公用文書作成用の用紙を3枚貰っていた。
 また、今の時間なら――東京発の新幹線の終電近くだ――部下に連絡すれば持って来てくれるだろうし。
「その点は心配ご無用です。それよりも、田中先生に電話した方が良いですよね?ただ、あの二人は同じ部屋に居そうなので、私から香川教授の電話に掛けてみます。
 教授には一切内緒なのですよね、この話は」
 恋人はスミレ色の艶めく微笑で答えてくれた。
「そうしてくれればとても有り難い。田中先生もマンションに帰っているとは思うけれど、あの二人が一緒の部屋に居るのはほぼ間違いがないので……」
 香川教授にわざわざ電話する用件はなかったものの、その辺りは何とでもでっち上げることが出来る。
 ちなみにテーブルの上に置かれたピザはLサイズ二枚分以上が恋人の胃に収まってしまっていた。
 マカロンの残骸も目にしていたので、それだけヤケ食いの衝動が強かったのだろう。
「しかし、パーソナリィ障害の患者にそのように思われるとは、香川教授もとんだとばっちりですよね。
 そして田中先生は、私の協力を要請するほど切羽詰まっていると……」
 田中先生の処理能力とか咄嗟の判断は、自分が部下、もしくは同僚にしたいと思うほどに優れている。
 その田中先生が判断に窮するという事態なのだろう。俺は田中先生を仲の良い「ケンカ友達」として捉えているが、向こうは多分マイナス評価だろう、自業自得だが。
 そんな俺にも頼らないとならないと判断せざるを得ないほどの危機感を抱いているということなので、その点については十全に応えたい。
「で、如何でしたか?田中先生……」
 この屋敷は二人で住むのが勿体ないほどの部屋数が有る。だから別の部屋から各々電話を掛けたのだが、田中先生とはまだ会話中の恋人に「黙っておけ」というジェスチャーをされた。
 しかも、先程のヤケ食いの前の表情に戻っているのも気に掛かった。
「脳外科のナースが犬や猫の惨殺死体を目撃したのですね……。医療用廃棄物は、確かに誰も開けないので、隠し場所としては最適ですが……」
 そこまで進行しているのかとため息が出た。小動物を無残に扱う人間の場合、高確率で人間へと移行するので。
 しかも、香川教授の大輪の花のような容貌とか幾分は華奢だがバランスの取れた肢体にも尋常でないほどの執着をしている。
 世界レベルの手技だけでなくて。
 これはかなり危険なので、早々の排除が必要だ。

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