カイカイカイ…

霜月 秋旻

無表情、無関心

そこは、神秘的な空間だった。建物の中に入ったはずなのに、まだ外にいるような感覚だ。壁全体にリアルな、森林の風景画が描かれていた。閉塞感をやわらげる為のものだろうか。外から見るとあまり大きくない建物だが、中に入るとその風景画のせいか、広く感じた。真ん中が通路になっていて、左右にそれぞれ壁に面したテーブル席が置くまで続いている。対面式ではない。店の玄関から入って右側の客と左側の客が背中を向けるような形になる。二人以上で来店した場合、一緒に座るためには横並びで座ることになる。
中には黒いハイネックに白いエプロンをした四十代ぐらいの男性店員一人と、僕と黒沢アカネのほかに、客が三人ほどいた。
客のひとりはおそらく中学生くらいの、学ランを着た眼鏡の少年。無表情でなにやら分厚い本を読んでいる。僕らが入ってくるのをチラリとだけ見ると、また本の世界へと入っていったようだ。
ひとりは二十代後半ぐらいの、赤い着物を身にまとったおかっぱ頭の女性。無表情で四百字詰めの原稿用紙に、万年筆で何かを綴っている。小説でも書いているのだろうか。さっきの中学生の少年のようには僕らの方をを見なかった。
そしてもうひとりは、老婆だった。老眼鏡をかけていて、外見からして八十代くらいだろう。原稿用紙に何かを書いているわけでもなく、ただ呆然としていた。まるで魂でも抜けたような状態だった。僕らが入って来たのには気付いていないらしい。おそらく彼女もこの店の常連なのだろう。
僕と黒沢アカネはとりあえず、その老婆がいる、六人がけのテーブル席に座った。彼女のすぐ隣に黒沢アカネ、その隣に僕だ。すると彼女はようやく僕らに気が付いたらしい。僕らの方に顔を向けた。しかし表情は先ほどと大して変わりはしなかった。
左右のテーブルのところどころに、飲み物のメニュー表に注文書、さらに四百字詰めの原稿用紙と万年筆が置かれている。それを使って筆談しろということなのだろう。さらに、テーブルには原稿用紙が置いてあるそばに、細長い穴があけられている。読んだ本の感想を原稿用紙に記入し、それを投函するためのものらしい。さらに店長にメッセージがある場合、原稿用紙に内容を記入し、その細長い穴に入れると、あとでそれを店長が読む。そして次に来店したとき、店長直筆の返事を受け取ることが出来る。さきほど入店前、黒沢アカネからその説明を受けた。黒沢アカネは原稿用紙と万年筆を手に取り、それを使って老婆と筆談を始めた。
そういえば店内を見渡してみたが、黒沢アカネの兄らしき人物は見当たらない。店内にいる男性店員の左胸にあるネームプレートには『江頭』と書かれている。店の奥には扉がひとつあり、スタッフルームと書かれたプレートが張られていた。おそらく黒沢アカネの兄はそこにいるのだろう。僕は試しに、飲み物の注文書に『ホットコーヒー』と書き、それを持った右手をあげた。すると僕のもとに江頭さんがやってきて、注文書を受け取ってスタッフルームに入っていった。そして三十秒くらいしてから再びスタッフルームの扉が開き、江頭さんが丸いお盆にホットコーヒーを載せて僕の席へ運んできた。そして事務的に僕へホットコーヒーを差し出した。
この店は客も店員も、無表情な者ばかりだ。本を読むのに集中したり、文書を書くのに集中しているせいもあるのかもしれないが、みんな感情のない人形のように見えた。
さらにこの店には、本棚というものが無い。ブックカフェというくらいだから、本棚があるはずだ。しかし店にはそれらしきものがない。学ランの少年が読んでいる分厚い本は何処から持ってきたものなのだろうか。自ら持ち込んだ本の可能性もある。これではブックカフェではなく、ただのカフェである。
すると江頭さんは、テーブルにある原稿用紙に『あなたはどんな本が読みたいですか?』と書いて、僕に見せた。どんな本と聞かれても、僕には元々読書の習慣は無い。『読みたい本は特に無いです』と原稿用紙に書いて返答した。すると江頭さんは『そうですか』と書いてみせると、その場を去った。ブックカフェに来たのに読みたい本は無いなどと書いた僕を、変な客だとでも思ったのだろうか。僕にはこの店のシステムの方がよっぽどおかしく感じた。

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