碧き舞い花

御島いる

261:ここから

 セラが液状人間の浸透に晒され、逆鱗花の葉を食べてのたうち回っていた丁度その頃、ホーンノーレンに拡声の魔具による一声が鳴り渡ったのだという。
 ヨルペン帝の退却命令。
 あれほどまでに守ることに徹していた帝が、都を捨てる決断をしたのだ。決断の場にいたユフォンが言うには、彼は誰に言われるでもなくその判断を下したという。
 ホワッグマーラ奪還のために攻勢に出るべきだと考えていた魔闘士たち例外なく、その号令に驚いたことだろう。しかし、今まで煮え切らなかった帝の見せる迫真の号令に誰もが従った。
 浸透操作こそされてはいないが動けない仲間を助け、号令と共に放たれた大勢の小さなヒュエリの幽体に連れられ安全な隔離地へと退却したのだ。
 そこには井戸で戦っていたラスドールももちろん含まれている。なんと一人でノルウェイン以外の敵魔闘士を蹴散らした彼は、セラの活躍により操作から逃れた親友とその横でのた打ち回る彼女を連れて帰ろうとした。だがセラがあまりにも暴れるため、一度ヒュエリと共に退いた。
 すでにクラスタスと共に退いていたズィーは事情を知ると、一人で戦場へと戻ったのだ。そうして渡界人二人の泥水でいすい巻き上がる壮絶な戦いが幕を開けたわけだ。
 二人の戦いが終わる頃にはホーンノーレンはがらんとしていたという。液状人間側も都側の魔闘士たちが退いて少し経った頃、乾燥を気に掛けたのか退いていったのだ。
「僕が様子を見に行ったら、ちょうど君とズィプの戦いは終わってて、君は倒れてた。僕はすぐに君を隔離地に連れてったよ。それからヒュエリさんとジュメニさんの二人で君をここに運んだんだ。ジュメニさんが『心配だろうけど体きれいにするから男は来るな』ってね……まあ、こんなところかな、ははっ。もっと長くしてもよかったかな?」
「ううん、ちょうどいいよ」セラは肘を膝に乗せ手を組む。「まだ終わってないなら、止まってるわけにはいかない」
「ははっ、それもそうだ」
「でも、そっか……ヨルペン帝が。わたし勘違いばっかりだったんだ。ズィーにも……ズィーは、大丈夫なの? 話を聞いた限りじゃ、大怪我はしてないみたいだけど……」
「もちろん。だいぶ疲れてはいたけど、一日寝たら、『無意識に近かったとはいえ、セラは本気だとあんなに強ぇんだ。負けてられねえな』なんてあっけらかんとしていたよ」
「……そ、そうなんだ」
 結果としてはズィーが勝った形だったはずだが、それでも負けてられないと思う辺りは彼らしい。セラは半ば呆れて微笑んだ。
「でも、ちゃんと謝っておかないと」立ち上がり伸びをする。「さ、行こう。わたしを連れてって、筆師様」
 お姫様よろしく、甲を上にして手を差し出すセラ。
「ははっ。ではでは、僭越ながら瞬間移動させていただきます、渡界の姫様」
 ユフォンは冗談ぽく言って、彼女の手を自身の手に優しく載せた。次いで空いた手で懐から小さな書物を取り出すと、栞の挟んであったページを開いた。継書けいしょの栞だ。
 そして、彼のブレスレットの水晶が光ると空間が渦を巻き歪む。


 螺旋状の幹を持つ針葉樹に囲まれ、笛の音のような鳥のさえずりが不定期に聴こえる。大きく開けたその場所は、長閑に晴れ渡った森の中の広場だった。
 ピクニックに最適であろうに、今この場にいる人々の顔は暗い。ホーンノーレン帝居の舞踏の間で笑顔でいたのは遠い過去のように。大人は顔を落として、地べたに座り膝を抱える。忘れていた世界の危機をようやく思い出したのだろう。子どもたちは恐らく長いこと泣いていたのだろう。目を赤くし腫らしている子ばかりだった。
「みなさん、顔を上げて、ください! ほら、見てください! 今日も空はこんなに晴れてます!」
 笑顔で叫び掛けるのはヨルペン帝だ。だが、彼の声に応える者は誰一人としていなかった。
「ここに避難してきてからずっとだよ」ユフォンが力のない笑みを浮かべて言う。「ヨルペン帝は朝も夜もみんなの顔を上げさせようとしてる。夜は星がきれいに見えるんだ、この場所……」
「……」
 セラは未だに笑顔を振りまく帝に目を向けた。その笑顔には疲労が窺えた。
「ちょっと行ってくる」
「ぇ、セラ?」
 セラはユフォンを置いて、独り帝に歩み寄る。「ヨルペン帝」
「……?」疲労を隠すように張り付けられた笑顔が振り返る。「あぁ、セラフィさん。起きられたんですね。よかった」
「三日も寝てたわたしが言うのもなんですけど……休んでください、あなたも」
「いえ、わたしは……わたしにこれしかできないので。これしか……」
 ヨルペンが強く拳を握った。
「やはり、無理にでも攻めに出るべきだったのでしょう……」俯く帝。「……そうすれば、今頃、みんな家族や友を取り戻し、笑顔が戻っていた……」
「そんなことっ!……そんなこと言わないでください。攻めてたらあなたが言っていたようにもっと大きな被害が出ていたかもしれないんですから。むしろ、あなたはちゃんとみんなを守った。無理に戦わせず、退却の命令を出した。あの戦い、退いてなかったら、これだけの人は残らなかったかもしれない。もしかしたら、本当に全滅だって有り得た。あなたは未来の残したんです」
 セラは帝の肩に手を置いた。答えるように上がった彼の顔に笑顔はなかった。だから、セラは凛々しく、頼もしい笑顔を見せた。
「わたしたちは、ここからです」
 不思議そうなヨルペン帝に、セラは輝きに満ちたサファイアで彼の目を見つめながら強く頷いた。

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