碧き舞い花

御島いる

49:思い出される想い。踏み出す一歩。

 テントの中にズカズカと入ってきたアメジストの男は光沢はないが黒い鎧を纏っていた。その鎧はセラにとって見覚えのあるもので違いなかった。『夜霧』の、それも下っ端ではなく、赤褐色の大男やヌロゥ・ォキャが纏っていたものと同じものだ。
「悪酒に酔っちまってよぉ~、気分が悪ぃ、薬くれや」
 セラには目もくれずその酒臭い顔をクァスティアに寄せる男は、この地を支配するギュリ・ドルツァ・ビーグ。
「……今、酔いに効く薬は……」
「あ゛ぁ! 俺様に出す薬がねぇってか!」ギュリはクァスティアに掴みかかる。
 それを見たセラがギュリに触れようとすると、クァスティアがそれを目で制した。
「すぐに、持ってきますから……!」
「だったらすぐ行けっ!」
 男がクァステアを突け放した。クァステアは尻餅をつき、小さく悲鳴を上げたかと思うと間髪入れずに立ち上がり、テントを出て行った。
「早くしろよぉ~! ちんたらしてたら、子供でも殺しちまいそうだぜ、ぜへへへ……」
 テントから出てクァステアの後姿に聞こえるような大声を上げたギュリは下卑た笑い声をあげて広場を見回した。広場の人々は子供も含めて怯え、テントから距離を取った。
「おっとぉ、逃げんじゃねえよ。マジで殺すぞ、あ゛ぁん!」
 ギュリの声にその場で家族で固まる人々。地面にへたり込み、親は子供の口元を強く抑えた。それは、子供が泣いてこの暴君の気に触れないようにするためだ。
「ちょっと、やり過ぎじゃないの!」
 セラはあまりにもその光景に耐えられなくなり、テントから出て『夜霧』の流れ者に異を唱えた。
「あぁん? お前、誰だよ。見ない顔だが最近流れてきたのか? そうか、そうか、じゃあ……」
 ギュリはテントから出てきたセラにゆっくり歩み寄り、酒臭い顔を近づける。
 その酒臭さに鼻を歪めながらも、セラは目の前のアメジスト男が彼女の腹に拳を突きあげようとしているのを感じた。
「ここのルール、教えてやんよっ!」
「ぐふっ……」
 セラは分かっていながらも反撃をすることはなかった。もう、剣は置いた。それに反撃をすることでこの場にいる人々に危害が及ぶかもしれないと考えたのだ。しかし、反撃はしないまでも、鎧のマカを腹部にだけ纏っていた。だから、実際にはまったく痛みはなかった。こんな拳、外在力を纏ったヌロゥの蹴りに比べたら攻撃と呼ぶまでもない。
「ここでは俺に逆らっちゃいけねえんだよ! 分かったか、あ゛ぁっ!」
「……」
 セラは痛くもない腹を押さえながら膝をついた。ギュリはそれを服従と取ったらしく、満足そうに笑った。
「ギュリ様! 薬です」そこへ汗を浮かべ、息を切らしながらクァスティアが戻ってきた。「これを、飲めば、気分も治ります」
「ふんっ、なかなか、早かったな。また頼むぜ、お、医、者、様。ぐふぁはははははっ!」
 ギュリはセラを服従させた上にクァステアが思っていたより早く戻ってきたことに大満足して広場を去っていった。
 広場からギュリが居なくなると、子供たちは恐怖に泣き出し、親たちは不満を漏らす。
「くそ、あいつさえ、いなければ、家族で故郷に帰れるのに……」
「なんであんな奴がここに流れてきたんだ……」
「あいつ、なんで自分の世界に帰らないのよ……」
「誰か、あいつを殺してくれないかしら……」
 セラは自分を心配して立たせてくれたクァスティアに尋ねる。
「みんな、本当は帰りたいの?」
「人によるわ。ここで暮らしていくと決めた人もいるし、家族を持って故郷に帰りたいと思っている人もいる。わたしは、もう、ここで生きていくと決めたけど……」
「そう、なんだね」
 セラは小さな広場の光景を、その目に焼き付けるように長いこと見つめていたのだった。


 広場での出来事から三日が経った日。その日セラはクァスティアと共に街で買い物をしていた。
 セラとクァスティアの二人が魚屋に立ち寄ったときの出来事だった。魚屋の向かいにある肉屋から大きな声とものが崩れる音が響いたのだ。
「おいテメェ! こんな肉を俺様に食わせる気か、あぁん!」
 ナトラード・リューラの支配者はそのアメジスト色の手で肉屋の店主に掴みかかっていた。その肉屋の店主はこの間咳をしていた少年の父親だ。店の中はギュリが暴れたのか、棚が崩れ、壁には穴が空いていた。
「す、すいません。最近、上等な肉は流れてこなくて……」
「あぁん、だったらテメェでなんとかしろやっ!」ギュリは店主を平棚に向かって投げ捨てた。棚が大きな音を立てて割れ、店主は頭か血を流す。ギュリはその男を掴み上げると街路に放り投げた。「おいっ! 誰でもいい、こいつを縛れ! 今夜のメインディッシュだ」
「ギュリ様っ、それだけは……ご勘弁を! 次。次、上等な肉が流れてきたら、一番にギュリ様のもと、べっ……!」
 店主の言葉を最後まで聞かずにギュリはその顔を思いっきり蹴り飛ばした。店主の男は鼻血を噴き、口の大きな牙の一本が折れ、店とは反対側の建物まで飛ばされた。
「黙れ、俺様に一番に持ってくんのは当たりめえだろーが。それができてねえから、こうなってんだろうがよっ!」
 魚屋の前で、セラは強く拳を握る。しかし、飛び出していこうとはしなかった。
「おいっ! ロープはまだかっ! お前らも俺様に逆らうってのか、あ゛ぁん!!」
 ギュリのその声に数人の男たちが肉屋の店主のもとへ駆け出した。それは救出が目的ではなく、己たちの保身のための行動。ロープを持ち、涙をその目に浮かべながら、「すまん」「わるいな」などと繰り返しながら肉屋の店主を縛っていく。
「お前! お父さんをいじめるなよ!」
「ああん……?」
 肉屋の方から聞こえた声に、ギュリが振り向く。そこには肉切り包丁を持った牙とたれ耳を持つあの少年が立っていた。その手は、脚は、体は震え、すぐにでも逃げ出したいに違いない。
「お父さんを、いじめるなよっ!」
 声だけは震えることなく、真っ直ぐギュリに向かって放たれた。そして、震える手で包丁を高々と掲げ、震える脚で全速力で駆けだした。
 あれでは間違いなくその刃は届かない。セラがそう思いながら少年とギュリを交互に見たそのとき彼女の超感覚が下卑た呟きを感じ取った。
「子どもの肉の方がうまいかもしれんな……」
 セラは魚屋の前でギリギリと音を立てて拳を強く握った。唇を強く結んだ。それでも駆け出さない自分がいる。あの男がヌロゥと同程度の力を持っているのなら、相手の力を見誤った自分のせいで隣にいるクァスティアやレトプンクァス漂流地の人々に大きな迷惑が掛かってしまうということが二の足を踏ませるのだ。
「あ゛っ……!」
 ついに、少年の刃は届かず、ギュリにその手首を掴まれ、軽々と持ち上げられてしまう。
「ズィードっ……!」
 縛られた肉屋の店主が息子の名を叫んだ。それは、セラにとって心が動くきっかけとなる名前だった。今はなき故郷で想いを寄せた少年の愛称を思い出させるには充分な酷似。焼かれた故郷の復讐。殺された家族や親愛なる民たちの復讐。自分はなんのために力をつけて、旅に出たのか。セラは一歩を踏み出した。
「セラっ」
 そんなセラを止めたのはクァスティアの優しい声だった。彼女はセラの肩にしっかりとした力で手を置いた。セラが顔だけで振り向くと、クァスティアは色素の薄い瞳を細め、見事なブロンドをゆさゆさとゆっくり揺らした。
 だが、セラの顔はすでに戦士のそれを取り戻していた。姫のような笑顔は鳴りをひそめ、凛々しく締まった顔つきでクァスティア見つめる。サファイアに宿るのは闘志。
 セラは小さく「ごめん」と呟いて、肩に乗るカスティアの手を優しくどけて、そのプラチナを後ろで結って、服の中から『記憶の羅針盤』を出す。特に強い光を受けたわけではない。だが、水晶の耳飾りと『記憶の羅針盤』はどこか笑っているかのように強く輝いていた。

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