意識の奪い合い

内野あきたけ

fast age



気が付けば、金木犀の強い芳香は公園に漂い、清清しい風は次元と共に僕の身体を通り過ぎる季節となった。
 自分の身長の倍ほどもあるママと手を繋ぎ、青い空を眺めながら僕は幼稚園バスを待った。
 次の瞬間、びっくりするべき事に僕はバスに乗車していた。ママとバイバイした事も、排ガスが凄く臭かった事も、先生とこんにちはをした事も、ぼおっとしている間に全て自分自身でこなしてきた事であるというのを思い出したのです。
 それから僕は
【あれ?今、何かちょっと変な感じがした。
「~であるというのを思い出したのです。」
「~思い出したのです。」
「~たのです。」
 そうだ。この表しは「文体」だ。僕がもも組みで皆から「年中さん」と呼ばれていた頃に、先生たちのお話が聞こえてきた事がありました。
 たしか「あいうえお」を並べてお話を作る時、お話の最後に「~です」とか「~ます」とかつける種類と「~だ」とか「~である」とかつける種類があるっていう事、ごちゃまぜにしたらダメっていう決まり。
 でも僕には凄く難しくてあんまり分からなかったからごちゃまぜにしちゃう。
 なんでかって、決まりを守っていたら一番伝えたい「表し」が出来なくなっちゃう。
 たとえば、金木犀を知らない年長さんの僕がなんで金木犀の芳香を知っているかって、それは「それっぽいものがあるなあ」っていうことを体が経験したからだ。
 言葉は「表し」だよ。だから、言葉で本物を表現するなんてでき無いんだよ。今、きみが読んでいる僕の文章も幻だよ。
 でも、いちばん近い物を表現する事ができるんだ。
 いちばん近い表現をしたいと思った時にそれがたまたま「知らない言葉」でもおかしくないでしょう?
 僕は言葉を書きたいんじゃなくて、文章を書きたいんじゃなくて「表現」を表したいんだ。
 ルールを守っていたら「表現」できなくなった。
   それが大人である。
   それが大人です。
   それが大人だよ。
   それが大人なのですよ。


   このなかでどれがしっくり来るか、どれが正解かなんて、どうだっていい^^%¥#%’”#$%&’()!”#$%&’()O$%&’())(’&%&%$3$%&


大切なのは表現だ。


 どこかに矛盾があったって良い。パラドックスになっても良い。
 それがダメだって言うのが大人。
 確かに、大人の社会の中では通用しないのかもしれない。
 でも、子どもの社会の中ではそれが当然。
 大人は、大人が思っている事が絶対に正しい。と思い、
 子どもは、子どもが思っている事が絶対に正しい。と思っている。
 これだって立派な矛盾じゃないか。
 「答えは書いちゃいけない!」って言われた事もあったな。
 なぜなら、答えを書くと、このお話が一言の表現で終わってしまって、見ている人が理解できなくなってしまうから。
 少なくとも、見ている人を理解させるという面においてはある程度ルールを守っていないといけないのかもしれない。
 矛盾には、両立が重要かな?
 二つ同時に理解するって言うのは、やっぱり才能も必要になるのかもしれない。
悟りを開くって、気持ちが良いんだろうなあ】
 と、言うような他愛も無い哲学的な事を、だいたい一秒くらい考え続けながら、僕は幼稚園バスに揺られていた。
 いや、正確には「感じた」と言ったほうが正しいのかもしれない。
 知識があろうがなかろうが、大人だろうが子どもだろうが「感じる」ということは誰にだって出来るのだ。
 しばらくすると、幼稚園が見えてきた。
 僕は今日だけは素晴らしい日であると思った。
 祈念すべき日だとも思った。
 なぜなら今、過去は過去にしか存在しないという事に気付いたからである。
 同時に、未来はまだやってきていないという事にも気付いたのだ。
 大人が言う「科学」とか「物理学」とか「哲学」とか言うやつでは、そういう事が言われているらしい。
 大人も子どもも、それは知っている事かも知れないが、それは頭で理解している事であって皆まだ「体験」していない。
 僕はそういうことは難しくて知らなかったけど「体験」する事は出来た。
 体験すると、見る物全てがビックリに見える。
 言葉で表現すると「今は今しか存在しない。過去は過去で、未来は、まだ来ていないからこそ未来である」
 になってしまうが、表現すると「やったあー。うれしいなあ。わーい、わーい。わくわく。難しい哲学なんて大嫌い、大嫌いって言う気持ちも大嫌い。だから幸せ。だって苦しい事なんて必要ないもん。あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
 である。











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