少女の指先と虫
№0006
「それで……」
「数えられないくらいの反応があった。気付いた時には、もう」
「動かなかった、と」
「うん」
彼女の深い瞳から、大粒の涙がこぼれた。
それから少年の手首をギュっと握って、泣いた。
彼はまるで、自分が少女を泣かせてしまったかのような感覚になって、痛々しい気分に陥った。
でも彼女は、自分の手であの虫を殺めてしまったのだ。その壮絶な罪悪感に苦しんでいたのである。
「もう一匹はどうしたの?」
「ロゴスの事? ここだよ」
彼女がポケットから出した物。それは少年が昨日、彼女の家で目撃してしまった虫だった。
呼吸が一瞬、止まった。文字通り息が出来なくなったのだ。その異常極まりない姿に彼は目を背けた。
「ごめん、目を当てられなくて」
彼は、声にならない声で少女に伝えた。
「お願い。よく見て」
そういわれたので、少年は全ての勇気を振り絞ってこの拒絶的な虫を見つめた。
「ううっ!」
彼の胸の奥から今度は胃液が込み上げた。
少女の美しい指が咥えている虫……それは明らかな死骸だった。中腹は大きく潰れていて、ところどころに亀裂が走り、突起物はあらぬ方向へ折れ曲がり、大きく開いた口は、胴体まで裂けて体液をぶちまけている。
昨日とは比べ物にならないくらいの想像を絶する拒絶感とグロに、彼の脳みそは、のたうち回って苦しんだ。
だが目の前の少女は大粒の涙を流しているから、絶対に逃げ出すことは許されなかった。この虫を目の前にして逃げ出すというのは、男としての敗北を意味する事と等しかったからである。
「ど、どうして、こんな事に」
「この子、自分の仲間が、私に撫でられている所をずっと見ていたの」
彼は、頑張って少女の説明を聞いていた。
昨日、一晩の間に、この二匹の虫に何が起こったのかを鮮明にイメージした。
どうして死んでしまったのか、それを聞きたかった。
「仲間が、何度も私の指で反応する姿を、この子はずっと見ていた……私、気づいたんだけど、この子、仲間があんなふうになる姿を見て、興奮の限界だったみたい。私が目を離した隙に……逃げたの」
少年は今、死にそうだった。この虫には意識があったのかと衝撃を受けた。人間と同じような感覚を持ち、性的な興奮をおぼえるのかと考えると、まるでホラー映画ワンシーンのようにも感じられた。
自分も、目の前にいる少女の、肩を震わせて泣いている可憐な肉体と、そして白く艶やかな指先を見て、あの虫と同じように今、興奮の限界に達していたのだ。
「それからね、それから、私が撫でていた子が動かない事に気が付いて、ショックでもう一人の子を見ようとして、虫かごを見たら、居なくて、それで逃げたことに気が付いたの」
「じゃ、今、君が持っている虫は、どこでコンナ風に潰れちゃったの?」
「窓の淵に、あの子の体液がこびり付いてた。あの子、きっと窓から逃げたんだと思って、私は裸足で玄関を飛び出した……そのあと、人の悲鳴が聞こえて、私はすぐに駆け寄った。見たら……誰かに踏まれていたみたいで……こんな事に」
すすり泣く彼女の肩を、少年は優しくさすった。
「ごめんね。何もしてあげられなくて」
「いいの。私が殺しちゃったんだもん。あんなに、あの子たちを愛してたのに。どうしよう、ロゴスを踏み潰した人が、どこか公の場に、この虫の存在を言っちゃったら」
泣きはらした赤い目頭から流れ落ちる大粒の涙と、その艶美な上目づかいに見つめられてしまった。
今、少女が手に持っている潰れた虫の死体をも軽く包み込むような清らかさが、クラスに放たれている。だがそれでも、万が一彼女が持っている凄惨な虫の死体がクラスの誰かの目に入れば、教室はひっくり返って驚くだろう。
それくらい凄かった。それくらい異常極まりない状況だった。だからこそ、彼は無理やりにでも正気を失わないように、心を鬼にして目の前の酷く潰れた虫の死体を受け入れた。
その反面、彼はこの痛々しい悲劇を目の当たりにして泣きたい気分だった。胸が張り裂けそうな程、少女を気の毒に思っていたのだ。
「きっと、二匹とも幸せだったと思うよ。君のような美しい人に撫でられて」
「……この子は? この子は通行人に踏まれて潰されたの。私がちゃんと見張っていたら、こんな事にはならなかったのに」
彼女はそう叫んでから、すっと席を立ち上がった。
「ごめん。今日は授業を受ける気分じゃない。先生には体調が悪くて早退したって伝えて」
「そう。分かった」
少女は鞄を持ち上げた。
持ち上げる時、反対の手に持っていた二匹の虫を胸ポケットに押し込んだ。
まるで今まで大切に育てていた生き物だと思えないくらい、無造作に。顔を俯かせながら、他の生徒に気づかれないよう、ゆっくりと教室から立ち去っていった。
その姿を見て、少年は残念な気分になった。
今日一日、この憂鬱な気分のまま授業を受けなくてはならないのだと落胆した。
こうして、一時間目のつまらない授業が始まってしまったのである。
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