気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

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 何も言わずにただ、微笑んでいようと思った。
 自分の「不器用さ」は自分が一番知っている。口を開いて祐樹の精神を傷付けるくらいなら何も言わない方が断然良いだろうし。
「ニンジンとブロッコリーのグラッセもとても美味しいな……。バターの香りも良い感じで口の中で溶けていくような気がする」
 祐樹と向かい合って、水入らずの食事を摂っていると「事件」などなかったような錯覚を覚えてしまう。
 室内着は祐樹が気に入ってくれている、ごく薄いニットで襟ぐりの綺麗に開いた服だ。
「ニンジンとブロッコリーの硬さを合わせるのに、少し時間が掛かりましたが……」
 確かにブロッコリーの方が熱を加えてもなかなか柔らかくなってくれないことは知っている。
「そうか?ちょうど良い柔らかさに仕上がっている。ああ、そう言えば今日、中庭で赤とんぼが飛んでいるのを見た。もう、秋になったのかと一瞬だけ目を留めてしまった……」
 日中は――と言っても平日に外に出ることはないが――残暑も厳しい感じだが、夜になると秋の気配が漂っている。
 シチューは初秋の涼やかさに良く合う感じで、ホカホカと立っている湯気が何だか心の底までバターの香ばしさと共に暖めてくれるような気がした。
「秋と言えばマツタケですよね……。あれは自宅で食するよりもお店で薫りを充満させた方が美味しく感じますよね。ほら、梅雨マツタケでも充分美味しかったですよね。
 だからあのカウンター割烹にまた行ってみませんか?」
 梅雨の頃に生えてくるマツタケがたまたま入荷したとかで、職人さんが恐ろしくぞんざいな感じでむしって焼いてくれた。
 多分、その方が香りも高く出るのだろう。そうでなければ、あんなに細く大根などを切れる人なので、食材の味を最大限に出そうとしているのだろう。
「そうだな……。やはり梅雨の時に食べるマツタケも美味しかったが、本来のシーズンの秋の方が美味しいし……」
 梅雨の時にはまだ「事件」の兆候すら掴んでいなかったハズだ、祐樹も。
 その時には分からなかった幸せの形とは、今は少し歪んでしまったような気がするが、それでも充分修復は可能だろう、呉先生のアドバイス通りに時間の経過を待てば。
 
 それが唯一の希望の光りだった。

「季節の食べ物と言えば、上海ガニも9月からですよね。リッツの例のレストランで召し上がりたいのではないですか?」
 確かにリッツの中華レストラン「香桃」で食べた上海ガニはとても美味しかったが、リッツという固有名詞が祐樹の唇からごく自然に出て来たことに内心安堵しながらも何だか複雑な気持ちになる。
 呉先生の話しを聞いていなければ、祐樹と出掛けるリッツは心楽しいイベントの一つだったが、祐樹も当然井藤元研修医がリッツのクラブラウンジでずっと居たという話を聞いているハズだから。
「ああ、確かあれは9月からがシーズンだったな。季節限定で出回るものはやはり食べたいし……」
 本当は「リッツに行っても良いのか?」と聞きたかったが、その衝動を押し殺して食後のコーヒーを淹れるために立ち上がった。
 すると。

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