気分は下剋上 chocolate&cigarette
52
このある意味非常事態の――このベッドルームに呉先生が持って来た点滴台が設置される日が来るとは住み始めた時には想像すらしていなかった――最中だからこそ打ち明けられることも有る。
言葉が足りないし適切な語彙を選びに選んで自分の気持ちを100%表現出来ないのはおいおい解決していかなければならない問題だが、今の今祐樹に伝えるべきことは、この点滴台などの「舞台装置」的な側面を借りれば言葉の比重が軽くても充分伝わるだろうし。
二人きりになった時に伝えようと言葉を色々と考えた。
祐樹にこれ以上の精神的な負担を掛けないようにするためと、そして――どれだけの時間がかかるかは今の時点では分からないが――「この事件」が完全に過去のモノとして風化した記憶になった時に「あんな事件が有った」と、そしてそれを二人で乗り越えようと精神的にも物理的にも――実際手の震えが治まるようにと手を繋いでもらっている――手を繋いでいた日々が有ったと二人で笑い合える日がそう遠くない未来に来ることを切望して。
そしてそのために今の自分が出来ることを一つずつ着実にこなしていこうと思う。
二人きりになった時に、祐樹に告げた。
「愛の行為をする時には、灯りを点けて欲しい。祐樹に愛されていると視覚でもきちんと確かめたいので」
震えてしまう唇でそう告げると、祐樹の凛とした眉が悲しげに曇った。しかも、眼差しには複雑な色合いで、そして普段よりも生気を欠いた輝きはオパールのような感じだった。
普段の太陽のような輝きではなくて、何色もの煌めきを鈍く放つ青みがかったブラックオパールにも似た眼差しに、祐樹の負った精神的な傷の深さを実感してしまう。
「分かりました。他にご要望は有りますか?」
夜の闇を思わせる低い声が密やかに響く。
「それ以外はない……な」
眠りに落ちて行きそうなぼんやりとした意識でそう告げた。
後は、本当に、心の底から裕樹は自分との愛の行為に満足しているのだろうか?ということとか、あの狂気の研修医が投げつけた言葉が心の底に泥濘のような感じでわだかまってしまっていた。
昼間の太陽の下では、そういうマイナスの思考もどこかへ行ってしまっていたし、その上、ご町内事情にも精通していた呉先生が選びに選んでくれた公園で子供達との触れ合いで精神的な活力を分けて貰っていた時には考えもしなかったことが、夜の寝室だと気になってしまった。
ただそれ以上考えることなく眠りの国に入ってしまったが。
そして。
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