気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

51

 今の自分は――呉先生の縫合術を「足の外傷ならばこの程度」と外科指南書に書いてある針数ではなくて、心臓に繋がっている大動脈を縫合するレベルで行っていた。どうせ麻酔が効いているので何針縫おうと呉先生には痛みはない。自分の手間が増えるだけだが、指がどの程度動くかどうかの方が重要だったので、その結果に安堵感と満足感を抱いたが――「事件」の後遺症が完全に癒えていないのは事実だが、着実に快方に向かっていることは確かだろう。
 完全に癒えるまでは、どの程度の時間を要するのかも分からないが――精神的なモノは時間がかかるということも知っていた――ただ、今の段階で確実に言えることは仕事への自信めいたものは90%以上が回復したということ、祐樹との関係が今までよりも後退するだろうが、何時かはお互いに笑い合って「あれで良かった」と心の底から言い合ってベルベッドの鈍い煌めきに満ちた視線を絡ませ合うようになるという決意だけだった。
 祐樹がごく近い過去に精神的な傷を受けたことも分かっていた。そのせいで心が「後ろ向き」になっていることも。
 だったら、自分が「前向き」になるしかない。
 ただ、自分も傷を負っている身なので、そのハンディキャップを克服しながらという遅い速度ではあるが。
ただ、速度は遅くても――そして祐樹の回復に足並みを揃える必要は有ったものの――前進さえ諦めなければいつしか「あれで良かった」と笑い合える日が来るだろう。
 祐樹と手を携えて歩む人生を絶対に諦めたくはないので。祐樹と繋いだ手を強く握りながらそう思った。
 諦めるくらいなら自分の存在そのものを消去した方が遥かに良い。
 それだけは祐樹と「奇跡的に」恋人になってからずっと思い続けていたことだったから。
 マンションに帰って、祐樹と二人きりになった時に漏らしてしまった本音の一部「灯りを点けて誰に抱かれているか分かるようにして欲しい」と告げることは許されるような気がした。
 指の動きに対しては、かなり自信は持てた気がする。呉先生のお蔭で。
 ただ、愛の行為に関してはまだ自信が持てないし、祐樹が「そういう気持ち」になってくれた時に、フラッシュバックが起こる方が裕樹の精神的ダメージを更に抉るような気がしたので。
 自分の経験値が低いこともあって――しかも祐樹以外に知っているのは一人だけで、それも一晩だけだった。その初めての時も灯りを点けて行った。当時も祐樹に一目惚れ継続中だったが、祐樹とは一生逢うこともないと思っていたアメリカ時代だった――祐樹を誤魔化す自信など皆無だった。
 そう考えると。

「気分は下剋上 chocolate&cigarette」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く