気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

50

 クリニックの奥様にも丁重な礼を言って先程の御宅に戻った。
 祐樹の車に戻って、呉先生の身体を――怪我をした足に負担が絶対に掛からないように細心の注意を払ったのは言うまでもない――後部座席に収めてから、お世話になった礼と明日も多分来るということを告げてからマンションへと帰った。
 初めて手術を完璧にこなした時と同じくらいの満足感に包まれているのを自覚しつつ。
 それに手術の成功は当然アメリカでのことで、それ自体は非常に喜ばしいことだったし、手術の前のプレッシャーを見事に跳ね返したという安堵感にも包まれた思い出だったが、所詮それは自分一人で味わうしかなかった。同僚たちも祝福はしてくれたものの、それでも「他人事」としてのお祝いだった。
 それが、今では裕樹という掛け替えのない恋人がその喜びを分かち合ってくれる。
 あの頃はそれほど自覚してはいなかったものの、孤独と向かい合って生きていくしかないと思っていた、諦念と共に。
 しかし、今では生涯会うこともないと勝手に思っていた祐樹と、まさかの恋人になれた上に、しかもそれが生涯に亘っての関係だと言葉でも行動でも真摯かつ誠実に誓ってくれた。
 その身だけでなくて魂までもが喜びで震えるような幸せのことを思えば、昨夜の悪夢など些細なアクシデントに過ぎないと自然に思えてくる。
 確かに腕にメスを突きつけられた時とかは絶望しかけたが、祐樹が絶対に来てくれると信じていたし、事実取り返しがつかなくなる前に駆けつけてくれた。
 その裕樹が――必死に隠そうとはしているものの――心に傷を負わせてしまった自分の至らなさを今後はゆっくりと時間を掛けて修復すべき義務があるだろう。
 正直、無理強いされた――未遂とはいえ――行為への恐怖感は今でも色濃く残っている。
 特に祐樹しか迎え入れないと誓った場所に押し付けられた凶器のような熱く硬いモノの忌まわしい記憶は脳だけではなくて身体にも色濃く残っているし、祐樹と今後「愛の行為」をする時にはフラッシュバックのように蘇る可能性が高かった。
 そういうのは理性では止められない類いの恐怖感でもあることは知っていた。
 ただ、これ以上裕樹の精神の深い場所に有る傷を抉るような真似は出来ない。
 祐樹が必死に自分のために動いてくれたことは知っているし、それでも未然に防げなかったことに深い悔悟があることも。
 だったら。

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