気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

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 呉先生が驚いている理由に思いを巡らせてしまう。祐樹がスイカの皮のお漬け物が好きなのは知っていたが、安堵感めいた口調もナゾだった。
 もしかしたら、昨夜の自分は「事件の直後」で、料理どころではなくてただ、恐怖とか混乱した精神のまま、自分の精神状態を制御するのに必死だった。だから当然食事のこととか身の回りのことまで考える余裕はなかった。
 それがスイカのお漬物という日常のことまで考え余裕が出来たという点が呉先生には瞠目に値する出来事だったのかもしれない。
 ウツ病患者さんの場合も、入院レベルの人だと排泄すら自分で出来なくなるし、希死念慮の持ち主だと自分の死のことしか考えなくなるというケースが多いと学生時代に教科書で読んだ覚えが有る。
 つまり、生活の彩りともいえる料理に考えが及ぶというのは、回復している証しのような気がする。
 祐樹も――精神科には疎いと自分では言っていたが、昨夜自分が眠りについていた時とかに呉先生がレクチャーを行っていた可能性はあるし、井藤という精神疾患を抱えている研修医の暴発を防ごうとしていた時にも詳しい説明を呉先生とか森技官から聞かされていたのかもしれない――多分、そのことに思い至ったのだろう。
「スイカのお漬け物ですか……。それも美味しそうですね。
 ただ、教授のその白魚のような指が糠床をかき回すのが想像出来ないのも事実なのですが?」
 祐樹がいつも褒めてくれる自分の指を見下ろしてしまう。その指はとても嬉しいことに全く震えていない。
 いつもは意のままに動くのが当たり前のように思っていた自分の指が、昨夜から意のままにならないだけで改めて有り難さを噛みしめてしまう。
「自炊は自分で全てを行わないといけないので、指も当然使います。
 こうして――――自由に動くというのが……当たり前に思っていましたが、それがどれだけ……かけがえの無いことかを……実感しましたが……」
 祐樹が力付けるように指を握ってくれた。
「次は花火ですね」
 気を取り直すように、そして何だか湿っぽくなった雰囲気を払拭しようとしたのか呉先生の明るく軽快な声とスミレ色の微笑が印象的だった。
 何だか。

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