気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

25

 自分には言葉が足りないことも、頭の中に思っていること全てを表現する手段を持っていないことも良く知っていた。そういうことも全て知った上で祐樹は自分のことを生涯に亘るパートナーに選んでくれたことは、人生最大の喜びだと想っている。
 ただ、今この瞬間というかタイミングでは、どんな言葉が祐樹の深く秘めた心の傷を抉ることになるのか皆目分からない。
 しかも、祐樹よりは顕在化しているとはいえ、自分だって浅いとはいえ「事件」が与えた精神の傷が手の震えという、外科医としては致命的な形で出ていることもあって、普段のフラットな精神では何でもなくスルー出来ることが出来なくなることも目に見えている。
 いわば、精神に脆弱性を抱えてしまった二人に――愛し合っているのは確かだし、そこは微塵も疑ってはいない――どんな言葉が禁忌なのかも分からないのなら、黙っておくに越したことはないだろう。
 恋人という関係性だからこそ、却って傷付く言葉というのも存在することは知っていた。
 甘えとかではなくて、近くに居てそして愛し合い支え合い、そして癒しとなる二人のどちらかではなくて、両人ともに心の傷を残してしまっている――外傷は祐樹の診立て以前に自分でも軽度なことは分かっていた――精神的なモノは目で診ても分からないのが歯がゆい。外科ならば患部を診て判断出来るが、精神はそうもいかない。
 祐樹と深い関係を持つようになって日が浅い頃の自分は「眼で見えないものは信じない」と祐樹にも告げていた。その後祐樹の愛情は言葉や態度で余すところなくふんだんに与えて貰っていて、頑なだった自分も「眼に見えない祐樹の愛情『だけ』は信じよう」に変わった。
 太陽の光りのような祐樹の愛情を日夜問わず注がれて育んできた、つまり自分は何もしていない関係性だったこともあって、今度は自分がそのお返しというか御恩返しがしたかった。
 祐樹のように太陽になれる自信は皆無だったものの、当初喩えてくれた月の光程度には煌めきを祐樹へと返す。
 ただ、誤解されてしまう恐れの有る言葉ではなくて態度で。
 そう心に誓った。
 まずは自分の手の震えを治さなければならないが。
 優先順位をつけて一歩ずつでも良いので着実にこなしていくしかないだろう。
 ただ、学生時代に一目で恋に墜ちた祐樹というかけがえのない存在が恋人、そして遂に生涯に亘るパートナーと認めてくれたという、あの時には考えもしなかった僥倖を手に入れたことこそ人生最大の贈り物というか、自分がこの世に生まれて来て本当に良かったと心の底から思える。
 愛というものに関して南極の氷のように頑なだった自分の心を溶かしてくれたのは祐樹、その人なのだから。
 今度は自分が何としてでも先に回復して、祐樹の傷付いた心の修復作業を試行錯誤しながら試みて、そして完全に元に戻らせることが出来ますようにと切実に、祈るように思った。

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