気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

20

 祐樹も、そして呉先生も――自分のことを心の底から案じてくれているのは分かるが、何となく腫れ物に触るような対応が逆に負い目となってしまっている。
 その現実逃避からなのか昔――といっても自分の色鮮やかな過去は祐樹が居る場面しか思い浮かばない。
 手の震えで思い出すのは、研修医だった頃の祐樹とのことだった。祐樹の携帯番号は当然ながら上司でもあり、そして仕事の特性からも非常時の連絡先は実家に至るまで提出させられている。昔は電報という手段も良く使われたと聞いているが、自分たちの世代だと携帯電話を持っているのが普通なので――といっても、医学会の大御所とかの「有難い」講演会では皆が電源をオフにして繋がらないという笑えない話も漏れ聞こえてきてはいたが――連絡は簡単に取れるようになった。
 ただ、そういう事務的に入手出来るモノではなくて、祐樹が直接教えてくれる電話番号――数字の羅列という点では同じだが、自分にとっては天と地ほども価値が異なる。
 祐樹直筆の携帯電話の番号を書いた紙片が欲しくて、教授執務室に呼び出したことを思い出してしまった。
 あの時の自分は予め用意していた紙――色々な店で買うのが面倒だという理由だけで選んだ老舗ブランドのスケジュール帳には何故か上質紙がもれなくついていた。その紙に、こういういい方は不謹慎かもしれないが書道家のように紙のレイアウトとか書く文字の大きさなどを事前に決めて一気に書き上げた「作品」だった。
 それを渡しさえすれば、祐樹も電話番号くらい教えてくれるかと思ってその紙を渡した時に手が震えていたことを琥珀色の艶やかさで思い出した。
 そしてその時に祐樹が書きなぐった付箋紙を自分が大切に保管していることを知った祐樹が二枚目の付箋紙を用意してくれたせいで祐樹や森技官が自分の居場所が直ぐに特定出来たのだから、人間何が幸いするかは分からない。
 手の震えが心因性であることも、そして「いつまでに完治するか」は精神科医でも分からないことは知っている。
 そして精神科医の時間の流れと、外科医である祐樹や自分では全く異なることも。
 呉先生が「全治三か月」と書いたのも理解は出来る。それに自分が執刀しなければその分患者さんの迷惑になるし、病院にとっては損害が発生するので多めに書いた点も。
 それにADRでの――裁判外紛争解決――早期決着を斎藤病院長が望んでいるのなら、先に損害賠償金を提示しなければ後の修正が出来ないことも相俟っての「三か月」なのだろう。
 ただ、自分の指は、ある意味ピアニストなどの演奏家と同じで常に動かしていなければならない。実際に手技はしなくとも、頭の中でイメージトレーニングをしながら指を動かしている時間も多い。
 そういう意味からも三か月も現場から遠ざかってしまっては指が元通りに動くかどうか自分でも分からない。
 祐樹がずっと指を握ってくれているのも、そういう震えを緩和させたいという強い願いなのだろう。
 その祐樹の手の温かさとか、確かな感触にとても癒されるのも事実だった。
 そして。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品