気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

19

 自分の矜持の源は二つだけで――それが多いのか少ないかは誰にも聞いてみたことがないので知らない――その一つが祐樹に心と身体が心の底から愛されていること、そしてもう一つは手技だった。
 あの男が口走ったように、祐樹は本当に自分の身体に満足しているのだろうか?
 そして、手技が出来なくなる――実際、アメリカ時代の恩師は手術中の事故で第一線から退いている――腱と筋の真上にメスを当てられた時の絶望感は今思っても――呉先生なら「思い出さないで下さい」とアドバイスしそうだが、他の楽しいことを考えていないと、どうしてもその昏い淵の中に思考が落ち込んでいく。
 昨夜はボタンを留められなかったが、今日は普段に比べてゆっくりではあったものの、何とか成功した。
 だから、徐々に回復はしているとは思う。
 祐樹は杉田弁護士と――祐樹との想い出の店でもあるゲイ・バーグレイスの常連ではあったが、女性の居ない店で静かに呑みたいと思って来ている感じだったし、常連客とのお喋りを楽しんでいる姿しか見たことはない。と言っても自分がグレイスに行ったのは片手で数えられる程度だが――電話で話している。ちなみに大学病院側の訴訟代理人も務めたことが有って、斉藤病院長の覚えも目出度い。まあ、病院長はゲイ・バー通いのことまで知らないだろうが。
「手技が出来なくなった損害賠償に1オペ一千万円ですか……」
 祐樹は絶句したように言葉を切って、驚いて顔を上げた呉先生の真ん丸な瞳を見詰めている。
 一千万円……。今の大学病院での値段は事務局に回って清算されるので自分の手術代金が幾らなのかは知らない。
 ただ、アメリカ時代の一時期に――と言っても着実にキャリアを積んで、中堅クラスになった頃――円換算すればその程度の手技代を貰っていた。そして病院の看板医師の一人になった頃には、こちらの言い値だった――もちろん病院側が代理人として入ってくれていた――ので、一千万円どころではない値段がついていたことも知っている。
「ADRでさっさと示談してしまった方が、明日から手術出来たとしても『そんなの関係ない』と押し切ってしまえるようですね。
 病院長は厳重な箝口令を敷いていますし、善後策を協議すべく側近を集めているようですし、ウチの医局も黒木准教授を始め、時間外労働を強いられた人間が多数居ますので。
 管理職だから残業代は出ないにしろ、迷惑を掛けた人に井藤のお金を何らかの形で還元出来る方が良いと思います」
 祐樹が電話を切ってからそう言った。自分のせいで迷惑を掛けた人とか巻き添えをくった人が――北教授のように――存在する限りその方が良いだろうなと思った。
 そう思いながら、キッチンのシンクから漂ってくる香りが気になってしまう。

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