気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

17

 全ての点において目敏い祐樹だったが、今は自分の震える手と、そして自分の表情に注意が払われているらしく気がついてないようだったが、卵を大量に割った香り「も」キッチンに漂っている。
 祐樹が不在がちで――今思えば、この事件を未然に防ぐべく奔走してくれていたに違いない――時間を持て余していた時にケーキを焼いてみようと思い立って作ってみた時の香りとそっくりだった。
 ちなみに、ケーキは甘いものがそれほど好きではない祐樹にではなくて、自分の科のナースステーションに日頃の感謝を込めた差し入れとして贈った。
 ただ、目の前のオムレツを頑張って目指しました的なスクランブルエッグにそんな量の卵が必要だとは思えなかったのだが。
 自作のケーキはメレンゲもふんだんに作ったのでそんな香りがキッチンに漂っていたのを懐かしく思い出した。
 その時はこんな事態になるとは夢にも思わなかった。
 特に指が震えているのは外科医生命すら絶ってしまう由々しき事態だ。
 祐樹の愛情はこの程度で移ろわないことは自分でも分かっている。
 祐樹はいつも「そんなことはない」と言ってくれるが、自分に誇れるものは、外科医としての手技の冴えと。
 そして祐樹の不変の愛情は微塵も疑っていない。不安で仕方なかった過去の自分と――だからこそ、祐樹が間違いなく自分に欲情している証しとしての愛の行為が嬉しかった。その身体の反応は誤魔化しようのないものなので――訣別したというか、硬い硬い思い込みの氷山を祐樹の愛の言葉や誠実過ぎる言動で示し続けて、頑なに凍った心を溶かしてくれた祐樹の愛情だけだ。
 だからこそ、この指の震えを何とかしないと、世界と引き換えにしても惜しくない祐樹の心の傷を緩和させるためにも指の震えを何としてでも治して、月曜日の手術には間に合わせたい。
 そんなことを思いながら、目の下に隈を作った呉先生――自分が薬剤の力を借りて休んでいる間に、警察とかの事情聴取とか、病院長とその腹心などが一堂に会したと思しき緊急会議などで忙殺してくれたのだろう。
 その点は祐樹も同じだが、徹夜に慣れている上に、疲労が肌にも表情にも出ないのが祐樹だ。
 だからといって、心も体も疲れ切っているに違いなかったが。
 手で千切っただけのレタスとか、オムレツになりそこなったスクランブルエッグを食べながら、懐かしく、そして幸せな過去を思い出した。
 現実逃避の一種かもしれないが。

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