獲物

蜘蛛星

幼少期

幼い頃、自分が何になりたかったのか思い出すことができない。ただ覚えているのは、父がからかって鶏が本当は飛べるのだと教えてくれたこと。俺はそれを本当に信じて、学校で飼っていた鶏を屋上に持って行き、頑張れと言いながら突き落としたこと。落下して、地面で潰れたそれの姿を、今でも鮮明に覚えている。

「俺はさ、金網の中にいる鶏が可哀想だったんだよ。だから自由にしてあげようとしただけなんだけどさ。」
「いやあ、ありますよね。小さい頃ってなんでも信じちゃって。それはお父さんが悪いってことにしておきましょう。」
後輩は赤くなった顔に冗談めかした笑みを浮かべていた。確かあの時、父もこんな笑みを浮かべていた気がする。酒の入った俺は、陽気になった後輩が全て忘れてくれることを願い、愚痴を垂れていた。それがつい一、二時間前のことだ。

今、何故か俺の隣には男の子がいる。しかも手を繋いでいるわけで、独身の俺には不審な構図でしかなかった。それほど酒を飲まなくてよかったと思う。帰り際、街灯に照らされる位置に人影があった。幽霊じゃないかとビビったが、俺を見て泣き崩れたことから、どうやら迷子らしいと察した。話を聞くと、公園で暗くなるまで遊んでしまい、帰り道がわからなくなったそうだ。仕方なく、交番まで連れていくことにしたので、この不審な構図が出来上がったのだ。
交番に着くまでに、誰かに通報されたりしないだろうか。

ふと、その子が口を開く。
「おじちゃんはパパなの?」
本当に意味がわからなかったが、単純に考えて子供がいるのかという意味だろうと解釈した。
「おじちゃんはパパじゃないよ、まだ奥さんもいないんだ。」
やはりアルコールは適度に回っているようだ。口調がふわふわしているのを我ながら感じる。
男の子は泣き跡をつけたままにっこりと笑った。
「じゃあ、パパと一緒だね。」
脳がその言葉を処理するよりも先に、間髪入れずその子はまた話し出す。
「パパもね、おくさんいないの。それでね、息子にも愛想つかされて一人なの。」
「...えっと、難しい言葉知ってるんだね...?」
男の子は満面の笑みで、うんと頷いた。

突拍子もない話は交番につくまで続いた。それらは全て、パパの話だった。
『パパはいつもお酒臭い』
『パパは釣りが上手』
『パパはなんでも知ってる物知り』
『パパは僕をからかうのが好き』
『パパは動物が嫌い』
なぜだかそれが、全くの他人事には聞こえなかった。こんな家庭はよくあるのだろうか。

交番のあかりが見えた時、心底安心した。意味のわからない、俺にとって苦い所ばかりを突くこの子の言葉が恐ろしくなっていた頃だった。
交番の前に立ち、扉を開けようとした時、おじちゃん、と消え入りそうな声が聞こえた。
「おじちゃん、僕ね、明日ニワトリさんを自由にしてあげるんだ。」
頭の中で、何かが弾ける音がした。それはきっと、幼い頃に落とした鶏の音だ。
「パパがね、ニワトリさんは空を飛べるのにあんな檻に閉じ込めておくのは可哀想だって。だからね、僕はニワトリさんのためにお空を飛ばせてあげるんだ。」
その笑顔が無邪気で、あの時の俺はこんな顔をしていたのかと胸が締め付けられた。張り裂けてしまえば楽なのにと思った。

「坊主、あのな、鶏は空飛べないんだよ。」
「どうして?」
「あいつは鳥だけど、進化し忘れたんだ。」
「でもね、パパは飛べるって言ってたんだ。」
その子は俺の話を何も聞かなかった。父親が子供にとってどれだけ絶対的な存在か、俺自身が痛感していた。
「おじちゃんは、パパが嫌いなの?」
その目を見ていると、男の子の姿がまるで幼い頃の自分と同じに見えてきた。

あの日、鶏を殺した日、踊り場の鏡で見る自分はとても大人びて見えた。父親を心から軽蔑するようになり、顔を合わせることすら避けるようになった。酒に溺れた父と頭の悪い俺を、母が見捨てて出ていったのは何ら不思議なことではなかった。

「おじちゃん、なんで泣いてるの?」
「ああ、なんでもないんだよ。ただ酒を飲みすぎたんだ。こんな大人になっちゃだめだよ。」
「それはどうだろ。おじちゃんも、そんな大人になりたくなかったでしょ?」
「......そうだなあ...そうだったなあ...」

俺たちが扉の前で話し続けていることを見兼ねたのか、警官が扉を開けた。
「お兄さん、なんか用?」
ふと気づけば、その男の子はいなくなっていた。




幼い頃、自分が何になりたかったのか思い出すことができない。ただ覚えているのは、公園へ行って帰れなくなったこと。一人で泣いていたら、父が慌てて迎えに来てくれたこと。手を繋いで帰っていると、父の酒臭さに何故か安心してしまっていたこと。眠たい俺を背負った父の熱を、今でも鮮明に覚えている。

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