なれなかった青年

水無月六佐

なれなかった青年

 某県、某町の何の変哲もないごく普通の一軒家。そんな家の台所から外に聞こえるほどの怒鳴り声が響いた。


「は!? 今日の晩飯はカレーって言っただろ!?」


 その声の主は特に特筆するような外見でもない、普通の青年である。


「いや、でも、今日はバーゲンで刺身とチキンカツが安く売っていたのよ。カレーは明日作るから」


 青年を宥めている彼の母親も、特に特筆するような外見でもない、普通の母親だ。


「昨日カレーを作るって言ったんだから自分の言葉に責任をもてよ!」


 実にくだらないどこにでもあるような親子喧嘩だった。


「そんな事言ったって…………じゃあ、今からカレー作るわよ」


「今何時だと思ってんだよ! 今から作ってたら野菜の旨味が」


 以下略。この青年はグチグチと五月蠅いタイプである。それに加えて、うだうだと語りながら地団駄を踏み始めた。


「なんで! 急に! 変えるんだよぉぉぉ! なんで! 僕に! 嘘つくんだよぉぉぉぉ!」


「ちょっと! 落ち着いてよ! ……痛っ! 痛いって! ちょっと!」


 青年は気持ちを抑えられなくなり、母親の肩を強く叩き、腰を蹴った。


 涙目で青年を見つめる母親と、『なんでだよぉ……』と、言いながらついに泣き始めた青年。


「そ、そんなに泣かなくても……カレーじゃなかったのがそんなに嫌だったの?」


 青年は、母の問いに答える代わりに、もう一度彼女の腰を蹴った。


「……風呂、入ってくる」


 そう言い残して青年は台所の隣にある風呂場へと向かった。


 青年が台所から去った後に居間から青年の弟が母に駆け寄り、『ママ、大丈夫?』と言いながら母の背中をさする。


 青年はこっそりとその様子を見てから浴室へと入っていった。






「……僕は、何であんなことを」


 浴槽に入った青年はポツリと呟いた。もちろん、返事を求めていない独り言だった。……が。


「なんでって……自分のこーどーのりゆーが分からないのー?」


 青年は目を見開いて、返ってくるはずのない返事がした方に向く。


 するとそこには、齢十歳程の、真っ白な着物を着た少女がイスに座ってニコニコと微笑んでいた。


「……とうとう完全に壊れちまったのかな、僕」


 青年は以前から自分の精神に不安を抱いていた。いつかは幻覚が視えるかもしれないし、幻聴が聞こえるかもしれないとも思っていた。


「さーあ? それはおにーちゃんがよーくわかっていると思うけどなー。こーどーのりゆーも、ホントはわかってるんじゃないの?」


「……」


「ね、それ、わたしに聞かせてよぉー!」


 少女が年相応にせがむ。


「……まあ、いいか」


 青年は、たとえ幻覚だったとしても、誰かに自分の胸の内を話したい気分だった。


「……別に、カレーだけが好きってわけでもない。刺身も、チキンカツも好きだよ。まあ、それはほら、俗にいう、『今はカレーの口だ』とか、『今はラーメンの口だ』とか、そういうやつだよ。……今日はカレーってことくらいしか一日の楽しみもなかったから、ずっとカレーの事を考えて、すっかり『カレーの口』になっていただけだよ」


「……ふーん、楽しいことがごはんだけって……学校とか、楽しくないのー?」


 興味津々と言った様子で食いつくように聞く少女。その様子は知識を欲する子供の様だ。


「楽しくは、ないな。かといって、嫌って言うわけでもない。行かなきゃいけないっていう義務感で、ただボーッとしているだけ、みたいな感じだな」


「……へー。……で、それだけなの?」


 少女は一瞬だけ悲しそうな、寂しそうな表情をしたが、首を振って、また無邪気な笑顔で、青年に聞く。


「……んー、あと、何かな、裏切られたとか、嘘を吐かれたっていう絶望感が込み上げてきたっていうか……こんな事で暴れたいわけじゃない、けど、いつも、しょうもない事で俺の頭の中が真っ白になって、暴れてしまってる」


「おにーちゃん、うらぎられたりー、ウソをつかれることがすっごくこわいんだねー。トラウマってやつー?」


「……まあ、そうなのかもしれないけど」


 信じた人に裏切られて、嘘で塗り固められた、友達という関係は壊れて、皆変わってしまった。イジメ、といっていいものかどうかは青年は判断できないが、あのときの疎外感は青年の心の奥深くに入り込み、学校の楽しさを奪ったのはたしかだ。


「子供の頃はこんな感じじゃなかったはずなんだ。……でも、もうはっきりとは思い出せないんだ」


 青年のその言葉を聞いた瞬間、少女は青年と出会ってから一番の笑顔になった。


 『その言葉を待っていました』と、言わんばかりに。


「……じゃあ、見てみようよ。おにーちゃん」


 何が起こったのか分からないまま、青年は意識を失った。






 青年が目を覚ますと、目の前には小学校があり、自分の横には小さな自分がいた。小学校低学年くらいだろうか。


「……どういうことだよ、これ」


 青年の言葉に児童は反応せず、児童の視線は青年の後ろへと向けられていた。


「おめでとう! 今日から一年生だね!」


 後ろに振り向くと、そこには若かりし頃の母と、父がいた。


「……入学式か」


 今からおよそ十年前の出来事だ。今、自分は確かに過去を見ている。


「お前もこんなに大きくなって! もう立派なお兄ちゃんだな! ……パパはお仕事で夜遅くにしか帰ってこれないから、パパがいないときはママの事を守ってあげるんだぞ!」


「うん!」


 満面の笑みの父と児童。児童は母の方へと向き、笑顔のまま言う。


「ぼくが悪いヤツからママをまもるヒーローになるからね!」


「あら、ありがとう!」


 照れながらもにこやかに微笑む母。


 青年の目の前では、青年が忘れていた過去が繰り広げられていた。


「ああ、そうだった。僕は……」








「ヒーローになりたかったんだ」


 と、呟いたそこは自宅の風呂場だった。


「……いつから夢を見ていたんだろうな」


 青年は微笑んで、風呂場から出た。


 今からでも、遅くはない。




 青年が着替えて居間に向かうと、刺身やチキンカツなどの晩御飯が机に並べられていた。


 弟と母は既に席に座っていた。青年も席に座る。


 開口一番、


「ママは僕が守る。悪いヤツからママを守る」


 と、言った。


















「ママを傷つけるお兄ちゃんから、ママを守る」


 と。
















「ヒーローになれなかったおにーちゃんは、悪いヤツになっていたんだねー。でも、よかったねー、かわりにヒーローになってくれたおとーとがいてー。かんしゃしようねー!」


 クスクス、クスクスと笑う少女。青年の真後ろに立っているが、もうその声はこの場に居る誰一人にも届かなかった。

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