竜と女神と

水無月六佐

平和な時間を過ごす青年

 教室に駆け込み、自分の席についた瞬間に予鈴のチャイムが鳴った。
「ふぅ……ギリギリセーフ!」
 隣の席のハルが安堵の表情を浮かべる。……しかし、息が切れて顔が赤くなっているハルの表情はとても艶っぽく、色っぽい。このようなハルの珍しい表情を見る度に、ハルがどんどん一人前の女性に成長しているということに気づかされる。
「……燐斗ー、鼻の下が伸びてるよ? 何考えてるの?」
「あ、いやいや、なんでもない。なんでもないよ」
 指摘されて慌てて笑ってごまかす。教室で何を考えているんだ俺は! ……それでもハルは訝しげな視線を俺に浴びせるのをやめず、不貞腐れたように続けた。
「……どうせ、竜子ちゃんの事でも思い出してたんでしょ? 美人さんだもんね、竜子ちゃん」
 ぷいっと顔を逸らすハル。……もしかして、拗ねているんだろうか。そんなハルも可愛いが、ずっとこのままにしておくわけにもいかない。
「いやいや、たしかに竜子も美人だけどさ、ハルだって負けず劣らず可愛いって。さっき鼻の下が伸びていたのはハルの顔を見ていたからだし」
 そうだ、竜子は美人だが、ハルは美人と可愛いらしい少女の中間くらいだ。……と、いうか、俺、なかなかこっ恥ずかしい事を言っていないか? 『お前の顔を見ていやらしい事を考えていた』って言ったようなものだし。
「……バカ」
 小さい声で俺をそう罵ると、ハルは机に伏せてしまった。耳が真っ赤になっているので、おそらく照れているんだろう。……怒られなくてよかった、のか?
 しっかし、本当に可愛いなー、俺の幼馴染は……なんて、一か月前の俺ならば思っていたのかもしれないが、今はそうはいかない。そんな事を考えると、竜子やルナの顔が浮かんでしまうようになったからだ。ルナならばまだしも、竜子の今朝の様子からして、他の女の子にデレデレとしていたら俺だけではなくその他大勢の人々の命もヤバい気がする。
 季節は10月になり、少し肌寒くなってきたというのに、額から冷や汗を流していると、前の席の男から眠そうな顔で声をかけられた。
「朝っぱらからいちゃいちゃしやがって……まったく、いくら運命で結ばれた夫婦だからって、少しは自重してくれよ」
 口調は嫌味だが、その表情はニヤニヤと笑っていて、冗談で言っていることが分かる。
「だから、その『運命で結ばれた夫婦』とかいうの、やめてくれよ……」
 クラスメイトの皆から茶化されるときに言われるのが、この『運命で結ばれた夫婦』なのだが、俺たちが幼馴染で、仲が良く、組も幼稚園から現在の高校二年生までずっと同じ、挙句の果てに、席替えのときにいつも隣の席になるという、神のイタズラとしか思えないような出来事が起きていることに所以ゆえんしている。……家に女神がいるので、帰ったら神が人間界に何か変なことをしていないか聞いてみよう。
「いやいや、誰がどう見ても二人は夫婦だって。二人が夫婦と呼ばれるのは運命で仕組まれているんだ!」
 まるで翼を広げる鳥のように腕を大きく広げるクソノッポ。
「まったく……ネタにしやすいからって言われる身にもなってくれよ」
 しかし、『運命で仕組まれている』という点に関しては何度もそう思ったことがあるし、一か月前に竜子たちと運命的な出会いを果たしてからは更にそう思うようになった。……運命関係ならルナも詳しく知っているだろう。説明してくれるかどうかは分からないが。
「そうよ! 大河たいが君! 私たちはまだ付き合っていないんだし!」
 あ、ハルが復活して早々墓穴掘ってる。
「……まだ?」
 ハルが声にならない声を出してまた机に突っ伏せるのを見て楽しそうに笑っているこの男は大河たいが 雄斗ゆうと。俺たちとは中学からの腐れ縁だ。細身で長身、中学生のときはニキビが多かったが今は収まってきている、某『史上最も成功したバンド』のファンである普通の男子高校生だ。中学のときの部活仲間だが、そこまで仲が良いわけでもなく、正真正銘の腐れ縁である。話していてたまに腹が立つことはあるが、決して悪い奴ではない。
「ったく、ハルをからかうのは大概にしてくれよ」
「俺の倉科さんだからな! って事?」
 いや、後々面倒だからというのが一番の理由なのだが。
「……そういうことじゃねえよ。ほら、ホームルーム始まるから前向け。前」
「はいはい」
 笑いながら前を向き、机に突っ伏す大河。寝る気満々だな。


 あんな出来事が起こったのに、学校での時間はこれまで通りに普通に流れていて、特に特筆するようなこともなく、平和な時間が流れ、あっという間に昼休みになった。
 ……いや、これが普通なのだろう。これが、普通だったのだろう。竜に襲われることもなく、癇癪を起こした女神にドス黒いいかづちを当てられそうになったり、命を賭して竜王を抱きしめたりすることもない、ただボーッと授業を聞き流す、この平和な時間こそが俺の普通だったんだ。

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