この広い世界のマイレディ

水無月六佐

静かな森のマイレディ(前)

 とある賑やかな街がある。
 商業が盛んであり、昼は人々の笑い声や怒鳴り声、泣き声、時には叫び声までもが飛び交っており、夜になると酒場の灯りの中に人々の喧騒が聞こえていた。
 そんな街から出て数十分程歩くと、森がある。
 それはそれは静かな、いや、穏やかな森で、時折、動物の鳴き声や風の音、動物に踏まれ木々が折れる音やある少女の歌声などが響いている。
 そんな穏やかな森の丁度中心部には、ある建物がある。
 それは豪邸と言うには些か小さいが、それでも、『立派』だと称するには十分すぎる程の御屋敷だ。
 手入れの行き届いた真っ白で平らな『マグマ石』の外壁に、重厚感のある鉄の扉、まるで小さな城のような外観。
 このように美しい建造物は、賑やかな街の中にもそうそうなく、場所が場所なら観光名所にでもなっていたことだろう。
 しかし、ここは人が滅多に訪れることのない、森の中心部。
 森の中にある建造物はこの御屋敷のみで、木々の中にひっそりと佇んでいるその姿はどこか寂しそうにも見えていた。
 そんな屋敷に住んでいるのは二人の男女。
 この屋敷の主人と、その従者である。
 そんな主人の名は、アグネーゼ。
 アグネーゼ・ファン・パテル。
 齢十九の少女である。
 波のように流れる金色の長い髪、細長く整った眉、神秘的な碧が渦巻く大きな瞳、少しだけ上がっている目尻、ツンとした高い鼻、薄くハリのある薄紅色の唇。
 それら全てのパーツが全て調和されている彼女の顔を一言で表現するのならば、『美』である。
 彼女は少女の可愛さを持ちつつも、男を惑わせる女としての妖艶さも兼ね備えている。
 彼女の従者が言うには、女性の中では背も高く、多少控えめながらも出るべきところはしっかりと出ている彼女の体型は世界有数だと断言できるらしい。
 美しい顔に美しい身体。
 これ以上に表現することのできない、美。
 ただ、彼女の美しさは外見だけではない。
 アグネーゼは純真無垢な少女である。
 木々を愛し、動物たちを慈しむ。
 彼女の歌は木々や動物たちを癒す。
 お気に入りのドレスを着て森を散歩する彼女はいつも子供のように無邪気な笑顔を振りまいていた。
 弱っている動物を見つけると、彼女は一転して穏やかで優しい大人びた笑顔を向け、それを癒す。
 その様子はまるで、美しい一枚の絵のような神々しさを醸し出していた。
 だが、そんな彼女の存在を知る者は少ない。
 ましてや、彼女の姿を見たことがあるのは彼女の親と、従者のみである。
 彼女は森から出たことが一度もない。
 森から出ることは、今は亡き父親や従者に止められているのだ。
 森の外は危険だから。と。
 よって、彼女の世界は自分の家を囲む森の中だけである。
 しかし、彼女はそれを受け入れている。
 彼女が書物から取り入れた情報によると、どうやら森の外では、車輪の付いた椅子に人が座り、それを馬が引っ張るという『乗り物というもの』があるらしい。
 森の外では、人間が人間を殺している事を彼女は知った。
 森の外では金銭狙いの盗賊が蔓延っている事を彼女は知った。
 森の外では危険な生物が暴れまわっている事を彼女は知った。
 なるほど、たしかに危険だ。とアグネーゼは思ったのだ。
 それなら私は森の外になんて出なくていい。と。
 森の中でも、歌は歌える。絵は描ける。お洋服も作れる。本も読める。美味しいお紅茶だって、やろうと思えば自分で淹れられるようになったのだ。と。
 小説で知った『お友達』の存在に憧れることもあったようだが、彼女には森の動物たちがいた。
 うさぎと追いかけっこをしたり、熊とかくれんぼをしたり、小鳥と一緒に歌ったり……
 それに、彼女の事を理解してくれている従者もいる。
 だから彼女が森から出ることはないのだ。
 そんな彼女の従者の名はセス。
 姓は無く、名だけを持つ、齢十九の青年である。
 肩の辺りまで伸ばした細く柔らかな緑髪、少し太めの眉、内に光る青を秘めたやや細い目、高い鼻、ふっくらとした唇。
 その顔は青年というよりは、幼さの残る愛らしい少年のようであり、彼の華奢で比較的小さな身体がそれを強調している。
 彼は物心がついた頃からこの屋敷の執事として働いている。
 アグネーゼが散歩をするときにはいつも隣におり、手が空いている時には、彼女の話し相手となったり、彼女の描いた絵を褒めたり、彼女の歌を静かに聴いたりしている。
 掃除や料理や裁縫などを卒なくこなし、アグネーゼがそれらをやりたいと言えばそれらを一から丁寧に教えていた。
 ただ、料理だけは彼が彼女にさせることは少なかったようだ。
 曰く、刃物を持たせることが心配で仕方がないらしい。
 そんな彼の最近の悩みは洗濯の際に主人が着用した下着に触れなければいけないという、年相応の悩みである。
 これは完全に余談であるが、四年前にアグネーゼの下着が真っ赤に染まった際には二人でパニックに陥ったという、なんとも初なエピソードも存在する。


「今日は歌を歌おうかしら、それとも、絵を描こうかしら……はあ、雨の日って、なんだか暗い気分になってしまうわ……ねえ、セス?」
「はい、御嬢様のおっしゃる通りでございます。雨の日となると、洗濯物の渇きがイマイチでございますし……」
「それに、お外で遊べないわ。せっかく今日はうさぎさんたちと遊ぼうと思っていたのに」
「きっとうさぎ様方も寂しがっている事でしょう」
「ええ、そうね、その代わり、明日晴れたらうんと遊びましょう!」
「そう致しましょう。……僭越ながら御嬢様、街でこのような物を購入してきたのですが、御暇潰しにいかがでしょうか?」
「……何かしら、これ? 四角くて、カラフルで……」
「其方は、『六色箱』というパズルだそうです」
「パズル? パズルというのはバラバラの絵をくっつけるものでしょう?」
「いいえ、御嬢様。パズルというものは様々な種類があるのですよ」
「へぇ、そうなの……! それでそれで!? これはどうやって遊ぶのかしら?」
「では、ご覧ください。このように、列を移動させて……」
「わぁ……! セス! 早くそれを貸してちょうだい! 早く早く!」
「御嬢様、落ち着いてください。まだルールの説明が……」
「面を同じ色にするのでしょう?」
「……その通りでございます」




「セス! セス! どこにいるの!? セス!」
「……御呼びでございますか、御嬢様? ……おお! 完成なされたのですね!」
「ええ! 時間はかかったけれど、途中からはどうすれば色を思い通りに動かせるか少しずつわかってきたの!」
「それはそれは……素晴らしいですね」
「うふふ! これ、とっても面白いわ!」
「それは良かった。ちなみに、そのパズルは色をバラバラにして何度も遊べるそうですよ」
「あら、そうなのね! 次はもっと早く出来るように頑張るわ!」
「その前に、御嬢様。ランチの御時間でございます」
「あら、もうそんな時間なのね!」




「本日のランチはクルミパンとホワイトサラダとビシソワーズでございます」
「あら、この前のスープね!」
「ええ、御嬢様が大層御気に入りなさった御様子だったので」
「ありがとう、セス!」
「いえ、私はアグネーゼ御嬢様の従者ですので、御嬢様の望む御料理を御出しすることは当然の事です」
「それでも、感謝しているわ! セス! さあ、一緒に食べましょう!」
「ええ」




「セス! セス!」
「御呼びでございますか、御嬢様」
「……あら、掃除の途中だったのね! ごめんなさい!」
「いえ、御嬢様が御気になさることではございません……それで、御用件は何でしょうか?」
「あのね、セス! 今からこれをすぐに完成させるから見ていてほしいの!」
「かしこまりました」
「…………………………ほら!」
「……おおっ! 御見事でございます。御嬢様」
「えへへ……」
「しかし、この前のピアノといい、御嬢様は本当に御上達が御早いですね」
「そうかしら! ……そうだ! きっと、貴方が褒めてくれるからだわ!」
「いえいえ、とんでもございません。偏に御嬢様の御力でございますよ。……あ、そうそうディナーは一時間後に御用意いたします」
「はーい。わかったわ」




 ここは屋敷の一室。
 肉を削ぎ落とす音、抉り出す音のみが室内に響いている。
 ブチブチ、グチャグチャ、ブチブチ、グチャグチャ、ズルズル、ズルズル、ブチッ――




「本日のディナーはサフランライスとグリーンサラダ、ポークシチューでございます。デザートにはプリンも御用意しておりますよ」
「今日も美味しそうね!」
「ええ、毎日腕によりをかけて作っておりますので」
「……セス、今日も貴方のお肉料理だけ、私と違うの?」
「ええ。肉は貴重なものですので。私は安い肉を炒めたもので十分でございますよ」
「……我慢しなくていいのに。貴方はいつも、頑張ってくれているのに」
「いいのです。御嬢様に私が作った料理を美味しく召し上がっていただく、それだけで私は十分でございますので」
「…………」
「……どうか、そんな御顔をなさらないでください。御嬢様が幸せそうな顔をしていれば私も幸せなのですから」
「……いただきます」
「ええ、どうぞ」
「…………私は、セスの幸せそうな顔も見たいわ」




「セス! 見て! 見て! すっごく、晴れてるわ!」
「ええ、絶好の散歩日和でございますね」
「うさぎさんと遊ぶわ!」
「ええ、そう致しましょう。ですが御嬢様、その前に朝食を召し上がっていただきますよ」
「ええ、そうね! どこかの国にも『腹が減っては戦が出来ぬ』という『古言葉』があるものね! 本で読んだわ!」
「ふふ、御嬢様は博識でいらっしゃいますねぇ」
「もう、セスだって知ってたでしょう? 私が小さい時にその言葉が書かれた本を読み聞かせてくれたのだから!」
「おや、そうでしたか……申し訳ございません、御嬢様、私がその本を読んだのは一度限りですので、すっかり忘れておりました」
「むぅ……セスに読み聞かせてもらった本だから後で何回も読んで全部覚えたのに……」
「え……全部、でございますか?」
「ええ、全部よ! 今からでも本文を全部言えるわ! えっとね……」
「お、御嬢様、先程思い出しました私の微々たる記憶によりますと、その本はかなりの分厚さを誇っていたはずでございます。このままではうさぎ様方と御遊びする時間が無くなってしまいますよ」
「あ……それもそうね。さっきの続きはまた今度にするわ!」
「ええ、それが良いでしょう」




「本日の朝食はレーズンパン、ソーセージの赤ワイン煮、フライドエッグでございます」
「あ、セス! 飲み物はカフェオレがいいわ!」
「かしこまりました」
「むぐむぐ……やっぱり、セスが作るパンは美味しいわ!」
「ありがとうございます……カフェオレでございます」
「ありがとう! ……ああッ! セス! 貴方のお皿にはソーセージがないわ!」
「昨夜も申し上げましたが、肉は貴重なものですので」
「むううぅぅぅぅぅーーー……ッ! セスッ! そういうのはよくないと思うのっ!」
「よくない……でございますか?」
「そう! ……セスッ! こちらに来なさい!」
「……かしこまりました」
「……はい、あーん!」
「……え?」
「だーかーらー! 『あーん』よ! ほら、ソーセージを食べさせてあげるから、口を開けなさい! セス!」
「え、いえ、あの」
「セースゥー……? ……私から食べさせられるの、いやなのー……?」
「いえ、とんでもありません……ええ、ありがたく、いただきます」
「ん! ……どう? 美味しい?」
「……ええ、美味しいです」
「もう! セス! 美味しいときは笑わないと!」
「ええ、そうですね。……こう、でございますか?」
「そう! それでいいの!」




「うふふ! うさぎさん! 待ってー!」
「御嬢様、転ばないように御気をつけください!」
「わかっているわ! いつもの事ですもの! ……きゃああぁッ!」
「御嬢様ッ!」
「いたた……ごめんなさい、セス」
「……お怪我はありませんか?」
「ええ、平気よ。このくらい。私は昔から身体が丈夫ですもの!」
「ええ、それは存じ上げておりますが……」
「本当に大丈夫よ! ……心配かけて、本当にごめんなさいね、セス……あらあら! うさぎさん達まで! 心配かけてごめんなさいね!」
「……さて、そろそろランチに致しましょう。うさぎ様方も、御一緒にどうぞ」
「わあ! サンドイッチ! うさぎさん達の分の人参もあるわ!」
「ええ、大人数で食べる方が美味しいですからね」
「ええ! ええ! その通りよね! セス!」
「では、敷物の用意をさせていただきますので少々御待ちくださいね」




「美味しかったぁー!」
「それはよかったです。では、御嬢様、引き続きうさぎ様方と…………申し訳ございません、御嬢様、そろそろ屋敷へ帰りましょう。雨が降るようです」
「えっ!? まあ大変! うさぎさん達も、早くおうちに帰った方がいいわ! 今日もありがとう! 楽しかったわ!」




「むぅー、また雨……」
「最近は多いですね……洗濯物が心配でございます」
「そうね、晴れた日に洗濯したドレスの方がお日様の香りがして気持ちがいいものね!」
「ええ、御嬢様の仰る通りでございます……しかし、食料などの備蓄はまだ余裕がありますので、この雨の中街へと買い出しに行かなくてよいのは幸いでした」
「そうね、雨の日は地面がぬかるんで歩きにくいですものね。ただでさえセスは夜に買い出しに行くのに、こんな大雨と重なってしまったら……もしも貴方が怪我をしてしまったら大変だわ!」
「それは問題ありませんよ、御嬢様。私も身体だけは丈夫ですから」
「それでも、セスが怪我をしてしまったら私の心も痛んでしまうわ」
「ッ! そう、でございますね……御安心を、御嬢様。怪我をしないように極力、気をつけますから」
「……うん。私も、今日は心配をかけて、ごめんなさいね。私が怪我をすると、貴方の心も痛んでしまうわよね」
「ええ、私は御嬢様が苦しむ姿を見る事だけは耐えられませんので……おや?」
「ッ!? な、何の音かしらッ!?」
「呼び鈴でございますよ。……どうやら、来客のようですね」
「えぇ!? 来客!?」
「ええ、来客なんて、何時ぶりでしょうかねぇ……」




「いやぁ、すいません! 旅の途中でこの大雨に見舞われまして、とりあえず雨を凌ごうと森に入ってしまいました! 私有地とは知らず、申し訳ない! おまけに、こんなに立派な服まで貸していただいて……」
「お気になさらないで! 雨で濡れるのを避けたいと思うのは当然の事ですもの! それにしても、お客様なんて初めてっ! ねえ、あなた旅の御方なのよね? お話を聞かせてくださる!?」
「え、あの……」
「御嬢様、落ち着いてください。……申し訳ありません、御客人が訪れることは御嬢様にとって初めての事でございますので」
「いえいえ! 非は確実に私にありますんで……しかし、美しい御嬢様ですねぇ!」
「ええそうでしょうとも、御嬢様は世界一美しいのです。例えば、窓の外を見つめる御嬢様のツンとした御鼻やパッチリとした大きな瞳がそれはもう」
「セス、落ち着いて」
「……そうですね。御嬢様の美しさは後程語る事にしましょう」
「セス、落ち着いてる?」
「ええ、落ち着いておりますとも。……それでは、私はディナーの用意を致しますので、御嬢様と御客人はダイニングで御待ちください」
「はーい!」
「ええ、わかりました!」




 肉を削ぎ落とす音が、響いている。
 いや、それだけではない。
「久方ぶりに御客人がいらっしゃったんですよ。何やら誤って森の中に入って迷った上に雨に見舞われてしまったようで、どうにかこの屋敷に辿り着いたそうです。さて、いつにも増して腕によりをかけないといけませんね」


 大変愛らしい、耳に心地良い声も、室内に響いていた。



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