呪い

水無月六佐

呪い

 人を呪わば穴二つ、という言葉がある。
 他人に害を与えれば、必ず自分に返ってくるものであるという例えである。
 他人を呪い殺せば、自分も相手の恨みの報いを受けて呪い殺され、相手と自分の分で墓穴が二つ必要になる。
 だから、人を呪わば穴二つなのだ。
 また、新約聖書に収められている『マタイの福音書』の二十六章五十二節において、このように記されている。
『あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる』
 要するに、自制心を持たずに他人を傷つけようとしたものは他人から傷つけられるという戒めみたいなものだろう。
 他にも、どこぞの哲学者が『人を祈らば穴二つ』などという言葉を遺しているし、『人を謀れば人に謀らる』なんて言葉も存在する。
 他にもまだまだある。
 人を憎むは身を憎む、人を呪えば身を呪う、人を傷る者は己を傷る、呪いは雛鳥のようにねぐらへ戻ってくる……と、例を挙げればキリがないので、この辺にしておくとして。
このような『誰かに対して負の感情を向けるな。常に人を思いやれ。さもなくば自分が痛い目を見るぞ』というような意味が込められている言葉が多数見受けられるのは、この世の中が『かくあるべし』としているからなのだろう。
 で、あるならば。
 そうであるならば、私もいつかきっと、その『痛い目』とやらを見るのだろう。




 さて、私が初めて人を呪ったのは、いつだっただろうか……よくは覚えていないが、そのきっかけは、まだまだ私が女児だったくらいの年齢の頃にあったはずだ。
 女児は女児でも、かなり可愛いレヴェルのトップ女児だったと自認している。
 ――あ、そうそう。私の名前は『紗夜楢 奏音』だ。
 ……気は向かないが、読めない人もいただろうから、もう一度だけ分かりやすく言おう。
 私の名前は、『さよなら かのん』だ。
 一度目で読めた人も、二度目で読めた人も、大体は同じ感想を抱いたことだろう。
 変な苗字だな。と。
 私もそう思う。こんな苗字でさえなかったならと、考えなかった日はない。私の先祖は何がどうなってこの苗字を名乗ることになったのだろうか。誰かこの『さよなら』の意味を教えてくれないだろうか。
 しかし、私がソレを嫌ったところでどうしようもないのだ。
 私がこの名前を嫌だ嫌だと思えば思うほど、自分がどうしようもなく『さよならかのん』だと思い知らされるのだから。
 私がこの苗字について何かを考えること自体が私を『さよならかのん』足らしめているのだ。
 ――いや、話が脱線してなどはいない。私が初めて人を呪った話と私の名前、いや、正確には苗字だが、この話は地続きで繋がっているからだ。
 先ほど御存知になったとおり、私の苗字は変である。
 言い換えれば、『奇異』である。
 奇異な者が自身を『普通』だと認識している人間によって不利益を被るのは世の常である。
 それが、年端もいかない子供ともなれば、『奇異』の範囲もそれに対する反応も格段に大きなものになる。
 まあ、要するに、この苗字のせいで私は同級生から、からかわれていたのだ。
 無理もないことだろう。私にだってその気持ちはわかる。もしも反対の立場だったら私だって嬉々としてからかっていただろうし。
 と、ここで一つ、『人が変わった』という言葉があるが、その時の私はソレを嫌と言う程痛感した。
 初めは私を慰めていた人々も、次第に私をからかってくるようになってきた。
 人は、変わるものなのだ。
 そして、人間というものは特に、事悪ふざけというものに関しては『停滞』を嫌う生き物である。
最初は名乗るたびに笑われる程度のものだったのが、ある時期から『さよなら』と言われ私だけ仲間外れにされるようになった。
 そのように同級生の悪ふざけは次第にエスカレートしていった。
 さよならー、という声が聞こえたかと思うと、車道や線路に押し出されたり押し出されそうになったりと、いよいよ私をこの世から『さよなら』させようとしてきたのだ。
 果たしてこのような状況で人を思いやったり人々の幸せを祈ったりできるだろうか。
 それができるとすれば、その人は余程の聖人か、超ド級の馬鹿、あるいはその両方を兼ね備えた聖人馬鹿だろう。
 もちろん私は聖人でも超ド級の馬鹿でもない。
 そんな私はどのような行動をとったか。
 呪いに縋ったのだ。
 ――いや、これには少し、語弊があるだろう。正確には『気が付けば自分の負の感情が呪いの域に達していた』とでもいうべきだ。
 意識して無形物に縋るなんてありえないだろう。
 呪いなんてものは、気が付けば手にしているようなものなのだ。
 呪おうなんて思ってもいない。
 ただただ、『自分に危害を加えてくる人々が一人残らず惨たらしく死ね』と思っただけだ。
 ……これを呪いだと判断する人は少ないのだろう。
 なぜなら、誰かに『死ね』と思う事など、人間が生きている内に一度は思う事だからである。
 誰にだって、その対象はいるはずだ。
 例えば、反りが合わない知り合いや友達、必要以上に厳しい教師、なかなか単位をくれない教授、不在であるはずの研究室のポストにレポートを提出したらその十分程後に再提出を促す長文メールを送ってきた教授、等々だ。
 誰しもが一度は誰かに対して『死ね』と思うのであれば、私のソレも『呪い』などという大それたものではなく、ただの思想に過ぎないといえるかもしれない。
 ここで私は考える。
 それでは、呪いと『死ねと思うだけ』の違いは果たして何なのだろうか、と。
 もちろん私はその答えを得ている。
 呪いとは結果論なのだ。
 誰かに対して『死ね』と思い、その通りに本当に死んだらそれは『呪い』で、死ななければただの『思想』に過ぎない。


 ならばやはり、私のソレは『呪い』なのだ。
 そう、私が『死ね』と思った人々は、私の思い通りに惨たらしく死んだのだ。
 一人は下校中に工事機材が上空から落ちてきて串刺しになった。一人は実家の手伝いをしていたら機械に巻き込まれてミンチになった。一人は破産した父親の無理心中に巻き込まれて死んだ。一人は夜道を歩いていたら見知らぬ男に純潔を散らされ、自分で首を吊った。そして最後の一人は行方不明になっていたが、後に、行方不明になった当日にバラバラ死体と化していた事が判明した。
 と、これら全ての出来事が一日の内に起こったのだ。
 串刺しに関しては、本人にしてみると即死なので、惨たらしい死に方ではないと思うのだが、第三者からしてみればその様子は生命に対する冒涜のようであるので、まあ、残酷な死に方である事にしておく。
 もしもこの同日内の同級生の死が偶然であるとでも言おうものならば、生きている内に起こりうる出来事全てが必然と化してしまうだろう。
 ちなみに、これを知った当時の私の反応は、真顔のまま『えー、本当に惨たらしく死んじゃったよ……』と、これでもか、というほどドン引きするというものだった。
 しかし、メンタルの強さには自分からの定評を得ている私は一時間後には授業を受けながらほくそ笑んでいた。


 察しの良い人はお気づきだろうが、私が人を呪ったのはこれが最後ではない。
 生きていく中で他人に対して『死ね』と思う事自体は普通だと先程私は述べた。
 私もその例に漏れることはなく、事あるごとに他人に対して『死ね』と思って生きてきた。
 そうしたらもう、死ぬわ死ぬわの大祭りだ。
 え? 私って六月六日に産まれた悪魔の子だったんですか? オーなメン的なアレだったんですか? と思ってしまうほどにはみんなが死んだ。
 しかし、私が何かしらの罪に問われる事はない。
 私はただ『死ね』と思っただけであって直接的な死因とは関係がないからだ。
 余談ではあるが、人を呪って死に至らしめたときは、一応私は凹む。
 うわー、またやってしまった。と。
 しかし、私の長所である立ち直りというか開き直りの早さによって、毎度のように『ま、いいか』という考えに至ってしまうのだ。
 ――そろそろこの話にも飽きてきた頃合いだろうか?
 人に『死ね』と思ったら本当に死にましたの連続じゃねえか。と。
 それならば、そろそろ話が地味に変わってくる……いや、変わりはしないのだと思うが、スケールはでっかくなると思うのでもう少しだけお付き合い願おう。


 私は大学生になったのだ。
 受験生らしい勉強をしたことはなかったが、地元では名の売れた、家から近い大学に受かることができた。
 ちなみに、学部は法学部だ。
 散々人々を呪い、死に至らしめた自分が秩序を謳う法学部に入るなんて、相当な笑い話だろう。
 と、ただそれだけのくだらない志望理由だった。
 まあこれは、そんな私を合格させた大学側に非があるだろう。
 だが、思った以上に法学部の講義は楽しめた。
 特に、刑法の講義、アレはよかった。
 その講義の初回の内容の一部に、こんなものがあった。
 誰かが人を呪ってその対象が死んだとしたら、呪った人間に殺人罪が適用されるのか。というものだ。
 結論だけ言うのならば、その答えは『いいえ』だ。
 時代が時代ならば話は違ったのかもしれないが、少なくとも、現代のこの国の法では、人を呪い、死に至らしめた人間に殺人の罪を科すことはできない。
 まあ、当然のことと思っていたわけだが、法学部の講義という場で改めてそれを聞くと、なんだか安心した。
 ああ、やっぱり自分は、悪くないのだ。と。
 そして、安心した私の意識は別の方向へと向いた。
 この講義をしている教授、不快だな。と。
 人を呪ってその対象が死んだところで殺人罪が科されない事など、誰もが当然だと思っているはずだろう。
 しかしこの教授はあたかも『人を呪い、死に至らしめた人間に殺人の罪を科すことができる』かのような解説をした後で、一人の学生に『人を呪い、死に至らしめた人間に殺人の罪を科すことができるか』という質問をした。
 当然、学生は迷いながらも、『教授がああ言っていたから』と、『はい』と答える。
 するとその教授はその答えを鼻で笑いながらそれを否定し、解説をし直す、という寸法だ。
 私がその教授のやり方に対して不快に思ったのか、呪いをバカにしているように感じ取ったのかは定かではないが、私はこう思った。
 大学の教壇に立ち、偉そうに講義をしている人間は死ね。と。


 その日、我が国の大学教授の大半が死んだ。


 そう、やらかしてしまったのだ。
 寧ろ今までよくやらかさなかったなと褒めていただきたいところだが、当時の私はこう思った。
 うわー、やっちゃったよ。と。
 百パーセント有り得ないが、もし仮にこれがウェブにアップロードされているような小説だったのなら、不適切不謹慎な事この上ないぞ。と。
 まあ、それは絶対に有り得ない話なのでその話はおいておくとして。
 その事を知った私は今までの非ではないくらいの死者の数に、私は人生最大のドン引きを見せた。
 呪いで人を殺した人間に殺人罪は科されません。と笑いながら解説していた教授ももうこの世にはいない。彼はもう二度とD評価をばら撒くことは出来ないのである。
 そして彼と同じような教授も沢山いなくなってしまった。
 そう思うとしんみりしないでもなかった。
 例によって例のごとく、その三十分後には自宅でバラエティ番組を見ながら大笑いをしていた訳だが。


 幸運にも次の日から二週間、大学が休校となったので私は自宅で寝そべり、報道番組を観ながら、ある試みに出た。
 ニュースの原稿を読み上げている人間は死ね。と、そう思った。
 スマホを起動してソーシャルゲームをやっていると、テレビから甲高い悲鳴が聞こえてきた。
 チャンネルを切り替えると、全ての報道番組から叫び声が聞こえた。
 その死に方は多種多様で、突然倒れたり、スタジオにトラックが突っ込んできたり、銃を持った男がスタジオ内に立てこもった挙句に……というものであった。
 それを確認した私は睡魔に襲われて昼寝をした。
 私が起きたのは夜頃だったが、その時に放送されている報道番組はいつも通りに行われていて、特に異常はなかった。異常な同時多発事件に関する報道を正常に行っていた訳だ。
 そこでもう一度同じように、『ニュースの原稿を読み上げている人間は死ね』と思ったところ、人々はまた死んでいった。
 こうした調べで分かったことは、このような呪いは私の意識がある内は効果が発動し、私が意識を失うとその効力も失われるというものだ。
 そして、この場合の呪いの効力は国内のみであるが、やろうと思えばその範囲を拡大することも出来た。
 もちろん、その事によって死んだ人間が戻ってきたりはしないが。
 このときから私は人を呪うことに楽しみを覚えた。
 私は色々な呪いを作ってみた。
 シャープペンシルの芯を交換している人間は死ね。林檎の皮を剥いている人間は死ね。お辞儀をしている人間は死ね。文字を書いている人間は死ね――
 要するに、人々が普段とる何気ない行動が呪いに大変身してしまった訳である。
 人々はパニックに陥り、原因を解明しようとするが、それには至らなかった。
 まあ、解明出来たら私が吃驚する訳だが。もちろん、その後に死に至らしめるとは思うが。


 大学の休校が終わったころには、人類の数がかなり削られていた。
 講義は生きている人間のみで辛うじて行われていたものの、人々の顔色は驚くべき程に真っ青だったし、街ですれ違う人々もどこか怯えている様子だった。
 そこで私は『私とすれ違った人間は死ね』などと考えながら、優越感に満たされていた。
 親や親戚に先立たれ、行くところ行くところで虐められた自分のような天涯孤独の人間でも、このように人の生命与奪権を持つことが出来る。
 そう思うと、なんだか嬉しかった。
 ――そうそう、人間というものは、『事悪ふざけというものに関しては<停滞>を嫌う生き物である』と私は述べたが、この私の悪ふざけも例外ではない。
 某地域に住む人間は皆死ね。
 某地域に住む人間は皆死んだ。
 某大陸国に住む人間は皆死ね。
 某大陸国に住む人間は皆死んだ。
 日本以外の国々に住む人間は皆死ね。
 日本以外の国々に住む人間は皆死んだ。
 日本死ね。
 日本は死んだ。
 日本だけ僅かに違うのは、流行語大賞にノミネートされていたのが原因だろう。原因は全てこの言葉を考えた人間にある。
 だが安心してほしい。
 その人間も日本と共に死んだ。
 さて、ここで一つ問題が発生した。
 日本以外の場合は人々が死んだだけだが、日本の場合は日本が死んだのだ。
 この場合の日本というのは、その土地全てである。
 日本の人々はもちろん、動物や建造物、土壌、空気全てが死んで無に帰した。
 と、いうことは、私も死ぬわけである。
 それを察した私は、こう思った。
 私の肉体は精神だけをその場に遺して死ね。と。
 こうして、現在の私が完成した。
 肉体は無く、永遠に広がる無の中を漂う精神体だ。
 意識を失う事などなくただただ漂っている。
 しかし、私はそれを辛いなどとは思わない。
 なぜなら、現に今、このように別の世界にアクションを取ることが出来ているのだから。
 ややこしい話だが、『無』が無ければ『有』は存在しない。つまり、無とは即ち、全てに通じているのだ。
 だから、別の世界にコンタクトをとる事だって可能だし、こうやって自分の話をする事もできる。


 ――あ、そうそう、先程、新しい『呪い』を作ったのだが、どんな呪いかわかるだろうか?


 それでは、私はこの辺で失礼しよう。          


 さよなら。



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