永久凍土の御曹司
8
「兄ちゃんは健康そうな身体を持っているし、何より若いだろう?ああ、その背広を当たり前のように着ている生活じゃ思いつかないだろうが、五体満足なだけで充分稼げる。仕事を選ばなければ、の話だが。
さっきも言ったろ、身体壊してから住むところもないどん詰まりの人間は戸籍を売るしかない。50万、いや足元を見て買いたたかれれば20万円だ。当然、国民としての権利はなくなるのも道理だろ。健康保険も利かないから、風邪が命取りになりかねない。
そこまで兄ちゃんは切羽詰まってないんだよ。自分で思っているほどにはな。
身体も細っこいが、仕事においおい慣れて行くと立派になる。
一日を汗水たらして精一杯働いた後に呑むワンカップの味は格別だ。仕事終わりにこの酒を飲むだけで『生きていて良かった』と心も体も実感するようになるってもんよ。
オレは腰をやられて今は現場の手伝いというか、親しくしている小さな建築会社の親父さんにバイトみたいな形で雇われている」
その言葉を聞いて、目から鱗が落ちたというか私の「誤った」矜持が音もなく崩れていくような気がした。
男の後をついて歩いて行く。カンカンと鉄の音を立てる外付けの階段を上って「文化住宅」――確かそんな名前だったような気がする――の薄い戸を開ける男の後ろに佇んでいた。
「狭い所だが、ま、遠慮なく入ってくれ」
室内は意外にも掃除が行き届いていた。しかもその部屋の真ん中には炬燵《こたつ》が有ってその上にはミカンの籠が載っていた。建物こそ古びているものの、部屋の中は清々しい感じで、警戒心など雲散霧消していた。
勧められるままに炬燵に足を入れて、みかんを食べるというそれだけのことで自分以外の人を隔てていた氷の壁がオレンジ色の夏の太陽に照らされたように溶けていく。炬燵と、みかんの色がお日様を連想させたからだろうか。
「お兄さんはさ、その育ちでは無理もないが……、まずは知り合った人で、コイツは信頼出来そうだと判断した人間に心を開いてみることから始めないとな……。人と人との付き合い次第で、いくらでも心は温かくなる。兄ちゃんが自分の汗水たらして働けるようになるまでは部屋を共有するから、真っ当な人としての『温もり』を体験してみたらどうだ?」
「そうですね。しかし、どうして私にそのようなご厚意を?」
近藤明と名乗った――ホームレス風に見えたのは銭湯とコインランドリー代金を節約していたらしかった――彼はオレンジ色のみかんの皮を剥きながら意味深長な笑みを浮かべていた。
「それはな、実は兄ちゃんよかもっといい暮らしをしていた。親の財産で。それが没落して墜ちるトコまで落ちた。だから、他人事とは思えなかった。着ている物とかでだいたいの事情は察したから。
もう、オレはこんな身体だし無理も利かない。だから兄ちゃんを応援しようと思っただけだ」
その太陽に似た笑みを見た瞬間に、心の中の氷の壁が夏の陽射しを浴びたように水蒸気となっていくのを感じた。
そして、汗水をたらした仕事を一日中やり遂げて、夕方にはこの人と「二人」で酒を酌み交わそうと決意した。
きっと、それだけで充足感に満ちた暮らしだと実感出来るだろう。
ミカンの黄色が全ての氷を溶かす太陽の色に輝いていた。心の中の凍土を溶かすには充分なほどの光りを放っているような気がした。
さっきも言ったろ、身体壊してから住むところもないどん詰まりの人間は戸籍を売るしかない。50万、いや足元を見て買いたたかれれば20万円だ。当然、国民としての権利はなくなるのも道理だろ。健康保険も利かないから、風邪が命取りになりかねない。
そこまで兄ちゃんは切羽詰まってないんだよ。自分で思っているほどにはな。
身体も細っこいが、仕事においおい慣れて行くと立派になる。
一日を汗水たらして精一杯働いた後に呑むワンカップの味は格別だ。仕事終わりにこの酒を飲むだけで『生きていて良かった』と心も体も実感するようになるってもんよ。
オレは腰をやられて今は現場の手伝いというか、親しくしている小さな建築会社の親父さんにバイトみたいな形で雇われている」
その言葉を聞いて、目から鱗が落ちたというか私の「誤った」矜持が音もなく崩れていくような気がした。
男の後をついて歩いて行く。カンカンと鉄の音を立てる外付けの階段を上って「文化住宅」――確かそんな名前だったような気がする――の薄い戸を開ける男の後ろに佇んでいた。
「狭い所だが、ま、遠慮なく入ってくれ」
室内は意外にも掃除が行き届いていた。しかもその部屋の真ん中には炬燵《こたつ》が有ってその上にはミカンの籠が載っていた。建物こそ古びているものの、部屋の中は清々しい感じで、警戒心など雲散霧消していた。
勧められるままに炬燵に足を入れて、みかんを食べるというそれだけのことで自分以外の人を隔てていた氷の壁がオレンジ色の夏の太陽に照らされたように溶けていく。炬燵と、みかんの色がお日様を連想させたからだろうか。
「お兄さんはさ、その育ちでは無理もないが……、まずは知り合った人で、コイツは信頼出来そうだと判断した人間に心を開いてみることから始めないとな……。人と人との付き合い次第で、いくらでも心は温かくなる。兄ちゃんが自分の汗水たらして働けるようになるまでは部屋を共有するから、真っ当な人としての『温もり』を体験してみたらどうだ?」
「そうですね。しかし、どうして私にそのようなご厚意を?」
近藤明と名乗った――ホームレス風に見えたのは銭湯とコインランドリー代金を節約していたらしかった――彼はオレンジ色のみかんの皮を剥きながら意味深長な笑みを浮かべていた。
「それはな、実は兄ちゃんよかもっといい暮らしをしていた。親の財産で。それが没落して墜ちるトコまで落ちた。だから、他人事とは思えなかった。着ている物とかでだいたいの事情は察したから。
もう、オレはこんな身体だし無理も利かない。だから兄ちゃんを応援しようと思っただけだ」
その太陽に似た笑みを見た瞬間に、心の中の氷の壁が夏の陽射しを浴びたように水蒸気となっていくのを感じた。
そして、汗水をたらした仕事を一日中やり遂げて、夕方にはこの人と「二人」で酒を酌み交わそうと決意した。
きっと、それだけで充足感に満ちた暮らしだと実感出来るだろう。
ミカンの黄色が全ての氷を溶かす太陽の色に輝いていた。心の中の凍土を溶かすには充分なほどの光りを放っているような気がした。
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