神殿の月

こうやまみか

33

 他人がどう思おうとも神の御心に沿うようにと生きてきたキリヤにとっては生まれて初めての気持ちの揺らぎだった。
 ただ、そんな心持ちが聖神官の長として相応しいかどうかを自問自答すると答えは「否」だったが、芽生えてしまったからには消すことも不可能な想いだ。
 そういう自分を向かい合って座って食事を共にするファロスには気取られないようにと思いつつ匙を動かしていた、味など全く分からないままに。
「そうですか。古えの英雄もそのような苦悩を抱えていたのかと思うと、少しは気が楽になります。
 ただ、あの御方のように緻密かつ独創的な鬼謀を考え出す卓越した頭脳は持ち合わせておりませんが」
 ファロスが黒い瞳を黒曜石のように光らせてキリヤを見ている。ただ、それだけのことなのに、心臓が大きく波打ったような気がして食事に専念しているていを装った。
「あの方が人であった時代は戦が日常茶飯事だったので、その必要に迫られてのことだろう。今のように各国がそれなりの均衡を保っている上に国と国とが婚姻で結ばれている今とは異なって。
 そういう必要に迫られてという側面が大きかったのではないかと私は見ている」
 ファロスの黒曜石の瞳が感心した光を帯びてキリヤを見詰めた。
「なるほど、時代の申し子という側面も有ったのですね。確かにあの時代は未だ国境が定まっておらず、しかも野心家の王が多数出たという歴史上も珍しい頃の話ですから。
 そういう風雲急を告げる時代には普段から『攻め込まれたらどうするか』を常に考えておかねばなりません。
 そういう意味では今の殆んど戦さがない時代は幸せかもしれませんが、戦神の深謀遠慮ではなくて、力攻めでどうにかなると思っている両国に一泡吹かせたいものです。
 夜も更けて参りましたが、キリヤ様はお休みにならなくても大丈夫なのですか?」
 ファロスの瞳に心配そうな光が灯っている。黒い瞳なのにどこか眩げで、キリヤの額飾りの月を象った銀細工によりいっそうの煌めきを与えてくれているような気がする。
「私は大丈夫だ。むしろ、このようなことを話せる人間が居たという方が……とても嬉しい」
 ファロスの瞳が夜の太陽とでも表現したくなる輝きを放っている。その薄い唇からどんな言葉が出るのかキリヤは内心、心待ちにしていた。

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