神殿の月

こうやまみか

12

「聖神官長様、大神官様がお呼びでございます。どうしても断れない御方からのみそぎをと申し付かったようで……」
 先程の神官見習いの声が扉越しに聞こえた。
 キリヤは月の蒼い光のようなため息を零すとファロスへと諦念の混じった眼差しを向けた。
「戦の前だから……。神殿にとっては最も賑わう――俗世で言う『書き入れ時』だ――。
 エレア、その客人の名前は聞いたか?」
 扉の向こうの神官見習いのエレアに向かって話している時のキリヤの声は先程までの理知的ながらも、どこか楽しげな感じではなく、聖神官の荘厳さに満ちていた。
「はい、エルタニアの宰相殿でございます」
 その言葉を聞いたキリヤのほの紅い唇が三日月のような形と艶やかさ、そしてどこか楽しそうな感じに吊り上がった。
 エルタニア国はファロスの国に宣戦布告を突如として出した王国だった。
「ファロス……。私は禊に参るが、半刻、いや一刻で戻るゆえ待っていてくれないか?」
 キリヤの繊細な美貌が切なそうに揺れているのは蝋燭の灯りのせいではないだろう。
「もちろんです。我が軍は国王陛下の命令の元、全ての戦支度を終えて明朝の出陣に備えておりますので、参謀の出る幕はもうございません。戦神のご加護をあまねく授けるのが聖神官のお役目でございましょう」
 胸が焦がれるように、そして身体が引き裂かれるような痛みを感じながらもファロスは笑みを取り繕った。
 それに、キリヤ様が、禊と称してエルタニア国の最も新しい状況を寝物語に聞いてきてくれるかも知れないという一抹の期待も抱いていたので尚更に引き止めるわけにはいかない。
「では、この部屋の壁の地図だけでなく、全ての書物を読むなり食事の続きをするなりして待っていて欲しい」
 キリヤがファロスに先程と同じような人の子めいた笑みを浮かべているのが救いだったが。
「分かりました。この部屋には私にとって興味深い物の宝庫でございますので時を忘れてしまいそうです。一刻でもそれ以上でもお待ちしております」
 もう少し語り合いたいという気持ち――キリヤ様の美貌としなやかな肢体のせいか、それとも単純に同じ程度に話せる相手だからという理由なのかはファロス自身も判然としないままキリヤ様を見送った。
 キリヤ様が滑るような足取りで部屋を出て行った後には、先程まで熱心に見ていた地図も何だか急に興味を失ってしまっていた。


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