黒い花

島倉大大主

第二章:田沢京子 9

「それで、どういう塩梅ですか?」
 野町の声に中村は我に返った。階段の手摺に掴まり、振り返る。
「三時間前に通報がありまして、それがその……妙な事が起きたんです。で、手におえない旨を報告した次第です。ところで随分と早く到着されましたね」
「いやあ、丁度この近くに来る用事がありましてね。で、妙な事というのは、どういった感じの事が起きた、もしくは起きたように感じたんですか?」
 なるほど、こいつらは本当に専門家なんだな、と中村は思いながら階段を登り切り、手帳を取り出した。
「まず通報の内容ですが、息子の腕と足が突然無くなった『気がする』というものでした。自分が玄関であなたをご案内した伊藤と到着後、聞き取りをしたんですが、その……」
 言いよどむ中村。手帳に書かれたことは、読み直せば読み直すほど、正気の沙汰とは思えない。こんな事を他人に真顔で言っていいものなのだろうか?
 野町は笑顔になると、壁にもたれかかった。
「いやあ、それにしても今日は暑いっすなあ。こんなくそ暑い日に敬語でお話ってのもねえ。ホントの所はビールをおありながら話す類の変な話なんでしょう? ビールはまだ早いんでね、とりあえず敬語は外しましょうや。いや、少なくても中村さんは外しましょう。俺の方が年下っすから」
 中村はうーん、と唸ると額の汗をぬぐった。
「どうにも、こういうのはね……あんたらの噂は聞いてたんだが、その、実際巻き込まれると、足元がぐらぐらする感じがしちゃって」
「ああ、判りますよ。常識が変わっちまうのは気持ち悪いもんです。ぶっちゃけると俺は使いっぱみたいなもんでしてね、毎回毎回、滅茶苦茶な物を見ちまって大変なんすよ。荒事があるから来てくれってんで転属しましたがね、まさか六歳の子供に、片手でぶん投げられる日がくるとは思いませんでしたよ」
 野町の情けなさそうな笑顔に、中村は釣られて笑ってしまった。
「そりゃ、大変だな。よし、とにかく話そう。
 通報があって駆け付けて、在宅中の母親に話を聞いたんだが『突然、息子の左腕と左足が無くなった気がする』と言う。気がする、とはどういう事だとつっこんで聞くと、『前からそうだったかもしれない』と言い始めた。
 息子も同じだ。許可をもらって息子の腕と足を検めさせてもらったが、切断面、というか欠損部分は肉が盛り上がってすっかり塞がっている。どうみたって何年も前に塞がったように思える。とくれば、二人が記憶に何らかの障害を生じさせて、通報したと考えた。そうなれば医者の出番なんだが、念の為に伊藤と二人で家の中を見て回った……」
 中村の顔が曇る。その肩を野町が軽く叩いた。
「中村さん、大丈夫ですよ。ちゃんと聞いてます。どんどんいきましょう」
「あ、ああ。それでその……家の中を見て回ったんだが何処かおかしいんだ。ちぐはぐなんだ」
「例えば?」
 野町の問いに中村は階段の手摺を叩いた。
「息子は左手と左足が無い。ところがこの家には義足や義手、車椅子、松葉づえ等が一切ない。トイレや階段も普通の家の仕様だ。バリアフリーとは程遠い。なにより……スリッパがちゃんと二束づつあるんだ」
「……そのスリッパは使いこまれている?」
「ああ。両方とも下がすり減ってるし、色がベージュなんだ。汚れが目立つんだよ。それから息子の部屋、つまり今から見る現場が……まあ、これは見ながら話そう。
 ともかく本署に息子の医療記録を届けてもらうよう連絡したんだが、待ってる間に父親が帰宅。父親はその――息子の事を聞いて意味が判らないという顔をした。息子に対面すると、驚いて叫んだ。一体何があったとかなんとか。
 だが、その……一分もしないうちに『息子は前からこうでした』『何で通報したんだ?』とか言い始めた。で、伊藤が聞いたんだ。息子さんはいつ、どこで、どのような事で怪我をなされたんですか、とね」
「……答えは?」
「わからないようだった。お互いに顔を見合わせてるだけ。それからしばらくして署から連絡が入ったんだが、そこでその……最初はそういった記録はないとのことだった」
 野町が眉を顰める。
「最初、ということは、もう一度連絡があったわけですか?」
 中村は額の汗を再び拭う。
「ああ。連絡を受けた直後、五分も経たないうちに、医療記録が見つかった、と。十年前に交通事故でってことらしい。コピーは表の車の中に置いてあるので後で確認してくれ。それで、これを家族に伝えたら、その……三人ともハッとした顔になって、『思い出した』と言い始めたんだ。母親は箪笥の中から新聞の切り抜きを出して持ってきた。俺はそれを受け取った。
 ケーキの作り方の読者投稿だった。
 で、何ですか、これ? と聞くと、母親は目をパチパチやりながら、あら? これが、息子の事故の記事の切り抜きで、とか言ってる。それで、その……俺は裏返したんだ。
 何も書いてなかった。黄ばんだ新聞紙の裏には何も印刷されていなかったんだ。地方欄の切り抜きで、俺もとってる新聞だ。裏面に何も印刷されていないなんてことは絶対にないはずだ」
「それは今どこに?」
「居間のテーブルの上にある。だがその……今は裏面を見ても無駄だ」
「……何故?」
「ちょっと目を離した隙に記事が出現してた。息子の事故の記事だよ。俺はすぐに署長に電話して、あんたらを呼んでもらったってわけだ」
 野町はしばらく中村の顔を見てから、ゆっくりと頷いた。
「部屋は?」
「見ればわかるよ」
 中村はそういうと廊下を歩き、浅野家の息子、浅野耕哉の部屋のドアのノブを握った。

 野町は呆気にとられた。二度三度瞬きをし、部屋には入らず隣の部屋のドアを開ける。
 六畳程の普通の部屋だ。どうやら耕哉の両親の部屋らしい。ダブルベッドに鏡台、箪笥、密かにきつめの香水の匂いが漂っている。
 野町は耕哉の部屋に戻ると、ドアの横で壁にもたれている中村に顎をしゃくった。
「中に入りました?」
「ああ。伊藤も入った。一応、今の所、俺達に異常はない、と思う」
 野町はしばらく躊躇した後、くそっと小さく呟いて耕哉の部屋に入った。
 左の壁に手を触れる。あまり掃除をしていない少しべたつく白い壁紙。軽く叩いてみるとゴツゴツと詰まった音がする。続いて右の壁も調べてみるが同じだ。
 天井を見る。半球状の室内蛍光灯。ドアの横にあったスイッチを入れると点灯する。
「なんてこった……」
 この部屋はちゃんと機能して――ん?
 野町はしゃがみ込んだ。
 スイッチの下、廊下から見て左側の壁の下に黒い染みがあった。見た感じでは墨や塗料が染み込んだ類の物ではない。手袋をつけ触ってみるも引っかかりはない。
 野町は立ち上がると、正面にあるPCに目をやった。モニターに近づくと予想通りウェブブラウザが立ち上がったままだった。
 数時間前までいた家と、同じページが開かれたままだ。
 PCの前にある椅子のシートには汗で汚れた跡がある。
「これ、家の人間に確認とりました?」
「ああ。ぼうっとした顔で、こういう風に建てたって言ってたよ。それ以上は聞いてない。この部屋、見ているだけで頭がおかしくなりそうだ」
 野町は両手を壁に着けた。幅は一メートルもない。隣の部屋を見た限り、壁の厚さは約二メートルといったところか。細長い通路のような部屋の奥も壁だ。
 ウナギの寝床なんて言葉があるが、この家は一戸建てだ。こんな部屋を作る意味が無い。百歩譲って、作ったとしても、腕と足を失った人間にあてがう部屋ではない。
「息子の寝具は?」
「見当たらない。ここは息子の部屋だ、と両親はしっかりと言った。他の部屋を見て回ったけど、ずっと使ってない感じの予備の布団があるくらいだった」
 野町は部屋を出ると、スマホを取り出し電話をかけた。
「おう、ゴミ屋。今はもう一軒のとこにいる。部屋も住民もおかしいことになってる。ああ、前と同じく、黒い染みもあったぞ。うん、いやそれは確認して――俺がいじって大丈夫か、それ? は?……一時ファイル?」
 野町は再び部屋に入った。中村は半身で中を覗く。カチカチというクリック音が野町の広い背中の向こうから聞こえる。
「……あるな。じゃあこれをそっちにまわせばいいのか? ああ、一応こっちで調べてからになるから――わかってる。むやみに再生はしないよ、素人じゃあるまいし。昼すぎくらいには、うん。……はあ? 関係者? おい、勝手に――」
 悪態が聞こえ、頭を掻きながら野町が部屋から出てきた。
「それで、これから一体どうするんだ?」
 中村の問いに野町は腕を組んで溜息をついた。
「あと一時間くらいで、うちの連中が来まして引き継ぎになります。それでお願いなんですがね、どこか場所を確保して、ここの家族をこの家から退避させてもらえませんかね」
「それは――」
「いや、書類の方は用意しますんで大丈夫です。上の方は何も言わんはずですよ」
 中村は頷く。
「それで、野町さん、差支えなかったら、この前に何処にいたか教えてもらえるか?」
 それはちょっと……。そういう答えが即座に返ってくるものと中村は思っていた。
 だが、野町は壁にもたれると電子煙草をとりだし口にくわえ、にやりと笑った。
「平泉町、ここから車で二十分位ですかね。隣の管轄でしょ? そこのアパートで通報がありましてね、隣室から悲鳴が云々……あとはここと同じ流れで俺が行くことになりまして、まあ状況も似たり寄ったりですかね。やっぱり黒い染みが部屋にありましてね、もっともそっちはこんな狭い部屋じゃなくて、天井が無くなって梁がむき出しになってました」
「……何が起きたんだ?」
「まったくわかりません。住民の名前は阿部雄介。引きこもりで友達はいないそうです。両足を欠損しているのが、引きこもりの原因と本人は言っておりましたね」
 中村の表情に緊張が走る。
「こことの関連は?」
 野町は親指で室内のPCを指す。
「どうやら同じ動画配信を見ていたらしいんです。動画自体はまだ確認していないので、確定ではないんですがね。まあ、そんなわけで中村さんに更にお願いがあるんですよ。どっちかといえば、こっちの方が重要でして」
 中村は姿勢を正した。
「他言は厳禁、というやつか」
 野町は首を振った。
「いや、逆です。これは多分早急に広く注意喚起しないといけない案件なんですがね、何分、こういう性質の現象ですからね。ですからその――」
 中村は頷いた。
「それとなく、口頭で、ってことか」
「ええ。今回はどうやら動画配信を見ていた人間が対象なんで、今この瞬間にも同様の通報が相次いでいる可能性があります。この管内でも更にあるかもしれません。その際には決してPCに近づかないように注意喚起していただきたいんです。署長からも通達がありますが現場レベルでそれが守られないことが多々ありますからね」
「了解した……そういえばあんたらを最初に聞いたのは怪談だったな。今みたいに、それとなくあんたらの存在を広めてるってわけか?」
 野町は口の端を上げた。

 パーキングエリアで冷やしたぬき蕎麦をたぐった野町は、今度は本物の煙草を懐から取り出すと口にくわえた。高速を走る車が明け方の所為か少ない。静かな山間の向こう、赤紫色の空の下からもう少しで地獄の熱源が顔を出す。
 昼と夜の境は誰そ彼時。夜と朝の境は彼は誰時と言ったか。誰そ彼は黄昏時といい、そして逢魔が時ともいうと聞いた。昼から夜、相手が見えない魔の時間。だが夜から朝への時間は相手が見えないが魔の時間とは言わないらしい。
 野町は紫煙を細く長くゆっくりと吐き出した。
 またも着信があった。
 相手の見えない一日が始まるのだ。

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