あの日々さえ、愛おしい

ノベルバユーザー292373

日常

水撒きの音が響く真昼間、蝉の音も泣いているのか、鳴いているのか分からない。暑さのせいにして筆を止める。ふと、奥の台所でさっき胃の中に入れそびれた皿をカチャカチャと洗う妻の後ろ姿を見て色気がないと思った。

「今晩、出掛けてくる。」
「そうですか。」

なんと淡白で面白味のない会話だろうか。
しかし、これが私たち夫婦の愛の形なのである。
私たち夫婦はこれで十分なのだ。もし彼女がこの愛の形が気に入らない女だったら、結婚するまでには至らなかっただろう。私は妻のことを愛しているし、妻も私のことを愛している。その事実さえあればそこに言葉がなくてもそれでいいのだ。

「お茶、飲みますか?」
「ああ。」

湯呑みを机に置こうとする手は5年前よりも妻らしい手になっていた。

「ありがとう。」
「いえ。」

風鈴の音が2人の沈黙を引き立てるかのように鳴り響く。美しい音色も場所によれば邪魔になるが、その沈黙よりも暑さの方が酷く珍しく妻の方から

「今日はいっそう町が賑やかですね。 」

と呟いた。無理もない、この暑さの中黙っていられる方が難しい。

「今日は吉原で花魁道中があるからな、男どもはそれに浮かれて騒いでいるんだろう。」
「……そうですか。」


それから彼女はぼーっと外を眺めていた。その横顔に不覚にも私は色気を感じた。その色気を筆の中に閉じ込めて、また文字をつらつらと書き出した。



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