偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ

月島しいる

15話 虐殺皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ

 リヴェラ・ハイリングは定期的に中庭でアルヴィクトラ・ヴェーネと会うようになった。
 結論から言えば、アルヴィクトラはリヴェラによく懐いた。
 否、その表現は正しくない。
 アルヴィクトラがリヴェラに甘えることはなかったし、同様にリヴェラがアルヴィクトラを甘やかすこともなかった。
 リヴェラ・ハイリングは年下の者の扱いを知らなかったし、そうした精神性においては未熟だった。それに合わせるようにアルヴィクトラ・ヴェーネも子どもとして振舞うことはせず、リヴェラとは一定の距離を置いた。歳不相応に利発な子どもだった。
 その結果、リヴェラはアルヴィクトラと適切な距離感を保つことができた。まだ七歳であったアルヴィクトラとの繋がりを子守のように重苦しく感じることはなく、むしろ子ども特有の発想力、着眼点に感心することが幾度となくあった。
「リヴェラの魔力特性は"貫通"ですよね?」
「ええ。魔術に魔力特性を上乗せすることによって、私の魔術はあらゆる物質を貫通します」
「では、リヴェラが太陽に向かって魔術を撃てば、太陽を貫くのですか?」
 リヴェラは答えに詰まった後、いいえ、と答えた。
「魔力特性というものは、類型化された一つの考え方に過ぎません。綿密な観測によって個々の魔術師が持つ魔力の特性を推測し、それを過去の統計的事実と照らし合わせて、魔力特性としてまとめ上げます。魔力特性の呼び方は便宜的なものであって、本質を表しているとは限りません」
「じゃあ、本当は別の魔力特性である可能性もあるのですか?」
「その可能性は否定できません。分類が困難な特性も、極稀に確認されます。だからある特性がどこまでその特性を維持しうるのか、という問題について明確な答えを用意することは本来叶いません。既存の魔術理論の全ては幻想の上に成り立っています」
 リヴェラは面白そうにアルヴィクトラの言葉に答えていく。
 ある程度の年齢に達した人間は、こうした基礎部分に対しての懐疑を怠る。職業的な魔術師の多くは、実務に影響しない魔術理論のこうした性質を気にしない。懐疑という行為は、自由な子どもの特権だ。あるいは、哲学者の役割か。
 リヴェラは、この利発的な七歳の子どもとの対話を楽しみにするようになった。アルヴィクトラは依然として子どもらしからぬ距離感をリヴェラと保っていたが、一年も経てば次第に心を開き始めた。
 その間に、リヴェラはアルヴィクトラの置かれた状況を理解し始めていた。アルヴィクトラ・ヴェーネは皇位継承権を唯一保持した次期皇帝候補である。しかし、その立場は非常に危ういものだった。
 現皇帝である虐殺皇帝は息をするように人の命を奪う。そこに明確な理由は必要とされない。そして、虐殺皇帝はアルヴィクトラの扱いに関して、その意思を明確にしていなかった。つまり、アルヴィクトラ・ヴェーネに不用意に取り入れようとすれば、粛清の対象にもなりえる。その為、アルヴィクトラ・ヴェーネは腫れ物のような扱いを受けていた。
 王宮においてアルヴィクトラ・ヴェーネは完全に孤立していた。
 既に母親は虐殺皇帝によって死を与えられ、それに連なる味方はどこにも存在せず、形ばかりの皇子として過ごすことを余儀なくされていた。
 アルヴィクトラ・ヴェーネは戯れによって産まれた望まれない存在だった。その環境は、一介の魔術師が打ち破れるものではない。その存在を救うことはできない。
 それでも、リヴェラはアルヴィクトラとの関係を断ち切ろうとはしなかった。ナナシア・ブラインドは際限なく広がる貧困を前に諦めることなく、全てを救おうとしていた。その輝きは彼女を完成された剣士へと導いた。

 リヴェラ・ハイリング。お前の魔術は何を救う? お前の限界点はどこにある?

 その問いに答えるべく、リヴェラ・ハイリングはアルヴィクトラ・ヴェーネとの関係を維持したまま魔術の腕を磨いた。不可能を可能にしようとする姿勢こそが、自身をより高みへ導くのだと信じて疑わなかった。
 そして、十八を数えた。
 ナナシア・ブラインドよりも一歳若く、リヴェラは彼女と同等の序列三位へと踏み込んだ。けれど、ナナシアが最期に見せたあの剣技には到底手が届いていないように思えた。
 リヴェラはアルヴィクトラとの関係を繋ぎながら、考える。
 この幼い皇子を救うには、何を為せばいい? どう動けばいい? どういった力がこれを打開する?
 その答えを示すように、一つの出会いが訪れる。

「リヴェラ・ハイリング。お前は皇太子殿下に取り入って何をするつもりだ?」
 帝国騎傑団、序列一位。そして帝国軍元帥でもあるディゴリー・ベイル。帝国において最強と謳われる純粋な剣士。
 リヴェラの身長を遥かに超える大男は、王宮ですれ違いざまに威圧的に囁いた。
「何も。私はただアルヴィクトラ様の置かれた状況を打開したいだけです」
 リヴェラはディゴリー・ベイルの鋭い眼光に怯む事なく、声を抑えて答えた。
「お前自身は、何も望まないと?」
「アルヴィクトラ様を救う過程において、それそものが私に魔術的な力を与えるでしょう。私はそれ以外の何も求めない」
 ディゴリー・ベイルはリヴェラを静かに見下ろすと、無表情に告げた。
「お前は、典型的な武人だな。己を磨くことのみに目標を見出し、それ以外を全て手段と斬り捨てる」
 ならば、とディゴリーは言う。
「お前と私の目的は合致するだろう。日が沈む時、二〇三街道で待つ」
 ディゴリーはそう言って、リヴェラの横を通り過ぎていく。残されたリヴェラは一瞬だけ後ろを振り返った後、何事もなかったかのようにそのまま歩き始めた。

 夕刻。
 約束の場所に訪れたリヴェラは、ディゴリーの他に周囲に潜伏している者がいないことを目視で確認すると、暗闇に紛れるようにしてディゴリーの元へ駆けた。ディゴリーはリヴェラの姿を確認すると、すぐに本題に入った。
「虐殺皇帝の統治は長く続かない。長く続かせるわけにはいかない」
 突然の言葉にリヴェラは警戒の視線をディゴリーに向けた。
 この言葉が粛清の対象であることは明白だった。
「国境での偶発的な衝突によって王国との戦争に突入すれば、帝国は瓦解する。これ以上の失政は許されない」
 リヴェラは周囲を油断なく見渡しながら、本気? と思わず問いかけた。
「本気だ。アルヴィクトラ殿下には上を目指して頂く必要がある」
 だから――
「帝国軍元帥、そして帝国騎傑団序列一位、このディゴリー・ベイルはアルヴィクトラ殿下の地位向上を目的とした行動を開始する。リヴェラ・ハイリング。お前はその障害となりうるか? それとも、お前は私の数少ない賛同者となりうるか?」
 リヴェラは息を呑んだ。
 アルヴィクトラ・ヴェーネが置かれている状況は、全て虐殺皇帝によってもたらされたものだ。虐殺皇帝を退けてアルヴィクトラ・ヴェーネが皇帝の座に収まれば全ての問題が解決する。そう思った。
 権力闘争。
 謀略が飛び交う王宮。
 リヴェラにとっては、未知の世界だった。そして、それは自身を成長させるのに適した環境であるようにも思えた。迷いは必要なかった。
「賛同、しよう」
 リヴェラの答えに、ディゴリー・ベイルは無感動に手を差し出した。
 太陽は落ち、魔物たちの時間が訪れる。
 途方もない暗闇がリヴェラを呑み込んでいく。
 何も見えない中、差し出された手がただ一つの道に見えた。そして、リヴェラはその手を取った。

 アルヴィクトラ・ヴェーネに帝国騎傑団序列一位のディゴリー・ベイル。そして帝国騎傑団序列三位のリヴェラ・ハイリングが急接近。帝国騎傑団における最高指揮官と才覚に溢れた最年少魔術師の動きは、王宮に多大な動揺をもたらした。
 それまで腫れ物でしかなかったアルヴィクトラ・ヴェーネに政治的な利用価値が生まれのだ。
 ディゴリー・ベイルに近しい帝国騎傑団の上級団員、そして帝国軍の少なくない将校を取り込んだように見えたアルヴィクトラ・ヴェーネに、虐殺皇帝の悪政に辟易していた文官たちは希望を見出した。多くの者は虐殺皇帝の動向に細心の注意を払って積極的に動こうとはしなかったが、虐殺皇帝はこうした動きを抑えようとはしなかった。その解釈については多くの者が首を傾げたが、沈黙が守られるにつれて、水面下でアルヴィクトラに接触を試みようとするものが現れた。
 王宮での権力争いを横目に、リヴェラは淡々と自己鍛錬に励んだ。
 序列が、必要だった。
 全てを屈服させる分かりやすい力が必要だった。
 そしてアルヴィクトラと出会ってから二年後の春。
 リヴェラは十九歳となり、ディゴリー・ベイルを抜いて序列一位の栄光を得ることとなった。
 過去最年少での序列一位への到達。
 そして、過去最年少での頭席魔術師への君臨。
 その業績は多くの者に讃えられ、遂にリヴェラは招待を受ける。
 虐殺皇帝からの、謁見を許されたのだった。
 リヴェラ・ハイリングは危険な立場にあった。アルヴィクトラの求心力を高める根本的な原因を作った一人であり、虐殺皇帝から牽制を受ける可能性が最も高い位置にあった。謁見という機会を利用して公の場で見せしめに殺される可能性は低くなかった。
 それでもリヴェラ・ハイリングは逃げなかった。いざとなれば、虐殺皇帝相手に立ち回る心算さえあった。
 支配者の血を司る虐殺皇帝との一騎打ち。
 考えただけで胸が震えた。
 戦闘に身を置く魔術師として、それは至高の到達点だった。
 極限の状況において、リヴェラは魔術師としての根源的な在り方を問われる事になる。リヴェラは、それを望んでいた。ナナシア・ブラインドのような輝きに手が届く可能性があった。試したかった。
 そして、謁見の時。
 リヴェラ・ハイリングは虐殺皇帝の前に跪いた。その周囲には、リヴェラ・ハイリングの処遇を見守る貴人たち。虐殺皇帝のアルヴィクトラ・ヴェーネに対する真意を確認する為、多くの視線がリヴェラに向けられていた。
「リヴェラ・ハイリング」
 虐殺皇帝はリヴェラを見下ろすと、静かに名前を呼んだ。その声があまりにも平坦だった為、リヴェラは一瞬自分の名前が呼ばれたことに気づかなかった。虐殺皇帝の言葉は、意味を持たない音を無秩序に繋げただけのような、奇妙な喪失感を伴っていた。伝染するように、得体の知れない虚無感がリヴェラを襲った。
「最年少での頭席魔術師、及び帝国騎傑団序列一位への到達に関し、その偉業を祝して望む役職を授けよう」
 抑揚のない声。
 一拍遅れて虐殺皇帝の言葉を理解したリヴェラは、予想外の提案に警戒の目を向けた。同様に、謁見の間に控える者たちは、リヴェラの処遇に対して怪訝な顔を隠せていなかった。
「望む、役職……」
 リヴェラは虐殺皇帝の意図を測り損ね、真意を問う為に危険な一歩を踏み出した。
「では、僭越ながら皇太子アルヴィクトラ殿下の身辺を警護する親衛隊長の任を拝受したいと考えております」
 緊張が、謁見の間を駆け抜けた。
 急進的に勢力を拡大するアルヴィクトラを中心とした派閥。その先鋒であるリヴェラによるアルヴィクトラの護衛を担当したいという要求。露骨な挑発だった。
 リヴェラは全身の筋肉を強張らせ、虐殺皇帝の反応を注視した。虐殺皇帝はリヴェラの言葉に目立った反応を見せることはなく、そのガラス玉のような瞳がじっとリヴェラに注がれた。そして、作り物のような唇がゆっくりと開く。
「手配しよう。下がるがよい」
 虐殺皇帝は、ただその一言しか発しなかった。それは謁見の終わりを意味している。
 何の反応も見せなかったことに動揺するリヴェラとは反対に、虐殺皇帝はリヴェラが下がるのをじっと待っている。その瞳には、何の感情も宿っていない。
 完全な無関心。
 リヴェラは、それを理解する。
 虐殺皇帝は、リヴェラの言動に何の関心も抱いていない。アルヴィクトラを中心とした王宮の動きなど、虐殺皇帝の関心の範疇にはない。
 リヴェラは全身の筋肉が緊張で強張っていることに気づき、そして目の前の無関心な皇帝をじっと見つめた。
 視点が、違いすぎる。
 リヴェラにとって、この謁見は命を賭したものだった。粛清の対象になるのではないか、という不安の元、細心の注意を払って言葉を選んだ。虐殺皇帝の真意を確かめる為、危険な領域にも足を踏み入れた。
 しかし、虐殺皇帝は初めから何も関心を抱いていない。最年少で序列一位まで駆け上がった者と儀式的に謁見しただけ。それ以上でもそれ以下でもない。リヴェラの言葉は、虐殺皇帝には無意味なものでしかなかった。
 虚ろな帝王。
 何故この皇帝がこれほどまでの絶対的権力を有しているのか、リヴェラはようやく理解した。
 全身を包むのは、巨大な虚脱感。
 相手にもされていない。相手にもなれない。
 その虐殺は無意味に、無作為に行われて。全ては戯れ。その視線はどこにも囚われない。
 線引きが、できない。虐殺皇帝の価値観を推定し、限界まで踏み込むことができない。それは結果的に反逆の芽を摘むこととなる。
 リヴェラは謁見の間を後にすると、誰もいない回廊で大きく息をつき、黒衣を翻した。ナナシア・ブラインドとは別の姿で、リヴェラは虐殺皇帝に極意を見た。ナナシアの見せた輝きとは違う、虚無の闇。その闇はリヴェラの心に深く沈み、やがて跡形もなく溶け込んだ。リヴェラはそれに気づかなかった振りをして、アルヴィクトラの元へ向かった。



「親衛隊長?」
 謁見が終わった後、リヴェラの報告を受けたアルヴィクトラは年相応の困惑した表情を見せた。
「はい。これからはアル様の身辺警護を務めさせて頂く事になります。正式に拝命することになるのはもう少し先ですが」
「えっと、どうして、急に?」
 アルヴィクトラの言葉に、リヴェラは薄い笑みを返した。
「私が皇帝陛下にお願いしたのです」
 アルヴィクトラは僅かに驚いた様子を見せた後、嬉しそうにはにかんだ。
「……リヴェラがいつも近くにいてくれるなら、嬉しいです」
 その素直な反応に、リヴェラは一瞬動きを止めた。
 アルヴィクトラは普段、子どもらしい面を見せることが少ない。周囲に甘えるような言動や、信頼を見せることは滅多にない。
 だからこそ、アルヴィクトラのどこか甘えるような言葉に、リヴェラは微かな戸惑いを覚えた。
 それからふと、アルヴィクトラの近くにいるのは誰だろう、と考えて、誰もいないことに気づいた。
 父親である虐殺皇帝は総じてあらゆるものに関心が薄い。それはアルヴィクトラも例外ではない。母親はもういない。乳母も最低限の接触しか行っていないようだった。ディゴリー・ベイルは時折アルヴィクトラに剣を教えているが、それは師弟の関係であって、それ以上の関係ではない。ここ数年でアルヴィクトラに接触した文官たちもアルヴィクトラに政治的価値を見出しているだけで、個人的な接点は持っていない。
 アルヴィクトラ・ヴェーネは何も持っていない。あるのは皇位継承権のみ。そして、それがより一層彼を孤独にしていた。
 リヴェラはアルヴィクトラをじっと見つめた後、私もアルヴィクトラ様のお隣にいることが出来て嬉しいです、と機械的に答えた。それ以上の言葉はかけるべきではないと思った。



 アルヴィクトラの十歳の誕生日が目前に控えると、王宮には不穏な動きが広がり始めた。
 アルヴィクトラの成長は、虐殺皇帝の打倒を現実的なものへと昇華させる。加えて、アルヴィクトラを傀儡として操りたい者は、早期打倒を目指すようになる。アルヴィクトラの成長は、王宮内の勢力図を徐々に書き換えていった。
 その最中。ディゴリー・ベイルの手によってアルヴィクトラを中心とした反虐殺皇帝を掲げる者たちが秘密裏に集う事となった。当然、リヴェラもそれに参加する事となった。
 その集会の顔ぶれは様々だった。帝国軍の将校、帝国騎傑団の団員といった武力集団。多数の文官。大臣。下級貴族。そのメンバーを見て、リヴェラは驚きを隠せなかった。想像以上の数がアルヴィクトラを支持していた。
 その中、アルヴィクトラは端で静かに立ち尽くしていた。時折、支持者に対して笑顔を振りまいていた。作り物めいた、完璧な笑顔だった。
「皇帝陛下は、どこまでも正気です」
 不意に、ディゴリーが周囲の人間に聞こえるように、大声で宣言した。それから、ディゴリーの鋭い視線がアルヴィクトラに突き刺さる。
「大義は、人を狂わす魔力を秘めています。ですが貴方の父上は、皇帝陛下は何の大義も掲げない。大義や思想に狂うことなく、正気を保った状態で虐殺を続けている。私は、ここまで冷静に、無意味に命を奪う存在を他に知りません」
 リヴェラはディゴリーの言葉に注意を払いながら、アルヴィクトラに目を向けた。アルヴィクトラはディゴリーの言わんとしていることを理解できず、戸惑っているようだった。しかし、そうした感情をうまく隠している。
「しかし、だからこそ、統治が揺るがないのです。人を支配する最も原始的な力は、恐怖です。その前には、大義も思想も意味を為さない。圧倒的な力は、高度に複雑化された社会をも呑みこむ、ということがこれによって証明されています」
 ディゴリーはそう言って、アルヴィクトラを静かに見下ろす。
「アル様。虐殺皇帝を打倒した後は、虐殺皇帝を模倣してください。正気を保ったまま、虐殺を引き継いでください」
 場に緊張が走った。
 ディゴリーは虐殺皇帝打倒後の在り方について、統一を図ろうとしているのだ。
 アルヴィクトラだけが、その事に気づいていない。
 リヴェラは無意識のうちにディゴリーの表情を見た。読めない。動きが、見えない。ディゴリーの口から、次々と言葉が飛び出していく。もう、止められない。
「それが貴方の基盤を固める事になるでしょう。虐殺皇帝を打倒して終わりではありません。貴族連中に隙を与えず基盤を固めてようやく全てが始まるのです」 
 ――こいつ。
 リヴェラの中で、何かが動いた。
「偽悪を貫いてください。どうか、流れる血に狂うことがないよう、冷静に命を奪う人形となり果ててください」
 その言葉を合図に、周囲の騎傑団の上級団員が一斉に頭を垂れる。多数の文官も、それに続いた。一部の下級貴族たちは、その動きに困惑の色を見せている。
「どうか、貴方の帝国に死を撒き散らしてください」
 リヴェラの視線が、室内を走る。その行き先は、アルヴィクトラ・ヴェーネ。
 十歳になろうとする幼い子供だ。その利発な瞳には理解と動揺の色が混在している。
 やりすぎだ。そう思った。
 妥当性と、実現可能性は別だ。このディゴリー・ベイルという男は意図的にそれを混同している。
 しかし、否定できない。
 いや、否定しても益がない。
 リヴェラの目的は、困難な状況に置かれているアルヴィクトラ・ヴェーネを救うこと。虐殺皇帝の脅威、そして帝位を継いでからの脅威を取り除くことに成功すれば、リヴェラの目的はほぼ達成される。ディゴリー・ベイルのやり方に多少問題があろうと、否定する必要性がない。
 少なくとも、とリヴェラは思った。
 アルヴィクトラが即位することによって、アルヴィクトラは破滅を回避できる。帝国の問題など、リヴェラの関心の範疇にはない。どうでも良い。そう思った。
 そう思ったはずなのに、胸の中では得体の知れない何かが激しく暴れまわっている。
 アルヴィクトラの視線を感じても、リヴェラは目を合わせることが出来ず、ただ虚空を見つめて時が過ぎるのを待った。



 郊外の小さな屋敷に戻ると、年老いた使用人が手紙を差し出した。差出人は父親からだった。
 中身は、婚姻についてだった。リヴェラはもう二十歳になろうとしていて、今更のようにその重要性にようやく気づいた。
 相手がいないなら相応の魔術師を紹介するという旨を見て、リヴェラはぼんやりとナナシアのことを思い出した。
 ナナシアは、自由だった。家に縛られる事もなく、婚姻についても焦ることはなかった。
 彼女の年齢を追い越してしまったことに考えを巡らせながら、リヴェラは自分の状況を彼女と重ね合わせ、失望に身を沈めた。
 序列一位まで上り詰めることができた。破滅が待ち構えていたアルヴィクトラを解放寸前まで救い出すことができた。ナナシア以上に、リヴェラは結果を残してきたはずだった。それでも、彼女に追いつけた気が全くしない。
 何故だろう。
 満たされない。
 全てが空虚だった。
 リヴェラは手紙をぼんやりと見つめた後、のろのろと返事を書き始めた。
 現在、重要な案件に関わっている。婚姻は、全てが片付いてからにしたい。
 短い返事を書き上げてから、リヴェラはそれを使用人に渡し、ベッドに向かった。
 全てがどうでもよく感じられた。



 それでも日は昇る。
 王宮は依然として、権力闘争に揺れていた。水面下で繰り広げられる駆け引きを、リヴェラは冷めた目で見ていた。
 いつものように中庭に赴き、空を仰いだ。空は高く、澄んでいる。
「リヴェラ」
 高く透明な声。振り返ると、アルヴィクトラの姿があった。
 十歳になったアルヴィクトラは、幼さの中に大人びた瞳を湛えた美しい少年へと成長した。
 透明感のあるアルヴィクトラの笑みを見ると、自然と笑みが零れた。暗雲の立ち込める王宮において、アルヴィクトラの持つ清涼感は一層際立つ。
「空が高い。もうすぐで冬が訪れるのですね」
 アルヴィクトラはそう言って、空を見上げる。
 リヴェラはそれに釣られず、アルヴィクトラの姿をじっと見つめた。
 華奢な身体。もうすぐ帝国を背負う事になる身体は驚くほど小柄で、細い。
「父上が、倒れました」
 空を見上げながら、アルヴィクトラが呟いた。
 リヴェラは何も言わず、アルヴィクトラの横顔から目を離さなかった。
「全ては、永遠ではないのですね」
 アルヴィクトラの手が空を掴むように上へ伸びる。その手は、何も掴むことなく空を切る。
「永遠は、どこにもありません」
 リヴェラはただ、機械的に答えた。
「この帝国も。帝国騎傑団も、そうなのですか? 私も、リヴェラも? あの空も?」
「いつかは救いがきます」
 アルヴィクトラの手がゆっくりと下ろされ、その瞳がゆっくりとリヴェラに向かう。
「リヴェラは、怖くありませんか? 永遠に続くものがあればいいのに、と思いませんか?」
「思いません。終わりがあるからこそ、一瞬の輝きを人は追い続けるのだと思います」
 そう答えるリヴェラの脳裏には、ナナシア・ブラインドの姿があった。
 一瞬の輝き。刹那の煌き。
 その尊さこそが、リヴェラの追い求めてきたものだった。
 リヴェラは死の概念を初めて受け入れようとしている十歳の少年を見つめ、それから自分が子どもの頃は死をどうやって受け入れただろう、と考えた。
 確か、そう。魂は意志によって遂行されるのだと父から教わった。それは祝福である、と。
 あまりにも観念的な答えで当時のリヴェラには納得できなかった。振り返れば、納得できなくて当然だと思う。そして、納得しないような理由を父が意図的に選んで答えたのだろう、とも思った。
 納得など、しない方がいい。死は理不尽であるべきだ。そして、人は歳を重ねるごとに理不尽なことに慣れてしまう。それが死を受け入れることなのだと思った。死に条理を求めてはいけない。
 でも、とリヴェラはアルヴィクトラを見た。
 この少年の持つ透明感が穢れていくところは、見たくない。理不尽なことに慣れて、麻痺して、擦り切れて。人はそうやって成長するんだよ。そんな知った風なことを、道を、この少年に押し付けたくない、とも思った。
「でも、それは物質の話。精神性においての永遠というものは、存在します。例えば、アル様に対する私の忠誠心のように」
 その場凌ぎの嘘だった。極意に到達するための、方法でしかなかった。忠誠心というべきものは、どこにもなかった。
 それでも、それが嘘でなければ良かったのに、と思った。
 アルヴィクトラが嬉しそうに微笑むのを見て、リヴェラの中で何かが急速に膨れ上がっていく。リヴェラはそれに気づかない振りをして、従者を演じた。
 この一年後、現皇帝の崩御を以ってアルヴィクトラの帝位継承が決定した。



 アルヴィクトラ・ヴェーネは破滅を免れた。
 虐殺皇帝の崩御により、アルヴィクトラ・ヴェーネに表立って害意を向けることの可能な者はいなくなった。
 リヴェラ・ハイリングの役目は終わった。
 結局、リヴェラの魔術は限界点に到達することはなかった。
 不可能を可能にする。そうした姿勢が自身をより高みへ導くと信じて疑わなかったが、ディゴリー・ベイルとの合流後、リヴェラの仕事は殆どなかった。虐殺皇帝の打倒も、病によって半ば自動的に為されてしまった。達成感など、どこにもなかった。
 リヴェラ・ハイリングに与えられた魔術師としての猶予期間は終わった。後は故郷に戻り、両親の用意した相手と契りを結び、次の世代に引き継ぐ定めが残されている。魔術師としての自由は失われ、後には義務が残る。リヴェラ・ハイリングはその為に生を消費しなくてはならない。
 そのはずだった。
 アルヴィクトラが即位して第一回目の議会。広大な広間には四〇〇を超える貴族が席を連ね、アルヴィクトラは議長と並ぶようにしてその正面に腰掛けていた。リヴェラはその背後に立ち、広間に満ちた異常な空気を感じ取っていた。
 有力貴族たちは、即位したばかりのアルヴィクトラがディゴリー・ベイルの傀儡であると信じて疑わなかった。軍、及び騎傑団に対抗するように、有力貴族たちは水面下で手を組み、その影響力を増大させようと画策しているようで、アルヴィクトラに敬意を向ける者は少なかった。対して、アルヴィクトラは悠然とした態度を保ってはいたが、十一歳という年齢を打ち消すほどの風格はない。
 前途多難だな、とリヴェラは冷静に議会を観察した。
 議長が羊皮紙に目を落とし、何かを読み上げる。その時、アルヴィクトラが何の前触れもなく立ち上がった。
「陛下?」
 議長の不思議そうな声。リヴェラもアルヴィクトラの意図が読めず、その動きを注視した。
 アルヴィクトラの右手がゆっくりと上がる。
 ――まさか。
 リヴェラの視線が、自然と広間の中からある人物に向けられる。
 ディゴリー・ベイル。
 彼はアルヴィクトラの行動を予め知っていたかのように、色のない表情でアルヴィクトラの行動を無感動に見つめている。
 ――こいつ。
 リヴェラは素早くアルヴィクトラに視線を戻すと、これから引き起こされるであろう惨劇に目を見開いた。
 前方に席を連ねる貴族の一人。そこへ向かって伸びたアルヴィクトラの指先に術式が構成されるのを、リヴェラは確かに見た。
 風が吹く。冷気。
 次の瞬間、悲鳴が上がった。
 一人の貴族の身体が凍りつき、ゆっくりと横へ傾いた。
 破裂音。
 身体だったそれは、粉々に砕け散って床に散乱する。
 突然のアルヴィクトラの凶行に、議会が騒然となる。
 当のアルヴィクトラは子どもらしくないどこか冷めた目で議会を見渡すと、つまらない、と短く呟いた。
 そして、リヴェラは確信する。
 模倣は、もう始まっている。
 ディゴリー・ベイルは、有力貴族を排除する為にアルヴィクトラ・ヴェーネを虐殺皇帝の後継者に仕立て上げるつもりなのだ。
 それによって、アルヴィクトラはより多くの敵を作り出し、その害意を一身に受けることとなる。
 もう、後戻りはできない。できないことを、ディゴリー・ベイルはさせてしまった。
 ――こいつは、アル様を都合の良い傀儡としてしか見ていない。使い捨てにするつもりか。
 いや、と議会を見渡す。
 この議会に連ねる全ての人間が、アルヴィクトラ・ヴェーネの敵だった。
 広大な帝国において、新帝の味方は誰一人いない。
 今更のようにその事実に気づいて愕然とする。
 虐殺皇帝は、敵ではなかった。
 脅威であると思い込んでいただけだ。
 あれは、アルヴィクトラにとっての防波堤だった。
 最後の、砦だったのだ。
 それが虐殺皇帝の意図したものであるかは重要ではない。
 それが、唯一の事実だった。
 アルヴィクトラの本当の敵は、こいつらだ。
 そして、リヴェラ・ハイリングはディゴリー・ベイルを睨みつけた。
 ディゴリー・ベイル。帝国軍元帥。この男こそが、アルヴィクトラ・ヴェーネの唯一の味方であり、最大の敵。
 この男は危険だ。破滅へと導く危険性を孕んでいる。
 リヴェラの中で、何かが大きく動いた。
 喪失感と怒りだった。
 救いなど、どこにもない。
 アルヴィクトラ・ヴェーネは破滅を回避できていない。
 より一層、破滅へと近づいてしまった。
 ――私は一体、何をやっていた?
 ――限界を超える為? 私は何も為しえていない。ディゴリー・ベイルの誘いに迎合し、全てを委ねただけ。
 ――理想は遠く、全ては空虚で。
 ――動けて、いない。動けていると思っていただけ。
 ――限界を求めていたはずなのに、全てを怠って。
 ――ナナシア・ブラインドなら違う結果を残していた筈だ。
 ――序列? 彼女はそんなものを求めてはいなかった。
 ――救い。救いこそが、彼女を完成した剣士を導いた。
 ――リヴェラ・ハイリング。お前は今まで何をしていた?
 リヴェラは広大な議会を見渡すと、ゆっくりと息を吐き出した。
 ――いい。初めから状況は変わっていない。やるべき事は、変わらない。敵が明確になっただけ。
 アルヴィクトラ・ヴェーネの味方が帝国に存在しないならば、帝国そのものを相手に立ち回ってみせよう。
 ナナシア・ブラインドが目指したように。
 国家という構造が作り出す怪物。それそのものを相手に、勝利を掴んでみせよう。

 永遠はどこにもなく、死は理不尽で。
 けれど、それを許容する必要はない。
 あの小さな魂に救いを。
 リヴェラの心に芽生えた思いは、急速に膨れ上がっていく。

 議会を後にして、屋敷に戻ったリヴェラに使用人が無言で手紙を差し出した。差出人は、やはり父親からだった。
 リヴェラは素早く中身を確認し、婚姻の催促だと知ると、それを破り捨てた。
 リヴェラ・ハイリングは、今一度魔術師としての限界を見定める為に動く。
 かつてナナシア・ブラインドがしたように。
 己を縛るものを全て捨て、際限なく続く不条理を破る為に、魔術だけでなく、存在そのものを賭ける。
 富も栄光もいらない。
 目指すのは、たった一つの大きな救済。
 到達点が、ようやく見えた気がした。
 遠く、届かないもの。それでも、見えた。
 ならば、後は走るだけ。


 第一回目の議会を機に、アルヴィクトラ・ヴェーネはディゴリー・ベイルの入れ知恵によって虐殺を行い、恐怖による統治を開始した。
 その基盤の安定と比例するように、アルヴィクトラの心は不安定になっていく。


 謁見の間に悲鳴が木霊した。
 新帝アルヴィクトラ・ヴェーネは玉座から、凍り付いていく男を静かに見下ろしていた。
 最後には氷像と化した男の身体が割れ、カラン、と音を立てて欠片が床を転がっていく。リヴェラはそれをアルヴィクトラの隣から眺めていた。
 アルヴィクトラは緩慢な動作立ち上がると、ベイル、とディゴリーを呼んで歩き始める。護衛であるリヴェラもそれに続いた。
 巨大な扉をくぐった途端、アルヴィクトラが勢いよく振り返り、震える声で言った。
「ディゴリー。私は後どれくらい、人を殺めればよいのですか」
 十二歳になったばかりの少年は、皇帝であることを示す不釣合いな正装に身を包み、不安そうにディゴリーを見上げる。
「アルヴィクトラ様。貴方が虐殺皇帝の後継者であることが広く周知され始めています。これで貴方を利用しようとする者たちはいなくなった。後は徐々に虐殺の対象を腐敗した貴族たちへと向け、反逆の芽を摘みます。これで、貴方の基盤は安定をみる事になるでしょう」
 ディゴリーは冷静に次の指示を出す。そこに躊躇いは見られない。
「アルヴィクトラ様。どうか、冷徹であってください。貴族どもに隙を見せてはなりません。一時的な虐殺こそが、より多くの民を救うことになるのです」
 ディゴリーの言葉を聴きながら、こいつはまるで魔術師だな、とリヴェラは思った。
 言葉で人を惑わす古の魔術師。真実は人を救わない。それを理解していながら、真実を織り交ぜて人を誘導しようとする。その在り方は、ただの帝国軍元帥とは思えなかった。
 ――ディゴリー・ベイル。お前の好きにはさせない。
 リヴェラは不安そうなアルヴィクトラの背中を後ろから優しく包むと、主の名前を口にした。
「アル様。私は貴方の剣でありたい、と考えています。荒事には私をお使いください。貴方の手を汚す必要はありません」
 それに呼応するように、ディゴリー・ベイルがアルヴィクトラの前で膝を折る。
「私が頭脳に」
 ――白々しい。
 リヴェラはアルヴィクトラの肩越しにディゴリーを睨みつけた。ディゴリーはその視線を受け流すように、アルヴィクトラを血塗られた道へと誘っていく。
 アルヴィクトラの両腕と呼ばれたディゴリー・ベイルとリヴェラ・ハイリング。その衝突が、静かに幕を開けた。


 
「お前のやり方は、アル様を救わない」
 誰もいない広間。
 リヴェラ・ハイリングは議会の後、ディゴリー・ベイルを呼び出し、その手口を責めた。ディゴリーはリヴェラの言葉を反芻するように何かを呟き、そして首を横に振った。
「わからないのか。陛下は、人ではない。皇帝は、人ではいられないのだ。帝国の惨状を見よ。歳出と歳入を見よ。かつての統治の在り方を見よ。帝国は、最早地獄を為す為だけに存在していたではないか。虐殺皇帝の政は、この世に地獄をもたらした。万の民が、圧政に、悪政に、失政に苦しんだ。突出する有力貴族。曖昧になる責任。形だけの信賞必罰。軍における精神主義の台頭。崩壊は時間の問題だった」
 ディゴリーはそう言って、明確な怒りを露にした。リヴェラは、ディゴリーが感情を表に出すところを初めて目にした。
「崩壊を食い止められるのは、アルヴィクトラ様だけだった。虐殺皇帝の打倒。それが、必要だった。帝国を、一度壊す必要があった」
「そうだ。アル様の即位は、必要なことだった。しかし、お前のやり方はアル様を生贄にしているだけではないか」
 リヴェラの反論に、ディゴリーが首を横に振る。
「良いか。先代しか知らぬお前には理解が及ばないかもしれないが、帝国における議会は、お前の想像以上に力を持っているのだ。先代が突出を許した一部の有力貴族は、特に脅威だ。だからこそ、私は先代を模倣するように進言したのだ。虐殺によって、アルヴィクトラ様は体制以上の力を取り込む事となる。その強大な力を以って、先代から続く悪しき構造を徹底的に破壊する必要がある」
「虐殺がなければ、アル様は貴族どもに食い殺されていたと?」
「その可能性は、低くない。アルヴィクトラ様は、まだ若い。貴族と対等に渡り合うことは、不可能だった」
「それでも」
 リヴェラは、ディゴリーの鉛のような瞳を観察するように言った。
「アル様は危険な状況にある。お前の傀儡として害意を一身に受けている」
「私の目的は、アルヴィクトラ様を守ることではない。帝国を守ることだ。結果的に、その有効な手段となりえるアルヴィクトラ様を維持するよう努めているだけに過ぎない」
 お前とは逆だな。ディゴリーは、そう言った。
「リヴェラ・ハイリング。お前はアルヴィクトラ様だけを守ろうとしているな。帝国のことなど、どうでも良いと考えている。アルヴィクトラ様が民の幸せを願っているが為に、帝国を維持しようとしている。それだけだ」
 リヴェラは、何も言わなかった。
 激しい嫌悪感が、胸の奥から湧いた。
「どちらかに重点を置くか、については意見が違うが、偶然にも私とお前の目的は酷似している。今争う必要はあるまい」
 ディゴリー・ベイルはどこか自嘲気味に笑って、それからリヴェラを見下ろす。
「既に長い坂道を転がり始めたのだ。今更どうしようもあるまい。私たちに出来ることは、アルヴィクトラ様の脅威となりうる貴族たちを潰すこと。それが最大の利益をとる為の唯一の選択ではないかな?」
「……望み通り、全て破壊してやる」
 リヴェラは黒衣を翻し、踵を返した。
 迫る暗闇を払う為に、暗闇に捕まるよりも早く、駆け抜ける為に。その果てにあるものを掴むために。


 血。
 鮮血が、世界を支配していた。
 リヴェラ・ハイリングはアルヴィクトラの敵となりうる貴族たちを殺し回った。
 有力貴族たちは、連合を組んで表立ってアルヴィクトラに対抗を始めていた。帝国騎傑団序列一位であるリヴェラ・ハイリングは自然と戦場に身を投じ、驚異的な戦果を挙げた。
 そして、その指示を出したのはアルヴィクトラそのものだった。アルヴィクトラはディゴリーの言葉に従い、徹底的な殺戮を行っていた。リヴェラはその駒として、基盤の安定を求めて殺戮に加担した。
 個の虐殺ではリヴェラは突出した存在だったが、組織的な虐殺はディゴリーが群を抜いていた。帝国軍元帥の名の下に、彼は軍勢を以って虐殺を執行した。
 貴族連合との決戦では、リヴェラも彼の指揮下に入り、全身を血で汚した。
 後は貴族連合の残党を潰すのみ。一つの終着が見え、アルヴィクトラが政務の為に王宮に戻った時、リヴェラは久しぶりにアルヴィクトラと過ごす時間を得た。
「有力貴族の排除が終われば、ようやく本格的な改革に入ることが可能となりますね」
 リヴェラの言葉に、アルヴィクトラは静かに微笑んだ。アルヴィクトラは十三歳になっていた。僅かに背も伸びたが、依然として幼い容姿を残している。体格も、華奢なままだった。そうした外見とは反対に、彼の笑みは非常に大人びていて、どこか寂しそうだった。
「ここまで来るのに随分と時間がかかりました」
「アル様が即位されてからまだ二年です。腐敗しきった内部をここまで一掃できたのはむしろ短すぎるくらいです」
「抵抗勢力を一掃しただけです。まだ改革には手つかずのまま。私はまだ何も為し得ていない」
 アルヴィクトラの言葉に、リヴェラは微笑んだ。
 中庭で初めて出会った時。あの時は、破滅を待つ哀れな子どもに同情した。それだけだった。
 いくつかの冬を超え、アルヴィクトラを深く知るにつれて、その性格を好ましいと思うようになった。
 更に冬を重ねて。アルヴィクトラがディゴリー・ベイルの手によって虐殺を開始した時。全てを捨ててでも救いたいと思うようになった。
 そして今。
 歳を重ねても幼少時の透明感を保ち続けるアルヴィクトラが眩しく思えた。
 リヴェラは、そこにナナシア・ブラインドと同じ高潔さを見出していた。
 不意に、アルヴィクトラの視線がじっとリヴェラに注がれた。
「リヴェラ。私は善き支配者ではありません。排除の口実を作るため、多くの無関係な命を失わせてしまった。だからこそ、ここで立ち止まるわけにはいきません。これからも力を貸してください」
「もちろんです。改革が進めば、アルヴィクトラの行いに対して多くの者が考えを改めるでしょう。これから、全てが始まるのです」
 リヴェラが深く頭を垂れた時、扉が大きく開けられ、一人の騎士が飛び込んできた。
「報告致します。市場を支配していた有力商人たちの一部が貴族連合への支援を開始。これを機に沈黙を貫いていた潜在的な抵抗勢力が一斉に起つと見られます。ベイル様の指示によって前線へ送っていた軍の一部を帝都の防衛へ回しております」
 貴族連合との対決は、終わりを見せない。
 虐殺は、終わらない。



 世界は血で溢れていた。
 一度は崩壊しかけた貴族連合は、死霊の契約者を取り込んで帝国軍に多大な出血を強いた。
 ディゴリー・ベイルの指揮する帝国軍は敗走し、帝国騎傑団からも多くの死者が出た。
 リヴェラは血に塗れたディゴリー・ベイルと前線で合流すると、その惨状に絶句した。
 ディゴリーの配下の多くは、死に絶えていた。ディゴリーは生気のない顔でリヴェラに向かって首を横に振ると、自嘲するように笑った。
「覚悟が違ったのだ。私は、死霊と契約しようなどとは思いもしなかった。奴らは、その一線を越えた。この敗北は、起きるべくして起きたものだ」
「お前の信頼する者たちも、死んだのか」
「そうだ」
「帝国の為に」
「そうだ」
「それが正しいと思うか」
 リヴェラの問いに、ディゴリーは迷わず頷いた。
「ああ、今でもそう思う」
 リヴェラはそれ以上は何も言わず、死者の処理に向かった。すべきことが、山ほどあった。



 貴族連合を中心とした抵抗勢力の中に、少なくとも四人の死霊との契約者がいることがわかった。
 執務室。アルヴィクトラ、ディゴリー、リヴェラの三人は地図を囲んで状況の確認に入っていた。
「よくない兆候です」
 ディゴリー・ベイルは、地図を広げて帝国の辺境を指差す。
「王国の諜報員が辺境で何やら嗅ぎまわっているようです。帝国内の動乱について探りを入れてきたのでしょう」
「貴族連合と王国が繋がる可能性があると?」
「はい。あるいは、既に繋がっているのかもしれません。死霊との契約を行うには、高位の魔術師の協力が必要不可欠ですが、帝国内の魔術師の多くは騎傑団に身を置いています。何らかの形で王国が関与していると考えるべきです。このまま抵抗が長引けば、王国軍が大きく動くことも考えられます。早期解決が必要です」
 アルヴィクトラは大きくを息を吐くと、ディゴリーを静かに見つめて口を開いた。
「帝国騎傑団を総動員します。全てを攻勢に回し、可及的速やかに貴族連合を潰してください」
 アルヴィクトラの言葉に、それまで彼の後ろで事態を見守っていたリヴェラは反射的に問い直した。
「騎傑団の全てをですか?」
「そう、リヴェラもです。そして、私自身も」
 思わぬ返答に、リヴェラは息を止めた。
 反対に、アルヴィクトラは微笑んで静かに己の胸に手を当てた。
「この身に流れる支配者の血は、初代皇帝から受け継いだもの。魔術師としては未熟ですが、騎傑団員に遅れをとるつもりはありません」
 それに、とアルヴィクトラ言葉を続けた。
「私の魔力特性は死霊の契約者と相性が良い。来るべき王国との決戦に備えて騎傑団の損耗を抑える必要があります。ならば、全ての戦力を動かすべきです。私たちの目指すべき所は、抵抗勢力の排除ではない。そのずっと先にあります。こんなところで立ち往生している暇はありません」
 リヴェラは思わずアルヴィクトラの瞳に魅入った。
 似ていた。ナナシア・ブラインドの在り方そのものに、あまりにも似ていた。
 リヴェラは神聖なものを見るように目を細めると、深く頭を垂れた。



 そして、最終決戦。
 アルヴィクトラを中心とした帝国騎傑団一〇〇名は、五〇〇〇の抵抗勢力と正面からぶつかった。
 槍のように五〇〇〇の軍勢に食い込む帝国騎傑団。リヴェラは、その先鋒にいた。
 数え切れないほどの敵を、撃ちぬいていく。
 死の香りが、戦場を支配していた。
 よく知った仲間が、倒れていく。
 それ以上の敵を殺して。
 殺戮の中、ただひたすら突き進んだ。
 そして、全てが終わった後。
 広大な平原を屍が埋め尽くしていた。
 大雨が、地上の血を洗い流していく。
 全てを指揮したアルヴィクトラ・ヴェーネは雨に濡れながら、その光景を呆然と見つめていた。
 ディゴリー・ベイルがそっとアルヴィクトラが雨に濡れないように頭から布をかぶせた。リヴェラは、それを見つめていることしかできなかった。
 勝者の姿は、どこにもなかった。殺戮だけが、満ちていた。
 人は、死に麻痺していく。
 けれど、アルヴィクトラ・ヴェーネは麻痺などしていなかった。
 正気を保ったまま帝国に死を撒き散らした彼は、その結果を正面から見つめる事となった。
 ディゴリー・ベイル。これがお前の望んだ結末か。
 お前は、アルヴィクトラ・ヴェーネを死に追いやるつもりか。
 リヴェラの責めるような視線に気づかないように、ディゴリーは遺体の処理について報告をあげる。
 アルヴィクトラ・ヴェーネは死者の帝国を見つめて、微動だにしない。ディゴリーの報告は雨音の中に溶けて消えていった。



 多分、全員が疲れていた。
 一度始まった虐殺は終わりを迎えることがない。 
 リヴェラのよく知る帝国騎傑団の団員たちは、次々と深い眠りに入っていった。
 永遠の安息を、羨ましいとさえ思えた。
 執務室。
 新しく再編された帝国騎傑団のリストを見たアルヴィクトラは、ただ打ちのめされたように顔を手で覆っていた。
 帝国騎傑団は、最早別のものへと変わってしまっていた。それだけの死者が、アルヴィクトラの決断によってもたらされた。
 アルヴィクトラ・ヴェーネは死と正面から向かい合い、絶望していた。
 どこまでも正気を保ち続ける主を見て、リヴェラはそれを哀れに思った。
 いっそ、気が狂ってしまえれば楽なのに。
 しかし、その在り方を好ましいとも思った。
 納得できない。してはいけない。
 死は不条理だ。そう思った子どもの時のように。
 きっと、ナナシア・ブラインドは納得していなかった。だから、あの高潔さを保っていたのだ。
 アルヴィクトラ・ヴェーネは虐殺の中に、一つの輝きを見せていた。リヴェラの親友が見せたあの輝きに似た何か。
 不可能を可能にしようとする何か。
 リヴェラは神聖なものに触れるように、そっとアルヴィクトラを後ろから抱いた。
「アル様。私だけは永久にアル様のお傍におります」



 揺れる帝国。忍び寄る王国の影。
 この危機を回避する為、アルヴィクトラの政略結婚が文官たちの間で囁かれているのを耳にして、リヴェラは思わず息を止めた。
 アルヴィクトラを守りたい、と思った。その華奢な身体に圧しかかる重責を、分け合いたいと思った。
 けれど、それはリヴェラの役目ではなく。まだ見ぬ女が受け入れるべき役割で。
 その事実はリヴェラに多大な動揺をもたらした。
 アルヴィクトラ・ヴェーネは皇帝で、リヴェラ・ハイリングは一介の魔術師でしかなかった。
 リヴェラ・ハイリングには政がわからない。リヴェラ・ハイリングは戦うことしか知らなかった。
 もうそれは、どうしようもないことだった。
 リヴェラは自分の心の中の動きを見なかったことにして、これからやるべきことを考えた。
 貴族連合は費えた。これを以って、ようやく改革が始まる。
 忙しくなる。
 きっと、アルヴィクトラも政務以外にかかることはないだろう。
 政略結婚とやらも、随分と先になるに違いない。
 心配ない。
 ようやく平穏が訪れるのだ。何も恐れることはない。
 そう思った。
 その矢先。
 帝国騎傑団に内応の兆しがあると報告が上がる。平穏は、訪れなかった。



 遠いな、と思った。
 改革への道は、あまりにも遠すぎる。
 障害を排除しても、他の障害が立ち塞がる。
 虐殺が、新たな虐殺を生んだ。
 どこにも到達点は存在しなかった。
 きっと、アルヴィクトラも同じ気持ちだったのだろう。
 リヴェラは、アルヴィクトラの心の動きをぼんやりと理解していた。
 だから、アルヴィクトラが虐殺幼帝として命を差し出すとリヴェラに語った時、やはり、という思いが強くあった。
 皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネは破滅を回避できなかった。
 アルヴィクトラが粛々と死ぬ為の準備を始めるのをリヴェラは見守ることしかできなかった。

 死は、本当に理不尽だ。
 最後まで正気を保った皇帝は、それを理解していながらも自身の命を差し出す決意を下した。

 王宮の上空を、暗い雲が覆う。
 帝国騎傑団序列二位まで上り詰めた新鋭の魔剣士バルト・リークがアルヴィクトラを討つ為に起つ。
 序列三位まで落ちたディゴリー・ベイルとクーデター軍を迎え撃つ為の準備をしていたリヴェラは、ディゴリーの真意を問う為に口を開いた。
「帝国内の膿は一層された。後は悪逆非道の虐殺幼帝を抹殺して帝国は完成する。全てはお前の目論見通りか」
 ディゴリーは何も言わず、古びた長剣を磨きながらゆっくりと振り返った。
「ディゴリー・ベイル。お前はこれからどうするつもりだ? 最後の最後のアル様を裏切り、新たな皇帝の右腕となり、帝国を裏から操り続けるのか」
 ディゴリーはじっとリヴェラの目を見つめた後、いや、と無感動に答えた。
「私は虐殺幼帝の側近として最後まで抗い、死ぬ必要がある。新しい帝国は、新しい人員によって創られなければならない」
 沈黙が、落ちた。
「最後まで帝国に全てを捧げるか」
「あまりにも多くの血を流してきたのだ。私はもう、休みたい」
 ディゴリーはそう言って、長剣をそっと掲げ、それを観察するように見つめた。
「リヴェラ・ハイリング。お前は何故、アルヴィクトラ様に付き従ってきた?」
 リヴェラは、答えなかった。一言で答えることが難しかった。
「帝国は、生まれ変わる。アルヴィクトラ様はもう帝国に必要ない。無様に逃げ惑うことも、虐殺幼帝の末路として良いだろう。私はそれを止めない」
 その言葉に、リヴェラは思わずディゴリーを見つめた。ディゴリーは古びた長剣をそっと床に置くと、代わりに戦斧を手に取った。
「私の目的の為にアルヴィクトラ様には随分と血を流させてしまったな」
 それから、ディゴリーは戦斧を振り下ろし、古びた長剣を叩き折った。かつて忠誠を誓った金属片が破裂音ともに宙に煌く中、ディゴリー・ベイルの鋭い視線がリヴェラを射抜いた。
「私の目的は完遂した。お前の目的が完遂されることを願っている」
 ディゴリーはそう言うと、戸口に向かって歩き始めた。最後に思い出したように、ディゴリーが呟く。
「アルヴィクトラ様は、皇帝からただの人に変わられる。お前も、武人からただの人へ戻るが良い。お前は一人の人間として、アルヴィクトラ様を救うべきだ」
 そして、ディゴリーは駆ける。
 リヴェラはディゴリーの最後の言葉について考えを巡らせた後、ゆっくりとディゴリーの後を追った。
 外からは、剣の衝突する金属音。リヴェラはそこに向かって駆けて、最後の戦場に向かった。
「求めよ。そして、奪うがよい。欲しよ。そして足掻くがよい。虐殺皇帝の後継者、このアルヴィクトラ・ヴェーネの魔力特性は"絶念の檻"。全ての望みを切り捨て、無に還す特性。さあ、絶望に身を沈めるがよい」
 アルヴィクトラの凛とした叫び声。
 そこに迫る魔剣士バルト・リーク。
 以前までの武人としてのリヴェラなら、その実力をこの目で見たいと思ったはずだった。それが今は、ただの厄介な障害にしか思えなかった。
「その首、貰うぞ」
 バルト・リークの剣先がアルヴィクトラの胸元へ吸い込まれていく。
「陛下!」
 リヴェラは咄嗟に術式を通さない純粋な魔力の波を放ち、アルヴィクトラの身体を吹き飛ばした。
 転がるアルヴィクトラの身体。そこに駆け寄ると、リヴェラはアルヴィクトラを起こそうと身体を揺すった。しかし、意識を失っているようで、身動き一つしない。
「陛下。どうか、お許しください。貴方には生きて頂きます」
 リヴェラはアルヴィクトラの身体を抱きかかえると、バルト・リークを正面から睨みつけた。
「リヴェラ・ハイリング!」
 バルト・リークが剣を構え、リヴェラに向かって床を蹴る。その時、地響きのような音とともに、ディゴリー・ベイルが階上から瓦礫とともに舞い降りた。
「小僧。お前の相手はこの私だ」
 大男はそう言って、巨大な戦斧を構える。何の魔力も持たない剣士は、その身一つで魔剣士バルト・リーク相手に立ち向かい始める。
 リヴェラは踵を返すと、アルヴィクトラを抱えて出口目指して駆け出した。
 最後にチラリと、後ろを振り返る。
 たった一人で帝国騎傑団の複数の上級団員を相手に立ち回るディゴリー・ベイルの巨大な背中が見えた。
 その姿が、いつかの日のナナシア・ブランドを想起させた。
 後ろは、もう大丈夫。全てを任せられる。後は進むだけ。
 前方に立ち塞がる帝国騎傑団の、かつての仲間を破る為、リヴェラは術式を組み立てる。
 全てを貫く力。魔力特性・貫通が障害を次々と突破していく。
 終わりが、すぐそこまで迫っていた。ようやく手の届くところまで来た。
 そして、リヴェラ・ハイリングは王宮を駆け抜けた。胸の中には、全てを賭してでも守るべき存在。
 帝国を、全てを正面から敵に回して、リヴェラは殺戮を積み重ねる。そこに終わりがあると信じて。



◇◆◇



「狂おしいほどお慕い申し上げております」
 そっと背中に回された彼女の片腕。そして、アルヴィクトラを包むように密着した彼女の身体から逃げるように、アルヴィクトラは小さく身じろぎした。
「リヴェラ?」
「だから――」
 リヴェラが上からアルヴィクトラの顔を覗き込むようにして顔を近づける。彼女の赤い長髪がはらりと落ち、アルヴィクトラの首元をくすぐった。
「――私は単なる剣や側近としてではなく、アル様の全てを支える存在でありたいと考えています。皇帝としての意思決定の権利、そしてあらゆる苦悩を、全てを分かち合うことを願っていました」
 リヴェラの赤い瞳が、正面からアルヴィクトラを捉える。リヴェラの中を巡る血が押し出されるように、瞳が真っ赤に燃える。
「リヴェラ……」
 アルヴィクトラはリヴェラの赤い瞳に吸い込まれるように、じっと彼女の瞳に見入った。そして、抗うように視線を外す。
「なりません。以前にも言った通り、生贄が必要なのです。皇帝の血は途絶えなければなりません。子を成す事は、大きな混乱を後世に与えます。私は最後の仕事として、この血を残すつもりはありません」
 僅かながらの沈黙が落ちる。その間、アルヴィクトラを包むリヴェラの身体が離れることはなく、布越しに温かい体温が伝った。
「アル様、顔を上げてください」
 不意に、リヴェラが穏やかな声で言った。
「私の瞳を、正面から見てください」
 躊躇しながらも、アルヴィクトラはゆっくりと顔を上げた。すぐ近くにリヴェラの透明な赤い瞳があった。
「アル様。逃げる事なく、どうか正面からお答えください。例えば、子を作る事の出来ぬ女に人を愛する権利はないとお考えですか? それは違うはずです。子を成さずとも、愛し合うことは可能です。更に踏み込んで言えば、子を成さずに身体を重ねる方法もございます。皇帝としての義務、責任を置いてアルヴィクトラ・ヴェーネという一人の人間の意思を私は聞きたいのです。私は、アル様のことを狂おしいほどお慕い申し上げております。アル様は、私のことをどう見ておられますか?」
 アルヴィクトラはリヴェラの赤い瞳に吸い込まれるように見入った。
「リヴェラ……」
 アルヴィクトラは答えに詰まり、今にも泣きそうな顔で笑った。
「わからないのです。リヴェラ。私は、皇帝でした。何の力も持たない、皇帝でした。私はそれ以外の生き方を知らない。それ以外の世界を見てこなかった」
 リヴェラは小さく笑うと、そっとアルヴィクトラの肩に顔を埋めた。
「アル様。このように正面から抱かれるのは、嫌ですか?」
 アルヴィクトラは小さく息を吐いて、心地良い温かさに身を任せた。
「……いや、じゃないです」
「では、これは?」
 リヴェラの身体が、より深くアルヴィクトラと重なる。
「……じゃないです」
 では、とリヴェラがそっと肩に埋めていた顔をあげる。
「これは?」
 そっと、彼女の唇がアルヴィクトラの頬に触れた。
 リヴェラが顔を離し、微笑を浮かべる。アルヴィクトラはつい、と視線を外した。
「いやじゃないです」
 リヴェラはクスクスと笑って、それからアルヴィクトラの頬に残った片腕を添えた。
「リヴェラ……」
 一瞬の沈黙。
 ゆっくりと、リヴェラが動く。
 その時、背中に鈍い衝撃と音が響いた。
「――え」
 視線を落とす。
 そこには、腹部を貫く矢があった。
「アル様?」
 リヴェラは、不思議そうにアルヴィクトラの腹部に目を向け、それからもう一度アルヴィクトラの名前を呼んだ。
「アル、様?」
 視界が反転する。
 アルヴィクトラが地面に向かって倒れる時、木々の向こうで弓を構える男の姿が見えた。
「帝国騎傑団序列二十六位、エイリア・ドゥーム。司る魔力特性は"直進"」
 男が名乗り上げ、次の矢を番える。
「その命、このエイリア・ドゥームが貰うぞ」
 同時に、リヴェラが駆けた。高速で術式が組み上げられ、弓矢よりも早く放たれた熱線が木々を貫いていく。
 唐突に始まった戦闘をアルヴィクトラは地面に横たわりながらぼんやりと眺め、背中から腹部を貫いた矢に視線を移した。鈍い痛みが身体中に広がっていく。
 平穏は未だ訪れず、アルヴィクトラはまだ皇帝として戦の真っ只中にいる。
 条理はどこにも見当たらず、虚しさだけが世界を支配していた。
 父親の、虚無を映した瞳が何故か酷く懐かしく思えた。

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