偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ

月島しいる

11話 休息

 目を覚ますと、真上に上がった太陽がアルヴィクトラの視界を覆った。
 強い渇きを覚えて、すぐそばに広がる泉の水を何度も口へ運ぶ。
 渇きが癒えると、両手で汲みあげた水に魔力を注ぎ込んで氷の塊を作り出し、それをリヴェラの元へ持っていった。リヴェラの額に乗せられた布は乾き切り、随分前に氷が溶け切ったことを示している。かなりの間眠ってしまったようだった。
 新しい氷をリヴェラの額に乗せると、彼女の口から僅かにうめき声が漏れた。アルヴィクトラはリヴェラの青白い顔を見つめた後、小さい氷を創りだしてそれを彼女の口に優しく含ませた。溶けた氷を飲みやすいように彼女の頭を少しだけ持ち上げて、飲み込むのを待っている間に次の氷を作り出す。
 その作業を何度か繰り返してリヴェラの水分補給を終えると、アルヴィクトラは泥だらけになった自身の身体を清める為に服を脱いで、泉の中に進んだ。傷口に激しい痛みが走ったが、これ以上の毒素の流入を防ぐ為に傷口の汚れを落とす必要があった。
 水浴びしながら、アルヴィクトラは考える。
 虐殺を繰り返してきたことは正しかったのだろうか、と。
 帝国における腐敗を正す為には、力が必要だった。
 即位したばかりのアルヴィクトラには何の基盤もなく、圧倒的な暴力による支配が必要不可欠だった。
 ディゴリー・ベイルは言った。正気を保ったまま帝国に死を撒き散らしてください、と。
 アルヴィクトラはそれを実行した。結果的にそれはアルヴィクトラに力を与え、腐敗しきった帝国貴族と市場を支配していた商人たちを一掃するに至った。
 しかし、それは新たな反発を生んだ。アルヴィクトラの支配力が強大になればなるほど、反皇帝の機運は帝国中に広がっていった。
 ――あなたは、殺しすぎた。
 クーデターを起こしたバルト・リークはアルヴィクトラのやり方を否定することはなかった。ただ、虐殺幼帝がそこに在ることによって、残された民は支配を拒むだろう、と言った。
 既にアルヴィクトラの手によって、腐敗しきった統治機構は新たな血肉を手に入れた。改革を進める準備は終わった。後に残された問題は、皇帝に対する反発心のみ。
 ――あなたの役割は終わったのです。腐敗しきった有力勢力は排除された。後は悪の虐殺幼帝として君臨した貴方を英雄の役割を持つ者が討てばいい。それで、新たな皇帝は強い求心力を得て、帝国は一つとなります。
 そう言って、バルト・リークは剣をとる。
 戦乱の中、帝国騎傑団において頭角を現し、序列二位まで上り詰めた魔剣士はアルヴィクトラを討つ為に起つ。
 ――あなたは善き支配者だった。腐敗しきった帝国をここまで建て直したことは驚くべきことです。でも、あなたのやり方が理解されることはないでしょう。あなたは狂人として、虐殺幼帝として次の皇帝に繋ぐ為に死ななければなりません。
 虐殺の血脈は、一度絶えなければならない。
 バルト・リークの言葉で、アルヴィクトラはそれを理解した。理解したはずだった。
 アルヴィクトラは前髪から滴る雫をぼんやりと見つめて、小さく息をついた。
 何故、まだ生きているのだろう。
 あの時、クーデターが起こった時。謁見の間でバルト・リークが肉薄した時、アルヴィクトラは確かに死を覚悟した。
 アルヴィクトラは虐殺幼帝の仮面を被り、邪悪を演じた。新たな英雄の、皇帝の誕生の為の生贄となるべく、帝国の繁栄へ繋げるべく、アルヴィクトラは迫る剣を正面から受けようとした。
 しかし、リヴェラに命を救われて逃亡した瞬間から、アルヴィクトラは生き延びる為に行動し続けている。暗い森の中を這いずり回り、雨に打たれながらも、アルヴィクトラは生を望み続けた。
 死の覚悟など、できていなかった。
 きっと、諦めていただけなのだろう。
 だから、リヴェラが示した生の道に縋った。
 アルヴィクトラ・ヴェーネは皇帝としての債務を投げ出して、一人の人間として行動した。
「最低です」
 アルヴィクトラはポツリと呟いて、それから腹部の傷跡を見つめた。
 中途半端に刻まれたバルト・リークの剣。それが、今の状況を現しているように思えた。
 ――アルヴィクトラ・ヴェーネ。お前は一体何を望んでいる?
 アルヴィクトラは自問する。
 ――救国の為と帝国に死を撒き散らしたのだ。それならば、救国の為にお前自身の命を差し出すべきではないか。
 そうだ。そうするはずだった。あの時までは。
 バルト・リークの剣が迫った時、アルヴィクトラは恐怖を覚えなかった。
 あったのは、奇妙な高揚感だけ。
 邪悪を演じ、邪険を構えたアルヴィクトラは終わりの予感に震えていた。
 安心したのかもしれない。これで終わりの見えなかった虐殺が終わるのだと。それが、死の恐怖を打ち消した。
 ――それならば、今はどうだ? お前は今でも躊躇なく死を選ぶことできるか?
 アルヴィクトラはゆっくりと右腕を上げて、自身の指先を見つめた。そこに光の粒子が集まり、小さな氷のナイフを作り出す。
 アルヴィクトラはそれを自身の喉に向けると、静かに目を瞑った。
 息は乱れない。
 心臓は平穏を守っている。
 感情は揺らがない。
 アルヴィクトラは小さく笑って、氷のナイフを自身の喉に向かってゆっくりと動かした。
 瞬間、ナイフが吹き飛ばされた。
 驚いて目を開けると、焼けたナイフの根元だけが手元に残っていた。
 視線を動かすと、泉の端に立ったリヴェラが息を荒げて立ち尽くしていた。
「アル様……何をやっているのですか」
 アルヴィクトラはリヴェラの姿を確認すると同時に、彼女のもとへ駆け寄った。水面が大きく揺れて、水飛沫が散乱する。
「リヴェラ、安静にしていてください」
 アルヴィクトラの言葉に影響されたように、リヴェラの身体が崩れ落ちる。
 アルヴィクトラは素早く服を身に巻きつけると、新たな氷を創りだして布で包んでからリヴェラの額に乗せた。
「アル様……」
 リヴェラの口から、苦しそうな息とともにアルヴィクトラの名前が零れる。
 アルヴィクトラは彼女の赤い髪をそっと梳いて、それから自分がまだ生きている理由をぼんやりと理解した。
 せめて、彼女が回復するまで。
 アルヴィクトラはそのまま長い間リヴェラのそばから動くことなく彼女の寝顔を見つめていた。

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