偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ
06話 排除
父、虐殺皇帝との温かな思い出を、アルヴィクトラはついに知ることがなかった。
虐殺皇帝は、アルヴィクトラに興味を示さなかった。
そこにあったのは完全な無関心だった。
血縁は父にとって何の意味も持たないものだったのだろう。
あるいは、世界そのものが意味をもたなかったのかもしれない。
虐殺皇帝は、虚ろな帝王だった。
表情に色はなく。
声に抑揚はなく。
その動作は人形のように淀みない。
だからこそ、虐殺皇帝は強大だった。
そこに悪はなく。正義もまた存在せず。虐殺だけが存在した。
虐殺皇帝は些細なきっかけさえあれば、容易に人の命を刈り取った。そこに意味はなく、大義はどこにもなかった。
「余に従わぬつもりか」
リヴェラ・ハイリングを取り込み、内部闘争を開始する直前、アルヴィクトラは虐殺皇帝に呼び出され、静かに問いただされた事がある。
虐殺皇帝の瞳には、何も宿っていなかった。
怒りも、哀しみも、生の欠片さえも。
瞳の奥には虚無がどこまでも広がり、その暗闇を正面から見つめてしまったアルヴィクトラは世界が崩壊していくような錯覚に陥った。
虚無の瞳。
虐殺皇帝が病に倒れてからは二度と見る事がないだろう、と思っていたあの瞳。
それが、視界の向こうにあった。
「お前達、アル様に何をしている?」
リヴェラ・ハイリングが草木を掻き分けてゆらりと近づいてくる。
その声からはぞっとするほど感情が抜け落ち、人としての温かみが感じられなかった。
リヴェラの腕がゆっくりと持ち上がる。
次の瞬間、周囲の木々がざわめいた。
彼女の唇が小さく動き、何かを紡ぐ。
寒気すら覚える無音の中、彼女の細い指先が閃光に包まれた。
信じられないほどの暴力。
静寂が破られ、巨大な熱線が音の魔術師アイヴィーに向かって放たれる。
共鳴するように周囲のあらゆる構造物が唸り、アルヴィクトラを熱風が襲った。
熱発と音響攻撃を受けて朦朧としていた意識が、巨大な熱風を受けて木の葉のように軽く舞い上がっていく。
ぼんやりと溶けていく視界の中、熱線が周囲の木々を抉りながらアイヴィー・ソモンを呑みこむのが見えた。
そして、どこまでも広がる暗闇がアルヴィクトラを包み込み、意識を刈り取った。
◇◆◇
「皇帝陛下は、どこまでも正気です」
かつて、アルヴィクトラが兄のように慕っていたディゴリー・ベイルはそう言った。
アルヴィクトラを逃がす為に最後まで戦った最強の武芸者。
彼は武芸だけでなく、優れた見識を併せ持っていた。
「大義は、人を狂わす魔力を秘めています。ですが貴方の父上は、皇帝陛下は何の大義も掲げない。大義や思想に狂うことなく、正気を保った状態で虐殺を続けている。私は、ここまで冷静に、無意味に命を奪う存在を他に知りません」
しかしだからこそ、とディゴリーは告げた。
「だからこそ、統治が揺るがないのです。人を支配する最も原始的な力は、恐怖です。その前には、大義も思想も意味を為さない。圧倒的な力は、高度に複雑化された社会をも呑みこむ、ということがこれによって証明されています」
そして、ディゴリーは僅かに躊躇した後、アルヴィクトラを見下ろして諭すように言った。
「アル様。虐殺皇帝を打倒した後は、虐殺皇帝を模倣してください。正気を保ったまま、虐殺を引き継いでください」
それが貴方の基盤を固める事になるでしょう。虐殺皇帝を打倒して終わりではありません。貴族連中に隙を与えず基盤を固めてようやく全てが始まるのです。
偽悪を貫いてください。どうか、流れる血に狂うことがないよう、冷静に命を奪う人形となり果ててください。
ディゴリーの囁きに呼応するように、アルヴィクトラの周りを囲んでいた帝国騎傑団の上級構成員が一斉に跪く。その中には文官の姿も多数あった。
「どうか、貴方の帝国に死を撒き散らしてください」
そしてアルヴィクトラは、父の汚名を受け継いだ。
◇◆◇
頬を水が打つ。
ぽつ。ぽつ。
身体全体を水が打つ。
ざー。ざー。
熱を持った身体が急速に冷えていく。
心地良い。
アルヴィクトラは震える唇を開き、降り注ぐ雨を必死に受け止めた。
渇きが癒えていく。
次第に意識がはっきりとした輪郭を持ち、薄っすらと視界が開ける。
焼け野原が見えた。
草木が圧倒的な暴力で捻じ伏せられ、大蛇の通り道のように大地が抉られている。
アルヴィクトラはよろよろと立ち上がり、ぼんやりと周囲を見つめた。
「リヴェラ……?」
焼けた森を雨が洗い流していく。
ざー。ざー。
アルヴィクトラの声は、雨の中に消えていく。
「リヴェラ……リヴェラ……」
おぼつかない足取りで、アルヴィクトラは焼け野原の上を進んだ。
大蛇が這ったような抉れた大地。
その先に人影を認め、アルヴィクトラは息を止めた。
「リヴェラ」
くらくらとする頭を抑えながら、アルヴィクトラは人影のもとへ向かった。
影は地面に伏したまま、微動だにしない。
頭上に閃光が走り、雷鳴が轟く。
アルヴィクトラは影のもとへ膝をつき、その肩を揺すった。
「リヴェラ?」
金色の髪の間から、死人のように青白い頬が見えた。
そっと頬を撫でる。
冷たい。
それでも、生きている。
薄っすらと空いた瞼の向こう。
返り血を浴びたかのような真っ赤な瞳がアルヴィクトラに向けられ、柔らかく微笑む。
「障害は排除しました」
掠れた声。
「うん」
雨に打たれながら、アルヴィクトラはリヴェラの肩を抱いた。
「無茶、しないでください」
リヴェラの身体を支えて、ぬかるむ焼け跡を後にする。
片腕を失ったリヴェラの体力をこれ以上奪うわけにはいかない。
早急に雨を凌ぐ必要があった。
方位も確認できない森の中を、ふらふらと彷徨う。
一夜を超えただけで、アルヴィクトラたちの逃亡は最早限界を迎えようとしていた。
虐殺皇帝は、アルヴィクトラに興味を示さなかった。
そこにあったのは完全な無関心だった。
血縁は父にとって何の意味も持たないものだったのだろう。
あるいは、世界そのものが意味をもたなかったのかもしれない。
虐殺皇帝は、虚ろな帝王だった。
表情に色はなく。
声に抑揚はなく。
その動作は人形のように淀みない。
だからこそ、虐殺皇帝は強大だった。
そこに悪はなく。正義もまた存在せず。虐殺だけが存在した。
虐殺皇帝は些細なきっかけさえあれば、容易に人の命を刈り取った。そこに意味はなく、大義はどこにもなかった。
「余に従わぬつもりか」
リヴェラ・ハイリングを取り込み、内部闘争を開始する直前、アルヴィクトラは虐殺皇帝に呼び出され、静かに問いただされた事がある。
虐殺皇帝の瞳には、何も宿っていなかった。
怒りも、哀しみも、生の欠片さえも。
瞳の奥には虚無がどこまでも広がり、その暗闇を正面から見つめてしまったアルヴィクトラは世界が崩壊していくような錯覚に陥った。
虚無の瞳。
虐殺皇帝が病に倒れてからは二度と見る事がないだろう、と思っていたあの瞳。
それが、視界の向こうにあった。
「お前達、アル様に何をしている?」
リヴェラ・ハイリングが草木を掻き分けてゆらりと近づいてくる。
その声からはぞっとするほど感情が抜け落ち、人としての温かみが感じられなかった。
リヴェラの腕がゆっくりと持ち上がる。
次の瞬間、周囲の木々がざわめいた。
彼女の唇が小さく動き、何かを紡ぐ。
寒気すら覚える無音の中、彼女の細い指先が閃光に包まれた。
信じられないほどの暴力。
静寂が破られ、巨大な熱線が音の魔術師アイヴィーに向かって放たれる。
共鳴するように周囲のあらゆる構造物が唸り、アルヴィクトラを熱風が襲った。
熱発と音響攻撃を受けて朦朧としていた意識が、巨大な熱風を受けて木の葉のように軽く舞い上がっていく。
ぼんやりと溶けていく視界の中、熱線が周囲の木々を抉りながらアイヴィー・ソモンを呑みこむのが見えた。
そして、どこまでも広がる暗闇がアルヴィクトラを包み込み、意識を刈り取った。
◇◆◇
「皇帝陛下は、どこまでも正気です」
かつて、アルヴィクトラが兄のように慕っていたディゴリー・ベイルはそう言った。
アルヴィクトラを逃がす為に最後まで戦った最強の武芸者。
彼は武芸だけでなく、優れた見識を併せ持っていた。
「大義は、人を狂わす魔力を秘めています。ですが貴方の父上は、皇帝陛下は何の大義も掲げない。大義や思想に狂うことなく、正気を保った状態で虐殺を続けている。私は、ここまで冷静に、無意味に命を奪う存在を他に知りません」
しかしだからこそ、とディゴリーは告げた。
「だからこそ、統治が揺るがないのです。人を支配する最も原始的な力は、恐怖です。その前には、大義も思想も意味を為さない。圧倒的な力は、高度に複雑化された社会をも呑みこむ、ということがこれによって証明されています」
そして、ディゴリーは僅かに躊躇した後、アルヴィクトラを見下ろして諭すように言った。
「アル様。虐殺皇帝を打倒した後は、虐殺皇帝を模倣してください。正気を保ったまま、虐殺を引き継いでください」
それが貴方の基盤を固める事になるでしょう。虐殺皇帝を打倒して終わりではありません。貴族連中に隙を与えず基盤を固めてようやく全てが始まるのです。
偽悪を貫いてください。どうか、流れる血に狂うことがないよう、冷静に命を奪う人形となり果ててください。
ディゴリーの囁きに呼応するように、アルヴィクトラの周りを囲んでいた帝国騎傑団の上級構成員が一斉に跪く。その中には文官の姿も多数あった。
「どうか、貴方の帝国に死を撒き散らしてください」
そしてアルヴィクトラは、父の汚名を受け継いだ。
◇◆◇
頬を水が打つ。
ぽつ。ぽつ。
身体全体を水が打つ。
ざー。ざー。
熱を持った身体が急速に冷えていく。
心地良い。
アルヴィクトラは震える唇を開き、降り注ぐ雨を必死に受け止めた。
渇きが癒えていく。
次第に意識がはっきりとした輪郭を持ち、薄っすらと視界が開ける。
焼け野原が見えた。
草木が圧倒的な暴力で捻じ伏せられ、大蛇の通り道のように大地が抉られている。
アルヴィクトラはよろよろと立ち上がり、ぼんやりと周囲を見つめた。
「リヴェラ……?」
焼けた森を雨が洗い流していく。
ざー。ざー。
アルヴィクトラの声は、雨の中に消えていく。
「リヴェラ……リヴェラ……」
おぼつかない足取りで、アルヴィクトラは焼け野原の上を進んだ。
大蛇が這ったような抉れた大地。
その先に人影を認め、アルヴィクトラは息を止めた。
「リヴェラ」
くらくらとする頭を抑えながら、アルヴィクトラは人影のもとへ向かった。
影は地面に伏したまま、微動だにしない。
頭上に閃光が走り、雷鳴が轟く。
アルヴィクトラは影のもとへ膝をつき、その肩を揺すった。
「リヴェラ?」
金色の髪の間から、死人のように青白い頬が見えた。
そっと頬を撫でる。
冷たい。
それでも、生きている。
薄っすらと空いた瞼の向こう。
返り血を浴びたかのような真っ赤な瞳がアルヴィクトラに向けられ、柔らかく微笑む。
「障害は排除しました」
掠れた声。
「うん」
雨に打たれながら、アルヴィクトラはリヴェラの肩を抱いた。
「無茶、しないでください」
リヴェラの身体を支えて、ぬかるむ焼け跡を後にする。
片腕を失ったリヴェラの体力をこれ以上奪うわけにはいかない。
早急に雨を凌ぐ必要があった。
方位も確認できない森の中を、ふらふらと彷徨う。
一夜を超えただけで、アルヴィクトラたちの逃亡は最早限界を迎えようとしていた。
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