第一歩

増田朋美

きっと、そういうことだ

今日は、年に一度の大晦日。
でも、私が、年越しを迎える場所は、紛れもなく布団のなかだった。
テレビも見られないし、音楽聞く余裕すらなく、ただ、寝ているしかないだけだった。
でも、それでいいと考えている。
私たちは、頭の毛一本、自分の思うようにはならないからだ。髪は、ちょっと引っ張れば否応なしに抜けてしまう。
今日は、胸腺に痛みがあって、夜はほとんど動けなかった。
やっぱり、昼間、二三時間寝ないと、こうなってしまうらしい。
でも、それについて悔しいとか、悪いとかそう判定してはいけないと思っている。それが一番よくない。
釈尊は、人間がやってしまう一番悪いことは、そうやって何々はよいが、何々はだめだ、と比べてしまう事だと、解いたという。私たちは、その比較の渦の中にすんでいる。比較するから、できないことまでしなければならず、そのせいで苦しみ続けることになってしまう。あるのは、こうなったという事実のみ。その事実をああだこうだと批判しないで解決することだけに力を注ぐこと。それが、人間が一番気を付けなければならない。いってみれば、イチゴの方がえらく、リンゴの方が馬鹿といってはいけない。イチゴもリンゴもただあるだけであり、何も甲乙はない。
と、釈尊は解いて回ったという。
この、事実を解決することだけを考えればよい、という考え方は、簡単そうに見えてじつは難しいものだ。なぜなら、人間というものは、どうしても感情というもので判断してしまって、事実には見ているようで見ていないことが多い。かくいうわたしも、事実、体が疲れて足が痛いことは何回もあったが、これでは同級生たちに遅れているようなきがする、何て言って無理をしすぎ、かえって足を悪くしたことが何回もあった。
そんなこと気にするな、と、いわれたけど、どうしてもできなかった。気にしない、という原理がどうしてもわからなかった。とにかく私は、当たり前のこと、例えば校則を守らないで叱られている同級生たちに対し、自分はしかられていないことを誇りとして生きてきた。そして、同級生たちが、普通に働いて、普通に結婚していると知って、何回も敗北感を味わって、自殺も図った。リストカットや、オーバードーズにも走った。そんな人生だった。常に同級生より、うえであること、これしか生き甲斐を持てなかったのである。
思えば、比べるということをしなければ、体まで壊すこともなかっただろう。もっと、自由にいきることもできたし、病院に縛られずに青春を謳歌することもできただろう。
いまは、そうすることは、やめることにしている。
どうしても、回りの人が、だらしなかったりすると、ついつい私はこうだ!と自分は上だと思う癖がついてしまっている。
だけど、比べるために、いるわけではないし、釈尊の考えに乗っとれば、ただいるだけで、どちらかが悪いわけでもない。
ただ、甲乙つけたのは、学校で私ではない。
いつも、何々学校へ行けてすごい、とか言う言葉をきくと、いわれた本人は、どう思うんだろうか?と考えたことがある。
どうか、比べる癖を身に付けないでほしいなと、願ってしまう。
そうなると、決して幸福にはなれない、ということを知っているからである。

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