みかんのきもち
14.冷凍みかん
別にフラグでも何でもないんだけど、薄暗い道を歩いていると少し気分も暗くなる。
なんとなく黙っていると、七尾が気を遣ったのか、静かなトーンで話し出す。
「そう言えばさ、日比谷のお母さんの命日、もうすぐだったよね」
「そうだねー」
「もうあれから二年か……」
「……そうだね」
私のお母さんは、とても優しい人で、大好きで、尊敬できる人だった。
お父さんともすごく仲が良くて、でもたまに夫婦喧嘩して、でもすぐに仲直りして。
喧嘩する前よりもずっと仲良しになっていた。
喧嘩する程仲が良い、とはよく言ったものだけど、小さい頃は[仲が良いなら喧嘩なんてしないでしょ]と、思っていた。
でもそれは違うんだなと、二人を見ていて気づいた。
お互い本音を語り合い、それでぶつかる事もある。
衝突を恐れて自分の気持ちを押し殺す事で、お互いが幸せになれるならそれでもいい。
関係の浅い友達なら尚更だ。
けど、長い時間一緒に生きていく夫婦同士ではそうはいかない。自分の気持ちに嘘をつき続けてまで、二人で同じ時を過ごす意味があるのだろうか。
私がそれを強く意識し、羨ましいとさえ感じたのは、自分に出来ない事だったからだと思う。
小学校や中学校では普通に友達はいた。
どちらかと言うとクラスで目立っているグループだったし、それなりに楽しくやっていたと思う。
ただ、その頃の私は周りの目ばかり気にして、嫌われないように必死に立ち回っていた。
上辺だけの関係、なんとなく心を許せていない感じ。
繰り返すけど、別にそれが嫌だった訳でもないし、[それなりに楽しく]やっていた。
まあ、それは自体はよくある話だし割愛。
現実世界でも物語でも、幸せな時間は長く続かないもので、私が中学二年生の時にお母さんは入院した。
当時の私は知らなかったんだけど、入院する以前から、かなり状態は悪かったらしい。
私からすれば、なんで急に? なんで教えてくれなかったの? って感じだったんだけど、中学生になりたてのお子様に、自分の母親が大病を患っていると伝えるべきかと考えた時、結論は簡単には出ないだろう。
私の母と父は、私の事を思って伝えない事を選択した。ただそれだけの話だ。
母が入院してからは、生活が一変した。
私は一人娘だったので、母が居なければ家事全般を私がやることにかなるのは必然だった。
それに加えて、入院中の母の着替えや日用品の管理など、やらなければいけない事が山積みだった。
そんな事をしていると、当然だけど放課後に友達と遊ぶなんて事は出来なくなる。
慣れない家事と早起きで、授業中もなんとなくぼーっとしていることが増えて、休み時間も机に突っ伏して寝ている事が少なくなかった。
そんな生活を続けていると、どうなるかは言わなくても分かるよね。
友達とは自然と疎遠になり、いつの間にかグループから抜けた状態。
同じクラスで、こんなにも近くにいるのに[疎遠]とは、冗談にしても笑えない。
物理的に遠いのではない。単に心の距離が開いただけだ。
ただ、それはそれでしょうがないと割り切る事はできた。それよりも、もっと辛かった事が二つある。
一つは母のお見舞いに来てくれる人が日を追うごとに減っていった事。
母は、とても大らかな性格で、身内を褒めるのもあれだけど、周りの人から凄く慕われている印象だった。
色々な人が代わる代わるお見舞いに来てくれていた。
仕事仲間をはじめ、学生時代の友達は勿論、趣味で始めたママさんバレーの仲間(今から思えば体力作りの一環だったのか)や、ご近所さん、町内会の人たち……と、挙げていけばキリがない。
だけど、入院が長引くにつれて、その数は次第に減り、母が亡くなる直前に、お見舞いに来る人は殆どいなくなっていた。
でも、それで私がその人達を恨んだりした訳ではない。
冷静に考えれば、それも仕方のない事だもん。
その人達にはその人達の人生がある。その人達の生活がある。
そう何度も何度も病院へ足を運ぼうなんて人の方が稀だろう。
きっと自分でもそうなってしまう。
私がショックだったのは、こんなにも素晴らしい人格者である母でさえ、たったの1年足らずで[過去の人]になってしまうのだという現実だ。
どれだけ好かれていようと、どれだけ親密な付き合いをしていたとしても、忘れられるのは驚くほど早い。いや、忘れられると言うのは語弊があるか。
思い出してもらえる頻度が減る、の方がしっくりくるかもしれない。
お父さんにその事で当り散らした事もあったけど、お父さんはただ黙って笑っているだけだった。
そして泣き疲れて黙り込んだ私の頭を撫でながら、「ごめんな、辛い思いさせてごめんな」と繰り返し謝るのだ。
お父さんは、何も悪くないのに、一番辛いのはお父さんなのに。
母の入院費や、高額な医療費を稼ぐために父は朝から夜遅くまで働き詰めだった。
そんな父からの優しい言葉を聞いて、私の体から水分が全て無くなってしまうのではないかと思うほどに、泣き続けた。
無力な自分をこの時ほど嫌いになった事は、後にも先にもない。
今思えばその頃からかな? 料理を極めようと躍起になったのは。
なんでも良いから必死に頑張る事で、何かを変えたいと思っていたのかも知れない。
二つ目は、母が亡くなった時。
単純に母を失った悲しみからくる辛さも勿論あった。
でも、ほぼ毎日病院に通って、母の様子を見ていると、お医者さんじゃない私でも分かる。
もう母は、長くは生きられない……と。
その分、心構えは出来ていたし、自分でも驚くほど冷静だったと思う。
では、何が辛かったのかと言うと……母のお葬式には沢山の人が来てくれた。
入院当初にお見舞いに来てくれていた人も含め、初めて見る顔の人も
沢山いた。
最後のお別れの前に、ハンカチを片手に、目に涙を浮かべる沢山の大人たち。
中にはひどく取り乱している人もいる。
そんな人達を見て、「ああ、母はこんなにも沢山の人達にあたたかく見送られて、なんて幸せな人生だったんだろうか」と、思った訳では勿論ない。
私の中に芽生えていた感情は、怒りに近いものだった。
お見舞いに顔を出すことをやめ、母の事など頭の片隅程度にしか置いてなかった[他人]達が、何をそんなに悲しげに泣いている?
何故そんなにも辛そうな[フリ]をしている?
どうして? 何のために?
葬式とはそうすべき場所だからか? TPOを弁えた立派な大人達だな。と、どこまでも歪んだ、最低な事ばかりが頭の中を埋め尽くした。
大人達は、更にこう言う。
「美柑ちゃん、大丈夫かい? これから大変になるだろうけど、力になれることがあったら何でも言ってくれ」と、そんな様な意味の事をみな口にする。
はっきり言って余計なお世話だ。今までだって十分大変だったよ。何を今更……善人ぶって。
それに、本当に助けを求めた時に手を差し伸べてくれる人がこの中に何人いる? 赤の[他人]の為に。
こんな時に冗談を真顔で言うのはやめて下さいと、喉まで暴言がでかかっていたのを覚えている。
この時の私は、とても醜い顔をしていたのだろうな。
その時から私と世界との間に見えない壁が出来上がってしまった。
自分や自分の周囲の事なのに、遠くからぼんやりとそれを見ているような感覚。
灰色とまでは言わないけど、世界の色彩が少し薄くなった様な感覚。
全てが[他人事]。
どうせ誰に好かれようと嫌われようと、人間死ぬときは一人だ。それなら、初めから切り捨ててしまえばいい。
生きているうちにどんなに大きな功績を残したとしても、それを覚えていてくれる人が一体何人いる?
だったら、私と言うと人間は、始めからいても居なくても同じではないか?
だったら、生きていたいとも、死んでしまいたいとも思わない。
もう、何もかもがどうでも良い……と。
そう思い始めた時から、私は新しい人との出会いをなるべく避けるようになった。
いや、出会ってしまう事はしょうがないんだけど、それ以降の進展を望まなかった。
今以上に友人や知り合いを増やす事に、何の価値も見出せないからだ。
そんな事をしていると、いつか一人になってしまうのはバカな私でも分かる。
分かった上で、一人になったらそれはそれで別に良い、と思っているのだ。
なんとなく黙っていると、七尾が気を遣ったのか、静かなトーンで話し出す。
「そう言えばさ、日比谷のお母さんの命日、もうすぐだったよね」
「そうだねー」
「もうあれから二年か……」
「……そうだね」
私のお母さんは、とても優しい人で、大好きで、尊敬できる人だった。
お父さんともすごく仲が良くて、でもたまに夫婦喧嘩して、でもすぐに仲直りして。
喧嘩する前よりもずっと仲良しになっていた。
喧嘩する程仲が良い、とはよく言ったものだけど、小さい頃は[仲が良いなら喧嘩なんてしないでしょ]と、思っていた。
でもそれは違うんだなと、二人を見ていて気づいた。
お互い本音を語り合い、それでぶつかる事もある。
衝突を恐れて自分の気持ちを押し殺す事で、お互いが幸せになれるならそれでもいい。
関係の浅い友達なら尚更だ。
けど、長い時間一緒に生きていく夫婦同士ではそうはいかない。自分の気持ちに嘘をつき続けてまで、二人で同じ時を過ごす意味があるのだろうか。
私がそれを強く意識し、羨ましいとさえ感じたのは、自分に出来ない事だったからだと思う。
小学校や中学校では普通に友達はいた。
どちらかと言うとクラスで目立っているグループだったし、それなりに楽しくやっていたと思う。
ただ、その頃の私は周りの目ばかり気にして、嫌われないように必死に立ち回っていた。
上辺だけの関係、なんとなく心を許せていない感じ。
繰り返すけど、別にそれが嫌だった訳でもないし、[それなりに楽しく]やっていた。
まあ、それは自体はよくある話だし割愛。
現実世界でも物語でも、幸せな時間は長く続かないもので、私が中学二年生の時にお母さんは入院した。
当時の私は知らなかったんだけど、入院する以前から、かなり状態は悪かったらしい。
私からすれば、なんで急に? なんで教えてくれなかったの? って感じだったんだけど、中学生になりたてのお子様に、自分の母親が大病を患っていると伝えるべきかと考えた時、結論は簡単には出ないだろう。
私の母と父は、私の事を思って伝えない事を選択した。ただそれだけの話だ。
母が入院してからは、生活が一変した。
私は一人娘だったので、母が居なければ家事全般を私がやることにかなるのは必然だった。
それに加えて、入院中の母の着替えや日用品の管理など、やらなければいけない事が山積みだった。
そんな事をしていると、当然だけど放課後に友達と遊ぶなんて事は出来なくなる。
慣れない家事と早起きで、授業中もなんとなくぼーっとしていることが増えて、休み時間も机に突っ伏して寝ている事が少なくなかった。
そんな生活を続けていると、どうなるかは言わなくても分かるよね。
友達とは自然と疎遠になり、いつの間にかグループから抜けた状態。
同じクラスで、こんなにも近くにいるのに[疎遠]とは、冗談にしても笑えない。
物理的に遠いのではない。単に心の距離が開いただけだ。
ただ、それはそれでしょうがないと割り切る事はできた。それよりも、もっと辛かった事が二つある。
一つは母のお見舞いに来てくれる人が日を追うごとに減っていった事。
母は、とても大らかな性格で、身内を褒めるのもあれだけど、周りの人から凄く慕われている印象だった。
色々な人が代わる代わるお見舞いに来てくれていた。
仕事仲間をはじめ、学生時代の友達は勿論、趣味で始めたママさんバレーの仲間(今から思えば体力作りの一環だったのか)や、ご近所さん、町内会の人たち……と、挙げていけばキリがない。
だけど、入院が長引くにつれて、その数は次第に減り、母が亡くなる直前に、お見舞いに来る人は殆どいなくなっていた。
でも、それで私がその人達を恨んだりした訳ではない。
冷静に考えれば、それも仕方のない事だもん。
その人達にはその人達の人生がある。その人達の生活がある。
そう何度も何度も病院へ足を運ぼうなんて人の方が稀だろう。
きっと自分でもそうなってしまう。
私がショックだったのは、こんなにも素晴らしい人格者である母でさえ、たったの1年足らずで[過去の人]になってしまうのだという現実だ。
どれだけ好かれていようと、どれだけ親密な付き合いをしていたとしても、忘れられるのは驚くほど早い。いや、忘れられると言うのは語弊があるか。
思い出してもらえる頻度が減る、の方がしっくりくるかもしれない。
お父さんにその事で当り散らした事もあったけど、お父さんはただ黙って笑っているだけだった。
そして泣き疲れて黙り込んだ私の頭を撫でながら、「ごめんな、辛い思いさせてごめんな」と繰り返し謝るのだ。
お父さんは、何も悪くないのに、一番辛いのはお父さんなのに。
母の入院費や、高額な医療費を稼ぐために父は朝から夜遅くまで働き詰めだった。
そんな父からの優しい言葉を聞いて、私の体から水分が全て無くなってしまうのではないかと思うほどに、泣き続けた。
無力な自分をこの時ほど嫌いになった事は、後にも先にもない。
今思えばその頃からかな? 料理を極めようと躍起になったのは。
なんでも良いから必死に頑張る事で、何かを変えたいと思っていたのかも知れない。
二つ目は、母が亡くなった時。
単純に母を失った悲しみからくる辛さも勿論あった。
でも、ほぼ毎日病院に通って、母の様子を見ていると、お医者さんじゃない私でも分かる。
もう母は、長くは生きられない……と。
その分、心構えは出来ていたし、自分でも驚くほど冷静だったと思う。
では、何が辛かったのかと言うと……母のお葬式には沢山の人が来てくれた。
入院当初にお見舞いに来てくれていた人も含め、初めて見る顔の人も
沢山いた。
最後のお別れの前に、ハンカチを片手に、目に涙を浮かべる沢山の大人たち。
中にはひどく取り乱している人もいる。
そんな人達を見て、「ああ、母はこんなにも沢山の人達にあたたかく見送られて、なんて幸せな人生だったんだろうか」と、思った訳では勿論ない。
私の中に芽生えていた感情は、怒りに近いものだった。
お見舞いに顔を出すことをやめ、母の事など頭の片隅程度にしか置いてなかった[他人]達が、何をそんなに悲しげに泣いている?
何故そんなにも辛そうな[フリ]をしている?
どうして? 何のために?
葬式とはそうすべき場所だからか? TPOを弁えた立派な大人達だな。と、どこまでも歪んだ、最低な事ばかりが頭の中を埋め尽くした。
大人達は、更にこう言う。
「美柑ちゃん、大丈夫かい? これから大変になるだろうけど、力になれることがあったら何でも言ってくれ」と、そんな様な意味の事をみな口にする。
はっきり言って余計なお世話だ。今までだって十分大変だったよ。何を今更……善人ぶって。
それに、本当に助けを求めた時に手を差し伸べてくれる人がこの中に何人いる? 赤の[他人]の為に。
こんな時に冗談を真顔で言うのはやめて下さいと、喉まで暴言がでかかっていたのを覚えている。
この時の私は、とても醜い顔をしていたのだろうな。
その時から私と世界との間に見えない壁が出来上がってしまった。
自分や自分の周囲の事なのに、遠くからぼんやりとそれを見ているような感覚。
灰色とまでは言わないけど、世界の色彩が少し薄くなった様な感覚。
全てが[他人事]。
どうせ誰に好かれようと嫌われようと、人間死ぬときは一人だ。それなら、初めから切り捨ててしまえばいい。
生きているうちにどんなに大きな功績を残したとしても、それを覚えていてくれる人が一体何人いる?
だったら、私と言うと人間は、始めからいても居なくても同じではないか?
だったら、生きていたいとも、死んでしまいたいとも思わない。
もう、何もかもがどうでも良い……と。
そう思い始めた時から、私は新しい人との出会いをなるべく避けるようになった。
いや、出会ってしまう事はしょうがないんだけど、それ以降の進展を望まなかった。
今以上に友人や知り合いを増やす事に、何の価値も見出せないからだ。
そんな事をしていると、いつか一人になってしまうのはバカな私でも分かる。
分かった上で、一人になったらそれはそれで別に良い、と思っているのだ。
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