異世界召喚ゴムパッチン理論 〜自由意志ゼロの二世界往復、異世界で最強でも現世界ではいつも死にそうです
第十三話(三)「がぶり。」
「はー、やっとつかまえたのだ。下関君、置いてっちゃってゴメンねー」
ちょうどその時、モグタンを抱えたハム子とマルが戻ってきた。下関は全力で首を横に振った。
「いっいえ、全然! ジュリの奴が遊びたがらないせいで、小牧さんにお気を遣わせたら申し訳ないです」
「あっ、そうだ。これなら遊ぶかも」
マルは背負ったザックを開くと、中から白いプラスチックの円盤を取り出した。
「お、フリスビーか」
日本では広く普通名称化しているものの、フリスビーは本来商標であり、正しくはフライングディスクと呼ぶべきだが、マルが持っているのは正真正銘、ワムオー社の本物のフリスビーだ。
しかも競技用のガチな奴で、以前に大会にでも出るのかと訊いたら、単にペットショップで「フリスビーください」と言ったら出てきたものをそのまま買っただけだとハム子が言っていたのを、ふと思い出す。
「フリスビーで遊んだことはないけど、どうかな。やってみようか」
「うん。ジュリ~、これを取ってくるんだよ」
マルがジュリエットの前でそれをゆらゆらと振ってみせる。と、ジュリエットはバウとひと声吠えて、フリスビーに噛みついた。
「わっ……ジュリ、投げてからだよ。一旦放して」
マルはフリスビーを軽く揺するが、ジュリエットは何か癪に触ったのか、低くうなって歯を離そうとしない。
後ろから下関がジュリエットを抱え、綱引きをするように両側から引っ張ると、ようやく両者が離れ、マルと下関とジュリエットが芝生の上にごろんと転がった。
ぼくは苦笑いを浮かべたが、ジュリエットが低く構え、うなり声を上げ続けていることに異様な気配を感じた。
その目に、殺気めいたものを漂わせている。
何かおかしい。ぼくは目を細めて、視ることに集中した。
ジュリエットの垂れた耳の隙間から、黒くもやもやしたそれがゆっくりと溢れ出すのが視え──
「マル、危ない!」
ジュリエットが、猛然とマルに飛びかかる……ギリギリで、横からのぼくの体当たりが間に合った。
ジュリエットは数メートル跳ね飛ばされたが、足から着地して、同時にギロリとぼくをねめつける。
彼女の耳からの黒々としたオーラ──魔素は、今やはっきりと取り巻いているのが見て取れた。
「ジュリ、おまえまた……一体どうしちまったんだよ……!」
「みんな逃げろ! ぼくが大人しくさせる」
下関が悲痛な声を上げる。ぼくは、ジュリエットから目を離さないように低く身構えながら言った。
くそっ。犬も「魔素中毒」にかかるなんて、聞いたことがない。
だからジュリエットが急に機嫌を悪くするという話を聞いても、魔素が悪さをしている可能性を考えつかなかった。自分のうかつさが悔やまれる。
人間よりも厄介な相手だが、ぼくには責任がある。
魔素を取り除けるのは世界広しといえど、このぼくしかいないのだ。
ジュリエットは再び低い姿勢を取り、警戒するように、こちらを睨んでいる。
新城会長の時はいたし方なかったが、今度の相手は下関の愛犬だ。殴る蹴るの暴行はできるだけ避けて取り押さえたい。
どうすれば捕まえられる──?
ぼくの迷いを見透かしたかのように、ジュリエットは矢のように迫った。
さすが犬だ。人間よりはるかに突進が速い。
ぼくは大きく開いた犬のあぎとを引きつけてかわし、交差する瞬間を狙って首輪を捕らえようと手を伸ばした。
惜しい。
ジュリエットに一瞬早く駆け抜けられ、ぼくの手が空をつかむ。
試してみて分かったが、これは至難の業だ。下手に早く手を出せば、その手に食らいつかれるリスクが出てくるし……。
いや、待てよ。その手があったか。
ぼくは着ていたジャケットを脱いで、左腕にぐるぐると巻きつけた。
逆転の発想だ。咬まれるおそれがあるなら、咬ませてしまえばいい。
ただ、天気がよかったせいで厚手の上着でなかったことは、作戦上大いに問題がある。果たしてこれで彼女の牙が止まるかどうか……。
ジュリエットは反転して、再度飛びかかってきた。
その牙はまっすぐに、ぼくの喉笛を狙っている。殺る気百パーセントの攻撃だ。
ぼくは恐怖を必死に抑えつけて、開いた口の前に左腕を差し出した。
がぶり。
痛っってぇ──────!
声には出さなかったが、ぼくは激痛にむせび泣きそうになった。
やはりこんな薄布じゃ大型犬の牙は止められない。易々と貫いて、ぼくの腕にしっかりと食い込んでいく。布の抵抗で咬みちぎられないだけ、マシだと思うべきか……。
とにかく、この機を逃さないようにせねば。
ぼくは背中からごろりと転がると、両脚をジュリエットの胴体にがっちりと組みつかせた。俗に「だいしゅきホールド」と呼称される格好だが、詳しいことはぼくの口からはとても言えない。
耳の裏に指先を滑り込ませ、魔素を魔力へと変える。
ジュリエットのあごの力がおもむろに弱まり、やがて完全に腕から口を外すと、キューンと鼻を鳴らして頬ずりをし始めた。
「よし、よーし。怒ってない、もう怒ってないな。大丈夫、大丈夫……」
ぼくはジュリエットをなだめすかすそぶりを見せつつ、痛む左腕を彼女の身体の陰に隠した。
さて、下関が言っていたことを思い出せ。えーと。
狂犬病ウイルス。破傷風菌。バスツレラ菌。カプノサイトファーガ・カニモルサス菌。バルトネラ・ヘンセラエ菌。
これらが体内にあれば排除した上で治癒……ぼくはこっそり左腕に術式を与えると、ジュリエットを持ち上げながら身を起こした。
「ジュリ……だ、大丈夫か? もう暴れたりしないか?」
下関が駆け寄って、こわごわと訊ねる。ぼくは下関にジュリエットの耳をめくってみせた。
「下関、もしかしたらこれが原因なんじゃないか? 痛くてイライラしてたのかもしれない」
ぼくが魔素を魔力に変えて抜き取ったあとには、少し深めの傷が入り、血が垂れてきていた。それを見た下関は仰天して、ぼくから奪い取るようにジュリエットを抱きかかえた。
「こんなケガをしてたなんて、知らなかった! すぐ病院に連れていくよ。ありがとう、白河」
「ああ、お大事に」
走り去っていく下関の背中を見送って、ぼくはようやく、ほーっと息をついた。
しかし。
「ハヤ君、腕を見せるのだ!」
いきなりハム子に飛びつかれて、左腕に巻きつけたジャケットを強引に引っ張られた。
「うわっ……な、何すんだハム子」
「いいから咬まれたところを見せて! 私、絆創膏持ってるから!」
犬に咬まれたケガが絆創膏で済むと思っているのか、このバカっ娘は。
「あーもう! 大丈夫、咬まれてないから! ほら!」
ぼくは自分から巻いたジャケットをほどいて、左腕を露わにした。
どこにも傷のないぼくの腕を見て、ハム子が目をぱちくりとさせながら、その部分を何度も手のひらでさする。
「上手いこと歯が通らなくて済んだんだ。心配いらないよ」
「それなら、よかったのだ。……ハヤ君、あんまり危ないこと、しないでほしいのだ」
「……ああ。善処するよ」
ぼくはジャケットを羽織り直して、モグタンを抱えて遠巻きに見ていたマルの元に向かう。そのぼくの背中を、怪訝そうにハム子が見つめていた。
その彼女が見つめていたものは、ジャケットの背中の方についた犬の咬み跡のほころびと、その周りの赤いシミだったのだが、そのことにぼくが気づいたのは、家に帰ってそれを再び脱いだ時だった。
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