異世界召喚ゴムパッチン理論 〜自由意志ゼロの二世界往復、異世界で最強でも現世界ではいつも死にそうです
第八話(三)「彼女がモテモテで本当にうらやましいよ」
呉武中央病院は、呉武高校からは徒歩十分もかからないほどの近い場所にある。
ぼくは、幸いなことに家の近所の医院にインフルエンザのワクチンを射ちに行く以外は病院というものに今まで縁がなく、ここに来たのも、今日が初めてだ。
「すみません、先輩。やっぱり東棟の方でした」
「そうか。歳どころか性別まで変わっているなんて、小牧君はそこまで重症なのかと思ったよ」
故に大きな病院というのは不慣れな場所で、ハム子のいる病室を探してウロウロしたあげく、たどり着いたと思えば、そこにいたのはまったく見憶えのないお爺さんだった、というわけだ。
「そんなにいじめないでくださいよ。無駄に連れ回して悪かったです」
「別に責めているつもりではなかったんだが……君に冗談を言う時は、皮肉に聞こえないよう気をつけないといけないな」
朝倉先輩は困った顔をして、ぼくの後ろをついてくる。場の空気を悪くしてしまったことに、ぼくは小さくため息をついた。
病院内を歩き続けることさらに数分、今度は迷わずハム子の病室まで来られたようだ。病室の前の「小牧姫舞」のネームプレートを確認してから、ぼくは室内に入った。
「ハム子、いるかー」
声をかけると、右手の方でカーテンが揺れた。
「ハヤ君? 来てくれたんだ……あっ」
小さく開いたカーテンから頭を出した笑顔のハム子は、急に真顔になった。ぼくの隣に立っていた朝倉先輩の姿が視界に入ったからだろう。
「ハム子、こちらは──」
「副会長さん。あの、来てくれてありがとうなのだ。でもどうして──」
いやいやいや。どうしてハム子が朝倉先輩とすでに顔見知りなんですか。
「小牧君の様子が気になって、白河君に連れてきてもらったんだよ。先週は色々と教えてくれて、ありがとう。具合はどうかな」
朝倉先輩は歯を見せて笑う。ちょっと待て、ハム子に何を訊いた。ハム子は何を教えたんだ。怖い。怖すぎる。
ハム子はカーテンを全開にして、ベッドの脇に腰を掛ける。学校のジャージを着ていた。
ベッドの枕元の棚には、「早く元気になってね。ミヨ、サーヤ、マヒロ」と書かれたカードの付いた大量のお菓子が積まれている。ハム子のことをとてもよく分かっている、いい友達だ。
「昨日、色々検査したのだ。煙は吸っていないみたいだから大丈夫だと思うけど、しばらくは運動を避けて様子を見るように、って言われたのだ。今日問題ないなら、明日退院させてくれるって」
煙は吸っていない、か。分かってはいたが、魔術が大成功だったことが医学的見地からも確認できて、ぼくは少し自慢げな笑みを浮かべた。
「どこにもケガはしていないのか?」
いぶかしげに、朝倉先輩はハム子に訊いた。ハム子はうなずいた。
「うん。ハヤ君が助けてくれたから、何ともないのだ」
「──助けてもらった時の状況、詳しく教えてもらっていいかな」
「えーと、実はよく憶えてないんだけど……」
ハム子は、あごに指を当て、斜め上を見上げながらうなった。
「体育倉庫で、私はネットでぐるぐる巻きにされて動けなくて、そこにハヤ君が助けに来てくれたのだ。私を捕まえた怖いお兄さんたちとケンカになったけど、ハヤ君がやっつけたみたいなのだ」
「みたい……というと?」
「怖くて目をつぶってしまってたから、見てないのだ。ウシガエルが鳴いたような声がして、最後にハヤ君が『待て』って言う声が聞こえた時に目を開けたら、怖いお兄さんたちはもういなかったのだ」
「……その時、白河君や、不良生徒たちが大ケガをしたような形跡はなかったのか?」
さっきから、朝倉先輩は妙に誰かが「ケガをしたかどうか」を気にしているようだ。ハム子は少し考えてから、首を左右に振った。
「お兄さんたちは、ハヤ君の持ってた棒で叩かれたんだと思うけど、すぐ逃げていったみたいだから大ケガはしてないと思う。ハヤ君もどこもケガしてなかったのだ」
「ふむ……それからどうなったか、もう少し聞かせてくれ」
「それから……ハヤ君がネットをほどいてくれて、私が……その……」
ハム子の目が泳ぎだした。心なしか、頰に少し赤みが差している。
その瞬間、朝倉先輩の目が怪しい輝きをたたえたことに、ぼくはひどく恐怖を覚えた。
「そこだ。そこはきっとかなり重要な情報に違いない。さあ吐け……じゃない、話してくれ」
「……あ、あの、怖かったから、ね? 思わず、ハヤ君に……だ、抱きついて、しまったのだ」
ハム子が顔をうつむかせながら言うと、朝倉先輩が薄気味の悪いニヤ〜っとした笑いを浮かべ、横目でぼくを見てきたので、ぼくはその視線から逃げるように顔をわずかに背けた。
「そうか、そうか。そうしたら、白河君はどうしたのかな?」
「……『鬱陶しい』って言われたから、すぐ離れたのだ」
はっきり聞こえるように、朝倉先輩は舌打ちした。
何なんだ、この居心地の悪さは。
「でも、何だか安心してきて、そしたら頭がぼーっとしてきたのだ。そこからはよく憶えてなくて、気がついたら病院のベッドにいたのだ」
「火事のこととか、全然知らなかったのか?」
「うん、後で体育倉庫が燃えたって聞いたのだ。きっとハヤ君が助けてくれたんだって思ったけど、詳しいことは分からないのだ。ハヤ君、ありがとね」
「あ、ああ。でも、やって当然のことしかしてないよ、ぼくは」
「やって当然のことでも、してくれたこと自体に向ける感謝があるべきだろう。私も、深夜のコンビニでだるそうにレジを打ってくれたバイトのお兄さんにだってありがとうって言うぞ」
身体中を傷つけて血まみれになって死にそうになってハム子を助けたことと、コンビニの深夜バイトのやっつけ仕事を同列にされることには多少のやる方なさを感じるが、朝倉先輩の言いたいことの理屈は分からんでもないし、それ自体は、嬉しい言葉だ。
「──さて、火事のことはもうここまでにしよう。明日には退院できるとしても、授業の方の遅れが気にかかるな」
朝倉先輩は腕組みをしてうなった。普段はおどけていても、大事なところで親身に人を案じてくれる辺り、ぼくはこの人を憎めない。
「今日の分は、サーヤにノートを取ってもらったのだ。明日以降もクラスの友達が順番でノートを取ってくれるって言ってくれたのだ」
「そうか、いい友達を持ったな。少々口が軽いのが玉にキズだが」
くっくっと、先輩が怪しい含み笑いをする。やっぱり怖い人だ。前言撤回しようかな。
「あー、そーだ! ミヨが言ってた、あのこと副会長さんにしゃべっちゃった、って!」
「うん、聞かせてもらったよ。君の人となりに興味があったのでね。心配ないぞ、そのことはこの場にいる者だけしか知らないから」
先輩が笑ってサラッと言った。
一瞬だけ間があって、ほぼ同時に、二人の視線がこちらに向く。
「彼女がモテモテで本当にうらやましいよ。なぁ、白河君」
朝倉先輩からトドメの一撃を受けて、ハム子は瞬時に全身が茹でダコのようになった。
「にゃ────っ! 忘れて! 忘れてほしいのだ──っ!」
ハム子は布団をかぶってうずくまってしまった。
ぼくは短く嘆息をもらして、静かに、カーテンを閉じた。
「ハム子、ぼくらはこれで失礼するよ。退院したら、また学校でな」
目を細めて朝倉先輩をにらむと、ぼくは病室を後にする。先輩は眉をハの字にして小さく舌を出しながら、後ろについてきた。
「先輩はデリカシーが足りないですよ。ハム子は基本ガサツですけど、あれで結構人並みにナイーブなところもあるんですから」
廊下に出てきたぼくは、小声で朝倉先輩を叱りつけた。先輩は珍しく、肩を縮こませて、人差し指同士の先をこね回している。
「済まない。何か、ちょっとイラついてしまっていてな……君ともう少し話をしたいと思うんだが、そこの談話室に行かないか」
先輩が、通路の少し先を指差す。ぼくはその方をちらりと見てから、おもむろにうなずいた。
廊下を少し歩いて、ぼくたちは一面が大きなガラス張りで開放感のある大部屋へと入った。八階建の最上階だけあって、ガラスの外は住宅街の町並みが広がり、そこそこ見晴らしがいい。
窓ガラスに寄り添うように簡素な椅子とテーブルのセットが何脚も置いてあり、部屋の端には飲料の自動販売機が数台並んでいる。
ぼくは手近な席の椅子を引いて朝倉先輩の着席を促すと、その対面の椅子にどかっと座った。先輩が腰を下ろすのを待って、ぼくは話し始めた。
「まずは、先輩のイライラの原因の方から解決しましょうか。ぼくは先輩が冷静な人だと思っていましたから、ちょっと驚いてます。一体どうしたんですか?」
「冷静? それは心外だな」
朝倉先輩は、きょとんとして訊き返した。
「私のどこを見て、そんなことを思ったんだろうか。それに君とはこの間知り合ったばかりで、そのようなイメージを持たれるほどのつき合いもないはずだが……」
「あれ……そうですね、何でだろう。いやそれより、何か気に入らないことがあるのなら、ぼくが聞きますよ」
朝倉先輩が、腕組みをしてうなる。考え事をする時の癖なのだろう。
「──先ほど、小牧君が『君に抱きついた』と言っただろう」
心臓がどくんと強く打った。ほんの少し、頰が熱くなるのを感じる。
「そ、それが何か──」
「その後の君の塩対応がな、つまらないなと感じたと同時に、心の底の方で何か、ムズムズする気分もあったのだ。ストレスというか、とにかく嫌な感じがして……申し訳ない。私自身のことなのに、私にも上手く言い表せない」
「……分かりますよ。ぼくにだって、自分でもよく分からないことでイラつくことぐらいありますから。でも、もう腹いせでハム子やぼくをイジるのはなしでお願いしますよ」
「ああ、気をつけるよ。──さて、もう少し君に訊きたいことがあるけど、いいかな」
「どうぞ」
ぼくは姿勢を正して、彼女の言葉を待った。
「不良生徒たちとのケンカなんだが……君、結構強いのだな。驚いたよ」
「まあ、手近にちょうどいい棒があったので。運が良かっただけですよ」
「どういう風に闘ったのか、詳しく聞かせてほしい」
ぼくは不良ABCとの戦闘について、一部始終を語った。
余談だが、不良Bの腋の下を突いたと言った時に「乳首ドリルは?」「してません」「せんのかーい」というやり取りがあったのは、予想の範疇だ。
ひと通り話した後、先輩はふーっと深いため息をついて、腑に落ちないといったような渋い表情を見せた。
「やっぱり、な。白河君、君は本当に、ケガをしていなかったのか?」
「……どういうことです?」
「実はな、私も消火が済んだ後の、火災の現場を見に行ってみたのだよ。焦げていて分かりにくかったが……倉庫の床には、かなり大量の血が流れた跡があったんだ」
固唾を呑む。
動揺が顔に出ないようにしたつもりだが、朝倉先輩がどこまで見透かしているのかは計り知れない。
「探偵の真似事をするつもりはないが、我が校の生徒に、そんな大ケガをした者がいるとしたら放ってはおけないと思ってな……あれは、一体誰の血だったのか。白河君は、それについて本当に何か知っていることはないのか?」
「……い、いえ、血の跡なんて初めて聞きましたし、ぼくにはさっぱり分かりません」
三秒ほど、重苦しい沈黙が続いた。
「……あっ、ぼくはそろそろ帰らないと……その前にちょっと、トイレ行ってきますね!」
朝倉先輩が背後から声をかけてきたようだったが、よく聞き取れないまま、ぼくは有無を言わせぬ勢いでその場を離れた。
まずい。非常にまずい。ぼくは混乱している。
頭を冷やす時間が、ぼくには必要だった。
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