異世界召喚ゴムパッチン理論 〜自由意志ゼロの二世界往復、異世界で最強でも現世界ではいつも死にそうです
第六話(一)「かゆい」
薄暗い場所だった。
かすむ目には、何も映るものはない。
しかし、目に見えなくても感じていた。今までの世界にはなかった、濃密な、魔素の存在。
手を伸ばした。その掌中へと、みるみるうちに魔力が満ちていく。
指先一つ動かすにも激痛が走る。その苦しみに抗いながら、自分自身を覆いかぶす広範な術式を虚空に描き出す。
魔力の柔らかな光を全身に浴びて、ほんの数秒のうちに、それは終わった。
ゆっくりと、腕を、脚を動かす。
もはや痛みはない。
ただ……ただひたすらに、かゆい。
毎回思うが、この自然治癒を超高速で促進させて傷を治す魔術は、傷口が謎の体液にまみれてグジュグジュになる辺りで、発狂しそうになるほどかゆくてたまらない。
しかし我慢できずに掻きむしってしまうと、結局傷が開いて痛くなり、またすぐにかゆくなるのを繰り返すだけなのだ。あとほんの何秒かだけ、かゆみの嵐が過ぎ去るのを待つ他にない。
しばらくの後にかゆみも収まって、ぼくは上体を起こした。
失った血も戻って、頭もすっきりしている。ぼやけていた目の焦点も合ってきた。
改めて薄暗い部屋の中を見回すと、ぼくは冷たい石の台座の上にいるのが分かった。台座には例の召喚魔術の、見ただけで頭が痛くなるような複雑怪奇な術式が刻まれ、その周りには、魔術を安定させるための補助術式が彫られた石碑が立っている。
かつてオド老師に召喚されたあの時と、まるで同じ光景のように見えた。
だがあの時に老人が立っていた場所には、代わりに見覚えのない、少女の姿があった。
肌の浅黒さと、多少黄味がかっている銀色の髪は、彼女が魔族であることを示していた。やけに量が多くてこんもりとした髪の毛を、側頭部から左右二本の太い三つ編みにしてまとめている。愛嬌のある丸顔と大きくつぶらな瞳に、背格好の小ささも相まって、まだ年端もいかない子供のようにも見えた。
「あ……ああ……」
少女が感嘆を漏らした。ぼくと目が合うと、その大きな眼窩から、大粒の涙があふれ出した。
「せ……成功したっス……! ヘザ様、ヘザ様! 召喚成功っスよ!」
その時、ぼくはかの少女から少し離れて、顔をうつむかせて床に座り込んだ人物がいることに初めて気がついた。
赤茶色のくるくると癖のついた長い髪に埋もれて顔は見えなかったが、その女性を、ぼくが見まがうはずもない。
「──ヘザ」
名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。
ほんの数日の間しか離れていなかったのに、何十年も経て、奇跡的にばったり出会えたかのような気分だ。
その声に反応するかのように、彼女は顔を上げた。鼻の先まで眼鏡がずり落ちて、目にも顔色にも、ひどく疲れた様子を見せている。
「……ああ、ハイアート様……よくぞお戻りくださ……誰だ貴様!」
眼鏡を持ち上げてこちらを見た瞬間、ヘザは、いきなり怒声を張り上げた。
目が殺気立っている。
ぼくに向けて突き出した指の先から、今にも火炎をほとばしらせそうな勢いだ。
「えっ、ええっ? ヘザ様、あの方はハイアート様ではないっスか? 一体、どこに間違いが……」
魔術師の少女はおろおろとあわてた様子で、床に置かれた帳面を拾い上げると、大量に試算を書きなぐった跡のある魔術の理論式を、ぶつぶつと読み上げ始めた。
ぼくは唖然として、二人を交互に見回す。
「へ、ヘザ、一体何の──」
「貴様が何者かと訊いている。答えねば……」
並の精霊術師ではなし得ない大きさの精霊力がヘザの指先にこもり、灼熱の光を生じさせた。あれを食らえば、ぼくは一瞬で全身の皮膚が焼けただれ、理科実験室の人体模型みたいな姿に変えられるだろう。
リアルに「相手は死ぬ」精霊術だ。
しかし、なぜだ。ヘザがなぜ、ぼくを他人と見間違えているのか──
あっ。
「待った、待った。ヘザ、ぼくはハイアートだ。元の世界に戻った時、なぜだか知らんが、若返ってしまったようなんだ」
ヘザと初めて会った時、ぼくはすでに三十三歳だった。十五歳のぼくと同一人物に見えないのは当然の話だ。
「若……返った? そう言われると……確かにハイアート様に似た面影が……モエド魔術官!」
「ハイっス」
ヘザは目を細めてじっと見つめるが、まだ警戒を解く気はなさそうだ。モエドと呼ばれた少女は返事をして、ヘザの傍らに駆け寄った。
「召喚された者が元の世界に戻った時に若返る……そんなことがあり得るのか?」
「ハイアート様自体、この世で初めて召喚魔術を使われた対象っスから、過去の事例というものがまったくないので確証は持てないっスが……理論上、そのような現象を起こす可能性が、十分に考えられるっス」
ヘザは腕組みして、思案を巡らせるそぶりを見せたあと、再び口を開いた。
「……そうか。では、ハイアート様ご本人であれば大変失礼ではありますが、しばらくは牢に監禁させていただき、疑いが晴れるまで尋問を──」
「そいつは、いただけない提案だな。疑いを晴らさないといけないのなら、前にぼくがヘザと共に、アハドー伯爵家の晩餐会に招かれた時のことをしゃべっちゃうぞ」
ヘザが、びくりと身体を震わせた。すでに顔の周りに火精霊がたかり始めている。
「あれはー、確か八年前ぐらいだったかなぁ? ヘザはこともあろうに、うっかりスープの皿を跳ね上げて、伯爵の顔に──」
「ギャ────ッ! わ、わ、分かりましたあなた様はハイアート様です間違いないです! ですからその時のことはもうおっしゃらないでくだああぁぁ────!」
ボフン、という擬音と蒸気が目に見えたかと錯覚するほど、ヘザは全身が瞬時に茹で上がったかのように真っ赤っかに染まった。両手で顔を覆い、幼児がイヤイヤをするみたいに左右に激しく身をよじる。
よし、勝った。
腕組みして誇った笑みを浮かべるぼくと、黒歴史に悶絶するヘザを交互に見やって、三つ編みの少女は口を押さえ涙目で、吹き出しそうになるのを必死にこらえていた。
「どうっスかハイアート様。すっかりきれいになったでしょう」
モエドさんは、まだ雫の垂れる制服のシャツをぱっと広げてみせた。さっきまで血に染まって全面が赤黒かったそれは、驚きの白さに戻っている。
「いやあモエドさん、洗濯なんてしてもらって、申し訳ないな」
ぼくはぺこりと頭を下げた。
ここは、魔王城の会議室だ。現在は主に魔界防衛大隊の司令本部として使っており、この戦争が始まってからは、ほとんどの時間をここで過ごしている。
ぼくが大抵ここにいるため、ぼくに用事がある者がまずここを訪れたり、ここで待っていたりすることが多くなったせいで、この会議室は何かと人がたむろするようになっていた。
ぼくを再びダーン・ダイマに呼び戻した召喚魔術を行った場所は、この城の地下だった。特に魔素が溜まりやすい一角を、召喚魔術用の部屋に造り変えたとのことだ。
ぼくがこの世界から消えたあの後、ヘザはすぐに召喚魔術でぼくを呼び戻そうと考えた。
まず、召喚魔術をなし得るほどの魔術師を捜すということ自体、本来なら難しい話だ。ダーン・ガロデとミムン・ガロデを隅々まで探しても、オド老師に匹敵する魔術師はいないと断言してもいい。
しかし「魔界」は、魔術に長けた魔族の国だ。その魔界でも魔術の天才と称されるモエド・オ=ホ=ズレスに早々に接触できたことは、ヘザにとって、そしてぼくにとっても幸運なことだった。
ヘザはモエドさんを軍の臨時魔術官に登用すると、二人で召喚魔術の再現に取りかかった。オド老師は召喚魔術に関する資料をほとんど残しておらず、その過程で書きなぐったメモ書きや実際に使われた術式のかけらを、すでに朽ち果てていた老師の隠居住まいから掘り起こしたり、ゲイバム王宮の書庫をひっくり返したりしてかき集めたという。
そこからは研究とトライ&エラーの繰り返し。ここ数日間はこれらの作業で、ヘザもモエドさんもほとんど不眠不休だったそうだ。
しかし不眠不休でと言っても、オド老師が長年、半生をかけて研究してきた召喚魔術を数日で踏襲し、実現にこぎ着けたのだ。このモエドという魔術師は、本当に天才としか言いようがない。
ちなみに、モエドさんを前に「少女」と言い表したが、実は成人の年齢をとうに過ぎた立派なオトナだったことを付け加えておく。見た目の幼さに触れると激おこなので注意するようにと、こっそりヘザに教えてもらった。くわばらくわばら。
「いいっスよ。あたし、洗濯大好きっスから」
「しかし、どうやってこんなにきれいに洗えるんだろう」
「ん。服のシミってのは、糸の一本一本に汚れが入り込んでるから、洗っても取れないんス。だから糸の中の汚れを表面の方に、こう移動させて……ね。これだけっスよ」
いとも簡単な風に言ってみせるが、「こう移動させて」の時に描いた魔術式は、パッと見ただけでは理解するのがかなり難儀なものだった。これだから天才は困る。
「じゃあ、服を干してくるっスから、もう少し待ってほしいっス」
「あ、待って。乾かすよ」
ぼくはシャツに触れ、水の精霊術で、シャツが含んだ水分を水蒸気に変成させて空気中に放った。
「え、うわぁ! もうカラカラっスよ! ハイアート様スゴいっス、天才っスね!」
こんな簡単な精霊術で天才と言われてもなぁ……と思ったが、もし先ほどの服の汚れを浮かせる魔術のことでモエドさんを天才だと声に出して言っていたなら、きっと彼女も「こんな簡単な魔術で?」と思ったんだろうな。
「ん? ハイアート様、何かおかしいっスか?」
おっといけない。思わず笑いがもれてしまったらしい。
「何でもない。それぞれがデキる分野で補い合って、尊敬し合うってのはいいことだな、って思ったのさ」
「うーん、そっスね。いいことっス」
屈託なく、モエドさんはにっこりと破顔した。
「ズボンの方も乾かそうか。ちょっと貸して」
モエドさんはズボンを引き渡すと、目をらんらんとさせてぼくの手元を見ている。シャツと同様に水分を飛ばしてやると、彼女は拍手をして喜んだ。
「い、いやいや。大したことじゃないからね」
「大したことですよ、ハイアート様。水精霊術は、相対染性を持っている私にはまったくできないことですから」
声に振り見ると、部屋の戸口にヘザの姿があった。
ヘザの精霊染性は、火精霊の割合が非常に大きく濃く、それに土精霊と魔素がそこそこの配分で混じっている。故に、相対関係にある精霊である水と風にはまったく染性を持たず、その属性の精霊術を一切操ることができないということを、彼女は言っているのだ。
「ヘザ。さっきは食事をありがとう」
「いえいえ。ハイアート様のあんなに大きなお腹の音は聞いたことがなくて、ついあわててしまいました。すぐにご準備できず、申し訳ありません」
先ほど、ぼくは全身のケガを治したため、体内の栄養とエネルギーを存外消費してしまった。そのせいで、お腹が空いたというサインを身体が出しまくってしまったのだ。
そんなわけでぼくは今、ヘザに用意してもらった簡単な食事を済ませたあと、食休みをもらっていたところである。
「気にしないでくれ。とても美味しい食事だったよ──特に、スープがね!」
スープという単語を不意打ちで食らったモエドさんが、今度ばかりはこらえきれずにブフーッと吹き出してしまった。
「~~~~モエド魔術官っっ!」
「わわっ、い、今のは明らかにハイアート様に悪意があったっスよ! いた、いたたっ、許して欲しいっス、ヘザ様!」
逃げるモエドさんを、赤鬼のような顔をしたヘザが彼女の頭を叩きながら追いかけ回す。
まぁ、当然狙ってやった。反省はしていない。
バダン!
突然、大きな音を立てて会議室の扉が開け放たれ、鮮やかな銀髪の美男子が飛び込んできた。
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