変態パラドクス

蒼風

第1話 変態の作り方

「君はなんていうか……空っぽだね」
「はい?」
オンリーイベントの会場。自らの書いた同人誌を机に並べて座る黎の前に、突然現れた女性の第一声はそんな言葉だった。
「いきなりゴメンね。でも、気になっちゃって」
「はぁ……」
「うーん……でもこれはどうしたらいいんだろーなー……」
女性は頬に指を当てて考え込み、
「そうだ!君はあれだ、女装したらいいよ!」
名案の様にとんでもないことを言い出す。
「えっと……何でしょうか?」
「だって、君が女装したらきっと可愛くなるもの。後はね、」
少し声のトーンを落とし、
「君の……いや、女装したら、君は別人になれると思うから」
「別人……ですか?」
元の明るいトーンに戻り、
「そ。何なら別の名前になったっていいわ。髪は短いから……ウィッグでごまかすしかないかな。ま、逆に別人になりやすいとも言えわね」
うんうんと頷き、
「君は君よ。でも、女装している間は全く別の人間になれる。極端な話、法とかに触れてなければ何やっても、その責任を持つのは君じゃない。女装した君なわけ。そこまではオッケー?」
黎は一方的な勢いに押され、
「えっと……はい」
「だからさ、いつもはやらない様な事とか、いつもは出さない自分とかも出せるの。ほら、良い事づくめ」
「そう、なんですかね」
「そうよ!」
女性は自信満々である。
「よし!そう決まったら……君の名前は?」
「えっと……」
目の前の女性は悪い人ではなさそうだ。でも、流石に本名を教えるのは良くない。そう思い、
月守 つきもり…… はるかです。三日月の月に、攻守の守。それに遥か彼方の遥と書きます」
自らが使っているPNを名乗る。
「えっと…………月守遥、ね。分かったわ」
女性はポケットから取り出したスマフォを弄る。名前をメモしているのだろうか。
「ん。オッケー」
スマフォをしまい込み、
「そうだ。あなたの本、ちょーだいな。おいくら?」
「あ、えっと……五百円です」
「ごひゃく……ちょっと待っててね」
女性は懐から万は下らなそうな財布を取り出して中を探り、
「ああー……やっぱ小銭無いかぁ~……」
悲痛な声を上げる。どうやら丁度いい金額が無かったようだ。
「あの、お釣出ますけど……」
「ホントに?」
一瞬で顔が明るくなる。随分と喜怒哀楽が表に出る人だなと感心する。
「ええ。何円ですか?」
「えーっとね……」
再び財布の中を覗いた女性は、
「……ゴメン。一万円札しかない」
「それは……」
この手の同人誌即売会は、元々買う側がピッタリの小銭を用意しておくという習慣がある。勿論、ピッタリ以外は受け付けないというのはどうかとも思うので、黎は一応ある程度のお釣は用意していた。していたのだが、一万円札しか持っていないなどという人は流石に想定外だった。よく見れば着ている服も高価に見える。ぶっちゃけ場違いだった。
「うーん……しょーがない!君に対する先行投資って事で、ハイ」
「えっ」
びっくり。何と女性は一万円札をポンと差し出してきたのだ。
「あの、お釣無いんですけど……」
「いいのいいの!とっといて!」
更にびっくり。まさか「釣りは要らない」なんて事を言っちゃう人が現実に居るとは。
「それじゃ、一冊貰って良い?」
「あ、はい。それは勿論」
女性は黎の目の前に積まれていた同人誌の山から一冊手に取り、
「それじゃ、まったね~」
その現実離れした行動に黎は思わず、
「あのっ」
「ん?なあに?」
「えっと……」
黎は少し戸惑いつつも、
「名前を、教えてもらってもいいですか?」
女性は失笑し、
「なんだ、そんな事?」
「は、はい」
女性は「うーん」と考え込んだ後、
「調」
「しらべ……ですか?」
「そ。調査の調って漢字でね」
調はニコッと笑い、
「それじゃ、ばいばい」
手をひらひらさせながら去、
「あ、」
ろうとして止まり、
「女の子の服とか、そういうの。送っとくよ。流石に持ってないだろうし」
「え」
調は再び手をひらひらさせながら、
「んじゃ、ばいば~い」
去っていく。やがて、もう片方の手に持っていた黎の同人誌を開いて目を通しだす。
「何だったんだ……」
突然現れ、やりたい事をやって、去っていく。嵐のような女性だった。
(っていうか、月守遥って名前だけじゃ服は送れないと思うんだがな)
月守遥、というのは黎―星守ほしもり れい―のPNでしかない。当然同人誌には住所なんて書いてないし、そもそも月守遥という人物はこの世には存在しないのだ。だから「女物の服」なんて送りようがない。そのはずだった。



◇      ◇      ◇




「では、これで今日の会議を終了とします。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
ホワイトボードの前に立つ生徒会長・雨ノあめのもり久遠 くおんの号令に、黎を含めたメンバー全員が応える。
生徒会。学生が主導する集団の中でもひときわ存在感を放つ物。特に黎の通う青洋学院はこれが非常に権限を持っている。いわば生徒の“代表”ともいうべき生徒会役員たちは、そんな身分に誇りを持ち、学生生活をよりよい物にすべく、日々活動しているのだ。
「あー終わった終わった。どっかよってこーぜー」
「えーお前それいっつも言ってんじゃん」
「でも、どっか行きたいよね。どっか」
訂正。誇りは余り持っていないかもしれない。
「黎もどっかいかねー?」
同じクラスの友人でもある牛込うしごめ伊織 いおりが黎にも話を振る。胸元を緩めた制服。やや長めの金髪。青みがかった目。ハーフな事も相まって高い鼻。高価なスーツを着せて夜の街に放り込めば一流ホストと何ら遜色ない顔。そんな彼は黎の親友でもあった。
「いや、今日は止めとくよ。ほら、アレがあるから」
アレ、というのは同人誌の締め切りを指している。特に意識する必要は無いと思うのだが、開陳する必要も無いだろうと思い、伊織の様な親しい相手以外には教えていない。
「おう。分かった。んじゃ、また明日な」
「ああ」
最初は「またそれかよ」と文句を言われた物だったが、流石に数を重ねたこともあってか、最近は直ぐに引き下がる様になっていた。リア充全開、皆で一緒に盛り上がる事こそ至上!というタイプの人間にしてはいやに理解が有る。伊織のこういう所は好感が持てると思う。
伊織が友人からの「ねー、アレってなんなのよ」とか「ばっか、お前そんなもんコレに決まってんだろ!」と言いながら小指を立てたりする役員'sの追求を躱しながら部屋を出ていく。黎は彼らが部屋を出て、十分な時間が経つまで席に座っている。別にその必要は無いのだが、再び鉢合わせるというのは余り良い事では無いような気がする。
黎は三人の声も聞こえなくなったことを確認し、帰り支度を始める。既に室内には誰も、
「あ」
居た。生徒会長の久遠。既に黎以外誰も残っていないにも関わらず、そんな事には目もくれずにPCの画面とにらめっこしている。そんな何でもない日常のワンシーンですら絵になるのは流石である。加えて髪も綺麗だ。黒髪ロングにワンポイントのおしゃれとして付けているリボン。そして、二年生にして生徒会長。完璧だ。完璧すぎて黎とは生きている世界が違う。
集中している所を邪魔するのは悪い。黎はさっさと荷物をまとめ、
「それじゃあ、お先に失礼します」
とだけ告げて部屋を出る。その間、久遠は最後まで無言であった。



◇      ◇      ◇



「ただいまー……」
家に帰り着いた黎は誰に向けるでもない帰宅の挨拶をする。何の変哲もないワンルームマンション。その一室が黎の帰る場所だった。学校からは徒歩五分。最高の立地と言って良い。しかし、
(無駄遣いだよなぁ……)
時折考えてしまう。この部屋での一人暮らしに果たして意味はあるのだろうか、と。実際の所、実家から学校も通えない距離じゃない。ドアtoドアで三十分以上一時間未満といった按配。だから両親から一人暮らしの提案をされた時は正直驚いた。登校にかかる時間が短くなるのは願っても無い事だし、一人暮らしに対するあこがれが無いわけでもない。しかし、余りにも無駄なのではないか。そんな事を言ってはみたが、やれ「一人暮らしは経験するべきだ」だとか「後々の為になる」だとか理由を付けて推し切られてしまい、現在に至っている。
「よっ……」
黎は靴を脱いで、廊下を通り、自室へと向かう。そして、鞄をその辺に置き、洋服ダンスを物色する。
「……これと……これかな」
黎は手ごろな服を見繕うと、制服を脱ぎ、上着はハンガーにかけ、シャツや下着は全て纏めてベッドの上に置く。こちらは後で纏めて洗濯機にかける物だ。そして、見繕った衣類を身にまとい、金のウィッグを付けて水色のカラーコンタクトを装着し、姿見の前でくるりと一周する。
「うん。良い感じ」
鏡に映っているのはどこからどう見ても年頃の女の子だった。元々体形が華奢な上、女性にしては短い髪もウィッグを被れば全く問題が無い。元が男なので胸は平ら。最初はパッドを入れて誤魔化すべきかとも考えたが、そこまでこだわらなくても女性に見えるだろうということで、平坦なまま現在に至っている。
「慣れたなぁ……」
ぽつりと零す。今では躊躇いも無ければ、手間取る事も無く、毎日の様に女装しているが、そこに至るまでは紆余曲折が有った。
「……色々有ったなぁ」
黎はふと、過去に思いを馳せる。



◇      ◇      ◇



一年以上前、とある作品のオンリーイベントに参加した時、“調”と名乗る不思議な女性に女装を勧められた。その場所に余りにも不釣り合いだったので今でもよく覚えている。そして、後日黎が一人暮らしをする部屋に、調名義で段ボール箱とはがきが届いた。
ぞっとした。オンリーイベントで、しかもPNを名乗っただけのはずなのに、どうして住所まで特定できるのだろうか。自宅に届いたのならばまだびっくりする程度で済んだかもしれない。ところが、マンションの方に届いたのだ。ちなみにその時点で一人暮らしを初めて一か月も経っていない頃である。有り得ない。それ以外に言葉が見当たらない。余りに不気味で最初に段ボール箱だけ届いた時には開けるという選択肢すら頭に浮かばなかった。
それから少しして、はがきを受け取った。はがきには先に送った箱の中身は女装に必要な物一式であるという事、メールでもいいから交友関係を持ちたいという事、シールで隠してあるけどメールアドレスも併記した事が書かれていた。黎は流石にはがきなら危険は無いだろうと考えシールをはがすと、確かにそこには調の物と思わしきメールアドレスが書かれいた。末尾を見る限り使い捨てのメールアドレスでもなさそうである。恐らくは携帯の物だ。
取り敢えず連絡を取ってみよう。せめて、何でこんなものを送ったかの理由位は聞くべきだ。黎はそう方針を決め、はがきだけ持ってパソコンを立ち上げ、長らく使っていないフリーのアドレスからメールを送る。幾ら向こうが携帯のアドレスを教えているとは言っても、普段使いのアドレスから連絡を取るのは流石に怖い。相手と会ったのはあの一回だけなのである。用心はするに越した事はない。
暫くして、返信が来る。フリーのアドレスを使った事に関しては「まあ、そうだよね」の一言で流され、
「私、結構君の事気に入ったんだよね。だから、服をあげようと思ったわけ。サイズは大丈夫だとは思うけど、合わないのが有ったら言って。私を信じられないなら開けないで、送り返してくれてもいいよ。住所は書いてある所に送ってくれれば私に戻るから。でも、折角だから着てほしいな。それじゃ、またメールするね」
気に入った。たったそれだけで(重さから推測するに恐らく)段ボール一杯の服を送るだろうか。しかも、信じられなければ送り返せばいいとまで言っている。持っていたはがきを確認する。名前こそ調としか書いていないが、住所はしっかりと書いてある。実在しない場所という訳でもなさそうだ。黎はネットを立ち上げ、検索窓に書いてあった住所をそのまま打ちこむ。
「……出版社?」
ヒットしたのは大手出版社だった。恐らくこの名前を知らない日本人は殆ど居ないだろうというレベルの。ただ、はがきの方にはその住所に加えて、「調係」という単語がくっついていた。そんな係が本当に存在する物なのかと再度検索を掛けてみるが、こちらは見当違いの事ばかりがヒットする。この時点で黎はかなり疑心暗鬼になっていた。
取り敢えずカマを掛けよう。そう考え、黎はまずはがきを購入。そして、そこに「このはがきが届いたのならば写真に取ってメールしてください」という旨と、「このはがきに見覚えが無ければシュレッダーにでもかけてください」との注意を書いた上で、写真を撮り、「月守遥」名義で、「調係」に送りつけた。もし、住所が出鱈目であれば、はがきは調には届かないし、返信も来ないはずである。また、それに加えてメールで「段ボール箱は取り敢えず開けたけど、今は忙しいので取り敢えずそのまま部屋の隅に置いてあります」という具合に伝えた。これで、黎が警戒心を持っているという事は伝わりづらくなるし、もし警戒していると思われても手書きの文字を偽造する事は流石に出来ないだろう。そこまで読んで上を行く相手なら、こんな回りくどい手段を取るはずがない。危険物、という可能性も考えたが、無名の作家が書いた同人誌に一万円を払っていく位だ。流石にそんな事はしないだろう。そもそもそんな物が配達され得るのかは分からないが。
そして、そんな風に具合な対策をし、相手を探り、取り敢えず一週間は待つことになるだろうと考えていたのだが、何と翌日にはメールが届いた。
『君は随分と疑心暗鬼だね~。でも、そうだね。突然そんなもの送られたらそうなるか。ゴメン。はがきの写真も添付したし、嫌じゃなかったら来てくれると嬉しいな』
といったメールが送られてきた。ちなみに頭を下げて謝るような絵文字もついていた。
この時点で黎は調が単なる好意で「女性ものの服」を送ってくれているという事を殆ど疑っていなかった。どころか、今まで過剰すぎるほどの疑いを掛けた事が申し訳なくなってきた。だから、
『嫌なんて事は無いんです。それと、疑ってごめんなさい。もし、良ければこれからもメールしてください。直ぐには返せないかもしれませんけど。なるべく返すようにしますので』
と、一つ誤りを入れて、箱を開けた。
「わお……」
中は見事に女性ものの服だらけだった。黎はいまいち扱いに困りながらそっと取り出していく。
「うわ、下着もあるよ……」
当然なのかもしれないが、下着もあった。確かにスカートの下がトランクスではあんまりよろしくない。夢が壊れる感じがする。それは分かるのだが、やっぱり少し緊張する。黎はおそるおそるといった手つきで下着類を取り出し、既に積み上げてあった服の上に積み上げる。
服も、化粧品類も、それからウィッグも取り出し、箱も底が見えてきたころ、
「これは……」
一冊の本に行き当たる。黎は、ブックカバーが付けられたそれを手に取り、ぱらぱらとめくる。
「ああ……」
めくっていくたびに、黎の顔は苦さを含んだ笑みに変わっていく。これは「女装のマニュアル本」だ。恐らく調が、女装するにあたって知識が無いと判断して入れたのだろう。至れり尽くせりだった。
中身を全てだし、箱を壊して資源ごみを置いている所へと持って行き、再び部屋へと舞い戻り、
「さて、と」
扉を閉め、自分以外に誰も居ないにも関わらず鍵を掛ける。割と高層階なので、誰かが見ているなどという事は無いはずなのだが、外から差す光が妙に気になり、カーテンをきっちりと閉める。流石に暗くなってしまったので、電気を付け、
「……よし」
決心を固め、一つ息を吐く。自分以外誰も居ない室内に心なしか早くなった鼓動が響いている気がする。胸の熱さが消えないうちに、黎は先ほど取り出したマニュアル本を手に取り、再度めくってみる。調がチョイスしたその本はイラストを交えながらもきちんと解説がなされていて、非常に分かりやすい。しかし、反面文字数が多く、今必要な部分を抽出するのは難しそうだった。
やめよう。細かな事は後から考えよう。服なのだから着ればいいのだ。化粧品ともなれば話は別だろうが、着る位なら大丈夫だろう。そう結論付け、本を床に置き、積みあがった服を種類別に何となく区別してみる。スカートやらブラなどは黎でも分かりやすかったのだが、中にはイマイチどこに分類していいのかが分からない物が有り、最終的に「その他」という分類に入る物がかなり出来てしまった。この辺りは調に聞くしかなさそうだ。
そんな「分類に困る物」は全て横にどかし、「分類に困らない物」を近くに持ってくる。スカート、ブラ、パンツ等、男の黎でも知っている物ばかりである。これらを今から身に着ける。そして、服を着る為には当然今着ている物は脱がなければならない。どれから着よう、なんて些末な事にも悩み、結局まずは上から着てみる事にする。トップスを脱ぎ、上半身裸になって、まずはブラに手を付け、
「……要らないか?」
思わず自分の胸を見る。当たり前だがまっ平らである。むしろ膨らんでいたらおかしいと言えばおかしいのだが、その平坦な所にブラを装着するというのは果たして意味が有るのだろうかと悩む。そもそも、この下着は一体何のために存在するんだろうと思い、たまたま手に取ったそれをまじまじと眺めてしまう。眺めても仕方は無いのだが。そもそもこれは緩くないのだろうか。パッドを詰めたほうがいいのだろうか。後から後から疑問は湧いて出てくる。
やめよう。一緒に入っていたのだからきっと必要なのだろう。半ば思考を放棄する形で答えを出し、ブラを付けることに、
「…………」
決めた瞬間次なる難関。これは一体どうやって扱う物なのだろうか。勿論、最低限の知識は持っている。マジックテープでくっつけるような簡単なもので無い事も知っている。しかし、正確な扱い方など分かるはずも無かった。取り敢えず、なんとなくで装着しようとしたが上手く行かない。と、言うよりも、止める部分が背中側に有るので非常にやりにくい。一体何を考えてこんなところに付けたのだろうか。設計ミスじゃないのか。そんな文句まで頭に浮かぶ。
それから暫くの間、ブラと悪戦苦闘していると、先ほど取り出したマニュアル本が黎の視界に入る。これだ。こういう時こそこの本を頼るべきじゃないか。黎は一旦ブラを放置し、本をペラペラとめくる。最初にめくった時とは違い、今回は明確に目的が有る。後ろについていた索引を使って目的のページを探し出す。
「ふむふむ……なるほど」
流石は女装のマニュアル本。痒い所に手が届く。ちなみに胸元にホックが来る物もあるという事も分かった。ざっと目を通した感じではそちらでも問題は無さそうだが、そのあたりはおいおい考えよう。そう決めて本を閉じ、再びブラを手に取り、書いてあった事を実践する。
「よっ……ほっ……」
難しい。目に見えるならそうでもないのかもしれないが、背中側についているので手探りでやるしかない。思わず息が漏れる。やり方をきちんと理解した上でもなお悪戦苦闘し、
「出来た……のか」
上手く止められたような感触がする。しかし、
「……あー」
緩い。一番小さいサイズなのかどうかは不明だが、取り敢えず緩い。本来あるべきものが無いのだから仕方が無いと言えばそうなのだが、これは酷い。流石にずり下がっては来ないのだが、正直違和感がある。いや、ブラジャーを装着しているという事で既に違和感があるにはあるのだが、それとはまた別に「明らかに大きいサイズの服を着ている」様な違和感がある。この辺りも調に相談したほうがよさそうだ。
そもそもが、「ブラは必要ないんじゃないか?」と思いつつも「一応送られてきたから着けるべきだ」という何とも消極的な理由で着た物だ。外すことには何のためらいもない。しかし、一方で、苦労して止めたホックを外すのも何となく悔しくて、黎はそのまま次の段階に移行する。
ブラ以外のトップスはそこまで苦戦しなかった。全体的に生地の肌触りがいいなー程度の感覚でひょいひょいと着ていく。この段階ではまだ、「女性っぽい服装の男」という見た目。
「さて……」
一つ息を吐いて、残りの山、より具体的にはスカートやパンツが有る辺り。流石の黎もちょっと戸惑う。これを着る。いや、ここまで着ておきながら下は男物というのがむしろ不自然だと言う事は良く分かっている。それにしても、やっぱり女性物のパンツ、それにスカートというのは勇気が要る。
とはいえここで足踏みしていても仕方が無い。女装そのものをやめるという選択肢は既に頭の中に無い。そうなると、目の前にある物を今着るか、後で着るか位しか無い。それだったら先延ばしにする方が良くない。そんなことをしても何の解決にもならない。それに、女装自体は決して嫌な訳では無いのだから。
黎は、一つ深呼吸をして、まずズボンとトランクスを脱ぎ捨てる。ここまで来たらもう勢いだ。ブラと同じ色(多分セット)のパンツを掴み、ええいままよと足を通し、一気に持ちあげる。
「うわ……」
黎を何とも言えない感覚がぶわっと襲う。これは、やばい。もっといい言葉が有るような気がするが、真っ先に出てくる言葉はそれだった。
まず、生地が凄く繊細だ。これはトップスでも感じた事だったが桁が違う。何というか股関節の辺りをふわふわとした感覚が包み込んでくる。そして、薄い。黎も男性用のブリーフ位は履いたことがあるが、あんなものではない。何だか弱い。本当にこれでいいのか?という疑問が頭から離れない。極めつけに、生地の面積が狭い。女性には無い物が付いているのだから当然なのかもしれないが、その狭さは非常に心もとなく感じた。
「……んで、これか……」
このまま止まっていても仕方が無い。黎は、止まっていた思考回路を叩き動かして、スカートを履く動作をさせる。こっちはこっちでブラ同様、扱いが分かりにくかったが、幸い止める場所が見える位置に有ったので、何とか本を見る事無く着る事が出来た。
そして、驚いた。これは、本当に服なのか。申し訳程度に腰の周りに巻かれたスカート。どう考えても無防備すぎる。異様なまでに風通しがいい。夏は涼しそうだな、などという呑気な事を考えている場合では無い。何とも落ち着かなかった。
「後は……これか?」
取り敢えず、服は着替えた。しかし、黎の髪ははっきり言って長くない。ショートカットの女の子というにもやや苦しいくらいである。そんな事を知っていたからこそ、これを送ってきたのだろう。
「何ていうんだったかな……ウィッグ……だっけ」
黎は大して無い知識から手元にある物の名前を引っ張り出す。昔やった女装物のゲームでそんな名前が出てきた気がする。たしか、カツラとは違うとも言われていたと思う。どこが違うのか、その原理までは覚えていないが。
「これは……乗っけるだけで良いのか?」
黎はウィッグをくるくるとまわしながら、全体を観察する。疑似的な髪なので、使い方は一つ。頭に装着するだけである。実に簡単だ。しかし、なんとなくそれだけでは無い気がする。取り敢えず、マニュアル本を、
「……いや」
思い直す。取り敢えず、頭にのせるだけでもそれっぽくはなるのではないか。なにもこのまま外出したり、人に会ったりするわけでは無いのだ。分からない事もたくさん出た。少なくともそれを今日だけで克服するのは不可能だ。取り敢えず試しに付けてみよう。そう方針転換し、黎は取り敢えず持っていたウィッグをなんとなくで頭に装着する。そして、鏡の前に行き、細かな調節をして、改めて姿を、
「わぁ」
何だ、これは。鏡に映っている人物は、確かに星守黎、その人。そのはずなのだ。鏡なのだから、当たり前だ。他の人間である訳が無い。そんな事は起こり得ない。そのはずなのだ。そんな事は分かっている。
分かっていても、視界に映るその人物が自分であるとはどうしても思えなかった。よく見れば顔は瓜二つだし、ウィッグもなんとなくで被っているから何だか違和感がある。それなのに、星守黎には見えない。まるで別の人物のようで、
「……っ」
分かった。“彼女”は、いや“私”は星守黎なんかでは無いんだ。今は、そう、
「月守……遥」
言葉にすると、それはすっと身体の中へと入ってくる。そして、抑えようのない熱がぐるぐると回りだす。熱い。でも、気持ちいい。未知なるエネルギーが内側からあふれ出てくる。“遥”は、思わず両手を広げる。そして、そのまま部屋の中をぐるぐると飛び回る。身体が軽い。空も飛べるような気すらして、思わずベッドに向かってジャンプする。
「わぷっ!」
残念。空は飛べなかった。醜い声と共にベッドに墜落する。黎はそのまま暫く顔をうずめていたが、やがてぐるんと仰向けになる。仰向けになった遥はふと、調の言っていた事を思い出す。


『君はなんていうか……空っぽだね』


空っぽ、の意味は良く分からない。そもそも、そんな事があの一瞬で分かるとも思えない。もしかしたら、黎に話しかける為の口実だったのではないだろうか。きっとそうだ。その証拠になるかは分からないが、女装に関する事は今なら理解できる事が多い。


『君の……いや、女装したら、君は別人になれると思うから』


別人になる。その通りだと遥は思う。今の自分は確かに「星守黎」では無く「月守遥」だ。黎のままイベントに参加した名前を使うのも正直どうかとも思ったが、この名前で表に出たのはたった一回、調と会った時だけだ。そして、その時は、同人誌を手に取ってくれただけの人を含めても三桁は居なかったと思う。何分作品自体が連載して間もない。だから、黎としての顔を覚えている人は殆ど居ないだろうし、万が一覚えてる人が居たとしても「あの時は体調を崩したんで弟に頼んだんです」とでも言っておけば大丈夫だ。そんな人間は実際には存在しないが、黎と遥を別人として捉えれば問題は無い。


『だからさ、いつもはやらない様な事とか、いつもは出さない自分とかも出せるの。ほら、良い事づくめ』


いつもはやらない様な事。いつもは出さない自分。それが良い事になるのかはまだ分からない。でも、わくわくしていた。こんなことは久しぶりである。だから問題ない。遥はそんな風に納得し、
「……取り敢えず、調さんに質問しないと」
ベッドから起き上がった。



◇      ◇      ◇



「……っと、そろそろ買い物行かないと」
黎……いや、遥はふっと我に返る。女装をしたのは何も思い出に浸る為では無い。調から荷物が送られてきた日を境に遥の私生活は一変し、今では学校の制服以外は全て女装物の服で暮らしている。始めは「女装してる変なやつと思われるかも」とか、「スカートが風で捲れてしまわないか」とか、色んな事を気にして、びくびくしながらの生活だったが、今では抵抗も無ければ、恐れも無い。むしろこっちの方が落ち着くくらいだった。それなので、買い物なんかも女装して出掛けている。
「さて、支度支度っと……」
とはいえ、今日は余り歩き回る事が出来ない。なにせ同人誌の締め切りを盾に伊織の誘いを断っている。彼の家はここからは電車を使わなければならないし、遊ぶといってもこの辺りという事は無いだろう。それに、仮にうろうろしている所を見られたとして、特に問題は無い。伊織も女装の事は知っているし、この姿も見たことがある。というか、ウィッグとカラーコンタクトの色は彼の提案だ。
だから見られる事には問題が無い。無いのだが、一応、断る理由に使った以上、真剣に取り組まなければいけないような気がするのだ。もっとも、時間が余り無いというのもあるのだが。
「よしっ」
愛用のバッグ(当然女性物)を持ち、財布などの必需品も確認。使った覚えはないが念のため火の元の確認もし、遥は買い物へと出かけた。



◇      ◇      ◇



「はぁ~……」
同人誌即売会。遥は自分のスペースを整えて椅子に座り、改めて感心する。
土曜日。遥はとある作品のオンリーイベント会場に訪れていた。訪れる、と言っても遥は同人誌を「買う」方では無く「売る」方である。会場は秋葉原にある某施設。遥は秋葉原というと「オタクの街」とか「ごちゃごちゃした所」というイメージを持っていたが、今いるここはそのどちらからもかけ離れた世界だった。公式サイトにも複合型オフィスと書いてある。どちらかと言うとサラリーマン向けの建物なのかもしれない。
「はあぁ~……」
またしても溜息。人間、言葉が出ない時にも溜息というのは出るものらしい。そして、その原因はこのイベント会場内の空気にもあった。
開場前、という事も有り、まだまだ人は少ない。それでも、あちこちで参加者と思われる人たちがせわしなく動いている。これから始まる楽しいイベント。その楽しさをぎゅっと濃縮したような、不思議な空気。遥が先日、初めて参加したオンリーイベントは規模が小さかった事や、そもそも遥自身が不慣れで緊張していた事もあり気が付かなかったが、何ともうずうずする空気だ。どうしよう。知り合いは居ないから挨拶周りみたいな事は出来ないけど、少し見て回ってこようかな。それとも、準備中にじろじろ見てたら邪魔になっちゃうかな。そんな事が頭の中を回りだしたその時、
「…………あのぉ」
声を掛けられる。誰だろう。何だか聞き覚えが有るような、無いような。そんな声が聞こえる。遥のスペースは右側が通路になっていたが、左側は確か机が置いてあった。恐らくそこを使う人だろう。挨拶をしなくては。
「はい、なんで……」
硬直。声ひとつ出なかった。そして、見えた物が信じられず、何度も瞬きをする。そんな事で事実は変わらないと分かっているはずなのに。でも、だって。
「えっと……月守遥……さんですよね?」
“信じがたい事実”その人は、そこまで言ってはっとなり、
「ごめんなさい。自己紹介がまだでしたね」
懐からお手製の可愛い名刺を取り出して、差し出し、ふっと微笑む。普段と変わらない長くて綺麗な黒髪。リボン。そして、普段はつけていない眼鏡。忘れるはずもない。彼女は、
「私、刹那っていうんです。今日はよろしくお願いしますね」
我らが生徒会長・雨ノ森久遠その人だった。


          

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