無冠の棋士、幼女に転生する

うほごり

第20話「先生」

 将棋を指すたびに、少しずつだが私は武藤九十九について思い出していた。
 今世でテレビやネットで見聞きした事ではない。
 前世――かつて私がプロ棋士だった頃に知っていた武藤九十九という棋士についてだ。


 武藤九十九……武藤先生は私がプロになり数年で引退した。
 私と同時にプロの世界に滞在した期間は数年であったが、先生と対局して教わったことは多くあった。


 私が先生と初めて対局したのは名人戦・順位戦C級2組。
 プロになりたてで新進気鋭の私と、全盛期を過ぎ衰えを見せ始めた老棋士。
 まだ二十歳にすらなってない若手と七十歳をゆうに超えるベテラン。


 武藤先生は将棋界のレジェンドだ。
 私の世代だけでなく、私のその上の世代、さらにその上の世代と将棋界に属している人間ならば誰しもが武藤先生の影響を少なからず受けて育ってきた。


 私たちにとって武藤先生は、前世の私が生まれる前からずっと将棋界に君臨している生きる伝説だったのだ。


 同年代で実力が頭一つ抜けていた私だが、それでも武藤先生と初めて対局した日は緊張で手のひらに汗をかいていたのを覚えている。
 そんな私の対面である上座に座るは生きる伝説。


 中学生でプロ棋士になり、かつては将棋界の最高位である『名人』すらその手に掴んだ武藤九十九。


 誰もが知るレジェンドとの対局に、私は興奮と高揚、緊張と恐れを感じていた。






 その対局は私の勝利で終わった。
 長い長い対局であったのを覚えている。
 その一局で将棋界のレジェンドに勝利したという経験は、その時の私の大きな自信となった。


 それからも各タイトル戦の予選などで何度か先生と対局する機会に恵まれた。
 対局は全て私の勝利であった。辛勝もあれば快勝もあった。


 武藤先生とは対局だけでなく、食事を奢っていただいたりと大変よくしていただいた。
 プロ棋士としてなりたての私にプロ棋士が何たるかを教えていただいた。


 前世の私にとって武藤先生とは、師匠の次に良くしていただいた大先輩なのだ。


 そして今。
 あの時と同じように私の前には武藤先生が座っている。




   ■■■






「いっけぇええ!」


 桜花が駒を叩きつけて武藤先生の王を攻め立てる。
 局面は終盤。互いの矢倉は半壊し王と玉が小さく露出しあっている。手持ちも角と銀を握り、お互いに相手の首を剣先を突きつけているような状態だ。スキを見せた方が一瞬のうちに討ち取られてしまう。


 桜花はその深い読みによる終盤力をフルに活用してフィニッシュブローを繰り出す。
 詰めろをかけ続けることでつくもんにプレッシャーをかけていく。
 しかしつくもんはそのプレッシャーを意に介さず飄々と打ちはらう。
 するりするりと老獪に指す様子は、さすがはレジェンドといったところ。


 つくもんの王に詰みがないから、桜花は詰めろをかけ続けることでつくもんにミスが出て詰みが現れることを狙っているのだろうが。


(プロはそう簡単にはミスをしない。ミス一つが敗北に直結するプロの将棋においてミスをしないことは基本的なスキルだ。少なくとも答えのある終盤において……は)


 無限に攻めることはできない。完璧に受け続けられれば桜花の攻めはいづれ切れる。
 引かせるべきか……。


「桜花……」
「……すー……ふー」


 桜花の呼吸が深い。
 深呼吸を繰り返しながら、ぱっちりの開いたその目はひたすらに盤上を見つめ続けている。
 集中状態入っていて私の声は聞こえていないようだ。
 ここまで深く潜っているのは初めて見る気がする。
 それだけ憧れの相手ということか。憧れは力を呼び起こす、なんて言葉があったっけな。


「…………届かない、これも……これも」


 桜花の小さな呟き。隣に座っている私でないと聞こえないほど小さな声。
 すー、はー、と桜花の深呼吸する間隔が少しずつ長くなっていく。
 深く深くさらに深く。


「…………」


 無言で桜花は持ち駒に手を伸ばすと、つまみ上げた駒を握りしめて……離した。
 そして別の駒を掴み、今度こそ板状に――つくもんの王へ攻撃を仕掛けた。


「「銀ッ!」」


 つくもんと私が同時に声をもらす。
 つくもんは口元に手を当て、少し考えてから着手。
 そこから怒涛の桜花の王手ラッシュ。
 早いッ。つくもんも桜花も着手が早過ぎて私では読みが間に合わない。
 唇を噛み締めて王手をかける桜花。その様子から読み切ったわけではないことはわかる。
 だが……。


「私だけ……置いていかないでよ!」


 つくもんと桜花の思考に追いつけない自分に対して悔しさから声が漏れる。
 諦めるな。桜花の間違いに気付けるのは姉である私だけ。
 思考を止めるな。凡人の私にできるのは考えて考えて頭を回し続けること。
 桜花のような深い読みは今の私にはできない。
 元々終盤力では桜花に勝てないことはわかりきっているのだ。


「今の私にできるのは……少しでも桜花の読みに追いつくこと」


 実践において背伸びはしてはダメだ。
 今の私にできること。不得意なことではなく、得意なこと。
 桜花と比べたら時の私の強みは序盤と中盤以降の俯瞰的センス。
 この終盤に私が貸せる力はない。


 でも少しでも桜花に近づくために、考えることだけはやめてはダメだ。


 桜花は鋭くノータイムで王手を連打して、つくもんの王を追い込んでいく。
 桜花が駒をぶつけつくもんの駒と交換されていく。持ち主が変わった駒がワープして戦線をつないでいく。
 桜花の攻めは明らかな無理攻め。
 つくもんが受けきれば自然と桜花の攻めは途切れていく。そのはずだが……。


「これはこれは、ふむむむむ……」


 思わずつくもんが声を漏らした。桜花の攻めはまるで魔法。
 深すぎる読みが可能とする異次元の継戦能力。
 攻めながら駒を補充し使い捨てる。駒台と盤面を何度も駒が行き来する。
 大駒を全て切り捨ててつくもんの守りを強引に剥がし、露出した王を狙いにかかる。


 一息をつく暇もなく桜花の攻めが続く。
 桜花の正確無比な読みを生み出す脳内には、多くの未来設計図が描かれているはずだ。
 千年樹のような枝分かれのある樹形図のその先。
 少しでも相手がミスれば即死させるルートが桜花には見てている。相手からすれば全てが綱渡りのような気分だろう。


「まさかここまでとは思いもしませんでした。ええ。いやーお強い……でもでも」


 しかしつくもんはスキを見せない。
 伊達にプロで六十年生活していない。プロには今の桜花よりも何倍も終盤力の高い棋士が溢れている。
 つくもんにとっては桜花の終盤力ですら児戯に過ぎない。


 六十年という経験が詰まない形であることを理解しているのだろう。
 故に桜花の攻めは届かない。どんなに鋭くしても、そして正確無比であっても詰まないものは詰まない。
 どんなに追い詰められても安全圏からは決して足を出さないバランス感覚。


「まだ……まだっ……!?」


 駒台に手を伸ばした桜花は悔しさに顔をにじませる。
 ついに桜花の駒台から駒が消えたのだ。
 攻め駒は盤面に残された駒のみ。これでは届かないことは桜花自身が一番知っている。
 さすがはレジェンド。
 桜花の怒涛の攻めを見ても読みの精度を落とさずに桜花の攻めを受け切った……。
 不気味なほど乱暴で、それでいて正確な桜花の攻めは、詰まされるかもしれない恐怖で相手はついついミスをしてしまうものだが。


「桜花、交代しよっか」
「…………」


 コクリと静かに頷き、私と桜花は指し手を交代する。
 私たちに持ち駒はない。そしてつくもんの持ち駒は金銀財宝でいっぱいだ。
 流石にここからはどうあがいても勝てない。
 敗戦処理という汚れ仕事は私が請け負うよ。


 そこからの将棋は静かで平凡なものだった。
 つくもんは潤沢に蓄えられた持ち駒を使い私たちの玉を綺麗に攻める。
 桜花のような強引な攻めではない。
 基本に忠実。数的優位をとって一枚一枚駒を剥がしてくるお手本のような将棋。
 わざとそんな将棋を見せてくれているのかもしれない。


「君たちの名前を教えていただけますか?」


 つくもんが話しかけてきた。
 つくもんが相手の名前を聞くとき、それは――。


「さくら。空亡さくら」
「……桜花」


 私に続き桜花がボソッと自分の名前を言った。
 元気がない。少し落ち込んでいるようだ。


「さくらちゃんに桜花ちゃんですか……」


 つくもんは私たちの名前を口に馴染ませるように復唱する。
 つくもんが相手の名前を聞くとき、それは相手を認めたとき。
 それは前世で私が先生と初めて将棋を指したときと同じように……。


 つくもんの竜が私たちの玉の前に立ち塞がる。
 これで私たちの玉には必至がかかっていた。これは解くことができない。
 駒台に手をかざして頭を下げ、私は大きな声で敗北の言葉を口にした。


「負けました」


 姉妹の力を合わせてもまだまだ届かない高み。
 果てしない高みの上に存在するプロ。
 前世の私もいた世界。


 今日は負けてしまった。まだ私たちは弱い。
 でもいつかまた――今度は前世のように私1人で先生と指し、そして今度こそ勝ちたいです。

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