無冠の棋士、幼女に転生する
第8話「桜花の将棋」
別に将棋そのものが好きなわけではなかった。
ただ自分の姉が将棋を本当に楽しそうにしている姿が好きだった。
桜花にとって将棋は姉という存在があるからこそ楽しめるものであり、ゲーム性そのものに惹かれたわけでは無かった。
姉と一緒に楽しめるものであれば将棋である必要はなかった。
たまたま姉が熱中したものが将棋であったから、桜花も将棋を始めたのだった。
「お願いします」
全国小学生王将大会地区低学年の部予選準決勝。
あと1回勝てばさくらと対局できる。
桜花はさくらが負けるとは微塵も思っていない。
目の前の人を倒せば大好きな姉との対局する権利が得られるのだ。
桜花にとって今日の姉との対局は特別なものだ。
(……おねぇは普段わたしと将棋する時は本気じゃないもんね)
さくらは無意識なのだろうが、桜花は気づいていた。
桜花と将棋する時のさくらは『教師』なのだ。もしくは子供の相手をする親。
だから勝ち負けよりも桜花の成長のために将棋を指す。
(だって、おねぇはわたしに負けてもちっとも悔しそうじゃないんだもん)
桜花は姉であるさくらが間違いなく負けず嫌いな性格をしていると思っている。
たかがネット将棋で負けても本当に悔しそうにして、自分の敗着を何度もなぞる。
一つ一つの将棋に本気で向かう姉の真剣な顔は本当にかっこいい。
将棋を始めた当初は姉に勝利することなんて桜花にとっては夢のまた夢だった。
桜花の得意分野である終盤までさくらは持ち込ませてくれないからだ。
しかしここ最近になって桜花もさくらに平手で勝てるようになってきていた。
桜花に負ければさくらは少しは悔しそうにする。
でも……あれは本気で悔しがってない。
(わたしを本気で倒そうと――殺そうと将棋を指してないから)
桜花は寂しかった。
自分は本気で姉に見て欲しくて、構って欲しくて、愛してもらいたくて将棋をしているのに。
その姉は本気で桜花と将棋をしてくれてなかった。
自分と向き合ってくれてないと思っている。
(でも……今日なら……)
姉妹の初めての公式大会。
その決勝という舞台なら――きっと。
(本気のおねぇと将棋がしたい)
決勝トーナメント一回戦。
神無月ルナと対局した時の姉の姿。
嫉妬した。さくらの勝利を願い、それと同時に桜花は嫉妬した。
あんなに姉に想って貰える――本気で倒したいと想って貰える対局者であるルナに嫉妬した。
まだ6歳と幼い桜花だが、その心中にはキリキリと嫉妬の炎が燃えていた。
将棋で向かい合っている限り、お互いはお互いを知ろうと想い合う。
相手の手を読もうとして。相手の思考をトレースしようとして。一つでも相手を上回るために。
言わば、あの瞬間は相思相愛と言っても過言ではない。
桜花はそんな姉と対等な立場で対局したいのだ。
(あと一つ、あと一つ勝てばおねぇと将棋ができる……本気のおねぇと)
準決勝はグングンと桜花のペースで将棋は進んでいく。
相手の小さな守備の穴に蟻の一穴を穿ち、そこを起点にどんどん攻めていく。
まだ詰みは見えないけど、このまま順調に進めばすぐにいつも通り詰みが見えるはずだ。
この対局は序盤からずっと桜花のペース。
普段は苦手な序盤だけど、それは相手が姉だからだ。
この大会で出てくる同学年程度なら、さくらに鍛え上げられた桜花の序盤戦術はしっかりとした武器となっていた。
局面は明らかに桜花有利。
このまま一気に勝負を決めようと駒を次々と敵陣に突撃させた。
桜花はほぼ勝ちを確信していた。
パチッ。
ノータイムで相手が着手する。
その手を見た瞬間桜花の思考が止まる。
ざわざわとした感覚が背筋に流れ、声を漏らす。
「へっ……?」
攻め駒が敵陣に閉じ込められた。
それだけじゃない。動けない。
一歩でも動くと敵駒に桜花の攻め駒が全て取られてしまう。
偶然じゃない。こんな見事な罠は狙わないとハマることはない。
桜花は口を押さえてゆっくりと顔を上げた。
「……やっとボクを見てくれましたね」
桜花の対局者の少年がそう呟いた。
黒縁眼鏡に軽くパーマのかかった黒髪。
見た目から暗い雰囲気を伺える少年。
誰だっけと桜花は初めて名前を確認する。
ネームプレートには『角淵影人』と書かれていた。
「せっかく将棋をしているのに、いつまでたってもボクを見てくれないから寂しかったなー」
少年は微笑し再び盤に視線を戻す。
桜花もすぐに倣って視線を盤に戻した。
ついさっきまで圧倒的に桜花の勝勢だった。
いや違う。勝勢と思わされていた。
ミスかと思っていた小さな穴は、実は虎の穴だった。
まんまと誘い込まれた桜花の攻め駒は、退路を塞がれ蹂躙されようとしていた。 
選択肢は二つ。
ある程度の犠牲は許容して包囲網を突破して大駒を逃す。
もしくは、全滅覚悟ですぐそばまで迫った敵王に向けて突撃する。
(……負けないもん!!)
桜花の選んだ手は攻め。
大駒も小駒も全て投げ捨て前へ進軍させる。
攻め駒が途切れる前に相手を王を狩る。
『桜花、ゲームの考え方の基本を教えてあげる』
いつだったか、さくらが言っていた事を桜花は思い出す。
『自分が勝っている時は負け筋を潰す事を考えて。そして自分が負けている時は勝ち筋を残す事を考えるの。どうしてかと言うと、負けている時に負けないように――生き残るために動くとジリ貧になってしまい、結局逆転のチャンスがなくなるの。だから危険であっても負け筋を潰すより、勝ち筋を残すように考えなさい』
自分の棋力で、ここで退く手はジリ貧になって詰みが見える見えない以前に、二度と敵陣に攻め込むことができなくなる可能性が高いと桜花は考えた。
故に、敗北の瞬間が早まるとしても今ここで、小さな勝ち筋にかけて攻め込む方が勝てる可能性が高い気がしたのだ。
おねぇの教えその一。
『勝ってる時は臆病に。負けてる時は大胆に』
「ふふ、小さいのに暴れ馬ですね。さて、全て受け潰してあげますよ」
しかし桜花の攻めは全て角淵に全て受け止められる。
動けば動くほどいばらの棘が刺さるように、次々と駒が失われていく。
それどころかそんなに固く見えなかった角淵の囲いは、桜花の攻めを受け始めた瞬間次々と歯車が噛み合い始め鉄壁の囲いが生まれた。
「あぁ……」
攻めが途切れる。
何をしても敵陣を傷つけることすらできない無力感にたまらず桜花は声を漏らす。
でも――諦めない。
(あと一つ。ここで勝てばおねぇと将棋が指せるの……だから考えて!)
逆転の一手を。
どんなに難しい詰将棋でも、詰みがあるなら見つけれる自信がある。
でもこの盤面に詰みはない。
なら考えることは少しでも敵の王に接近すること。
(焦だちゃダメ。まだ時間はある)
慌てずにしっかりと読みを深めていく。
幸か不幸か中盤のない急戦になり互いに多くの持ち時間がある。
またさくらの言葉が思い浮かぶ。
『桜花、私の手を読むのも大事だけど、結局の所相手の心を読み切るなんて出来ないの。だから上手い人は相手の手を読むのではなくて相手の手を誘導するの』
この対局でわたしがやられた事と同じだ。
角淵は桜花の手を読みきったのではなく、桜花の手を自分の得意な分野に誘導してこの状況に持ち込んだ。
さくらに言われた時はピンと来てなかったさくらだけど今ならわかる。
おねぇの教えその二。
『相手の手を読むな。誘導しろ』
(おねぇ、もっと教えて。まだわたしは弱いもん。おねぇと並び立つことはできないよ……)
考えに考え抜いた桜花の手を角淵は完璧に潰してくる。
桜花に持ち時間があるように角淵にも持ち時間がある。
ミスさえしなければ角淵は勝つのだ。丁寧に一つずつ対処していく。
『桜花、プロの棋士は綺麗な棋譜を残したがるから、みっともなく足掻くことなく降参する事だってある。でも私たちはプロじゃないから最後までちゃんと指しましょう』
おねぇの教えその三。
『死ぬまで諦めるな』
将棋を始めて二年。さくらが教えてくれた事が桜花の血のなり肉となっていた。
他にも多くの教わった事が頭に浮かぶ。
完全に攻めが途切れた。
角淵はゆっくりとゆっくりと確実に桜花の陣地を荒らしていく。
もう天地がひっくり返っても勝てる見込みは無い。
「まだ指しますか? 素直に投了したらどうですか?」
「やだ」
「……そうですか」
おねぇの教えは絶対。
例え王以外のすべての駒が取られたとしても桜花は絶対に詰みまで投了しない。
それが姉の教えだからだ。
「では出来るだけ早く詰ませましょう」
涙で視界が霞む。
負けたくない。おねぇと対局したい。勝っておねぇに褒めてもらいたい。おねぇにもっと自分を見て欲しい。
……違う。
――将棋に勝ちたい。
「……これで詰みです」
角淵がそう宣言する。
わかっている。わかっているがまだ逃げ道があるのではないかと桜花は探す。
当然そんなもの見つかるはずがなかった。
桜花は負けたのだ。
「……ヒクッ……まけ、ました」
声を振り絞り投了する。
桜花自身さえびっくりするほど掠れた力のない声だった。
そして投了した瞬間、負けた事実が急に現実味を帯び始めた。
……負けた。
……負けた!!。
おねぇと対局できなくて悔しい。
でもそれ以上に将棋に負けた事が悔しかった。
どうして。どうしてこんなに悔しいのだろう。
別に将棋なんて……。
気づいたら桜花は立ち上がって走り出していた。
一人になりたかった。負けて気持ちがぐちゃぐちゃになって何が何だかわからない。
さくらと決勝で戦えなかった事よりも、今将棋に負けた事がどうしてこんなに悔しいのかわからなかった。
人混みを掻き分け一人になれる場所を探す。
女子トイレの個室に入り、腰を落とす。
「くやしい……よ……!」
ポタポタと零れ落ちる涙が止められない。
静かなトイレに桜花の鳴き声だけが響く。
ネット将棋で負けてもこんなに悔しくなかった。おねぇに負けてもこんなに悔しくなかった。
桜花は今日初めてさくら以外の他人と現実の盤で向かい合って将棋を指したのだ。
準決勝まで負けなしだった桜花。しかし準決勝で角淵に負けてしまった。
さくらが桜花に対して本気で向かい合って将棋を指さなかったように、桜花も将棋に本気で向かい合ってなかった。本気で勝ちたいと思った事がなかった。
なぜならば桜花にとって将棋とは姉のおまけでしかなかったからだ。
しかし今日。
桜花は本気で勝ちたいと思って将棋をした。
動機は『本気の姉と将棋をしたい』だが、その準決勝のさなか桜花は将棋で勝ちたいと初めて本気で思ってしまった。
初めて将棋としっかり向き合ったのだ。
そして負けた。
全力を出して心から勝ちたいと思った事で敗北したら悔しくて涙が出る。そんな当たり前の事を桜花は今日知った。
全力で無ければ悔しさなんて生まれない。
そして悔しさを覚えなければ本当に強くはなれない。
さくらは桜花に技術は教えた。
対局する時大事な心構えも考え方も教えた。
でも感情だけは教える事が出来ずにいた。
『負けたくない』。悔しいと思えるほど将棋に向き合う事。
こればかりは親しいさくらでは教える事ができない。
何度でも対局できるネット将棋ではなく、大会という一度限りの対局だからこそ桜花は心の底から悔しいという感情が湧き起こったのだ。
「もっと……強くなりたいっ……」
姉に認められたいからでも、姉に褒めてもらいたいからでもない。
将棋で勝ちたいから強くなりたい。
何分、何十分桜花は泣き続けた。
そしてもう流す涙が無くなった頃。
コンコン
「桜花、大丈夫?」
心地よい声。姉であるさくらだ。
「……おねぇ、準決勝は?」
「勝ったよ」
さすがおねぇ、と桜花は思う。
いつでも自分より強く、将棋以外でも頼り甲斐がある姉。
大好きな姉。
「わたしは負けちゃった」
「うん知ってる。えーっと……」
さくらは桜花になんと声をかけていいか悩んでいる。下手に慰めても逆効果になりかねない。
ひとときの静寂の後、桜花が口を開く。
「おねぇ、かたきうってね」
「え、あっ、おうよ!」
「……へへっ、おっさんくさいよおねぇ」
「うぎゃっぴ!?」
素っ頓狂な声を出すさくら。
桜花の涙はすでに止まっていた。
ドアのロックを解除して個室のドアを開く。
桜花の目の前にはさくらがいた。
「ねぇ、おねぇ」
「ん、なに?」
負けて悔しかった。
次は――次こそは勝ちたい。
さくらの目をしっかりと見据え桜花は。
「わたしもっと強くなりたい。だから――また将棋教えて」
ただ自分の姉が将棋を本当に楽しそうにしている姿が好きだった。
桜花にとって将棋は姉という存在があるからこそ楽しめるものであり、ゲーム性そのものに惹かれたわけでは無かった。
姉と一緒に楽しめるものであれば将棋である必要はなかった。
たまたま姉が熱中したものが将棋であったから、桜花も将棋を始めたのだった。
「お願いします」
全国小学生王将大会地区低学年の部予選準決勝。
あと1回勝てばさくらと対局できる。
桜花はさくらが負けるとは微塵も思っていない。
目の前の人を倒せば大好きな姉との対局する権利が得られるのだ。
桜花にとって今日の姉との対局は特別なものだ。
(……おねぇは普段わたしと将棋する時は本気じゃないもんね)
さくらは無意識なのだろうが、桜花は気づいていた。
桜花と将棋する時のさくらは『教師』なのだ。もしくは子供の相手をする親。
だから勝ち負けよりも桜花の成長のために将棋を指す。
(だって、おねぇはわたしに負けてもちっとも悔しそうじゃないんだもん)
桜花は姉であるさくらが間違いなく負けず嫌いな性格をしていると思っている。
たかがネット将棋で負けても本当に悔しそうにして、自分の敗着を何度もなぞる。
一つ一つの将棋に本気で向かう姉の真剣な顔は本当にかっこいい。
将棋を始めた当初は姉に勝利することなんて桜花にとっては夢のまた夢だった。
桜花の得意分野である終盤までさくらは持ち込ませてくれないからだ。
しかしここ最近になって桜花もさくらに平手で勝てるようになってきていた。
桜花に負ければさくらは少しは悔しそうにする。
でも……あれは本気で悔しがってない。
(わたしを本気で倒そうと――殺そうと将棋を指してないから)
桜花は寂しかった。
自分は本気で姉に見て欲しくて、構って欲しくて、愛してもらいたくて将棋をしているのに。
その姉は本気で桜花と将棋をしてくれてなかった。
自分と向き合ってくれてないと思っている。
(でも……今日なら……)
姉妹の初めての公式大会。
その決勝という舞台なら――きっと。
(本気のおねぇと将棋がしたい)
決勝トーナメント一回戦。
神無月ルナと対局した時の姉の姿。
嫉妬した。さくらの勝利を願い、それと同時に桜花は嫉妬した。
あんなに姉に想って貰える――本気で倒したいと想って貰える対局者であるルナに嫉妬した。
まだ6歳と幼い桜花だが、その心中にはキリキリと嫉妬の炎が燃えていた。
将棋で向かい合っている限り、お互いはお互いを知ろうと想い合う。
相手の手を読もうとして。相手の思考をトレースしようとして。一つでも相手を上回るために。
言わば、あの瞬間は相思相愛と言っても過言ではない。
桜花はそんな姉と対等な立場で対局したいのだ。
(あと一つ、あと一つ勝てばおねぇと将棋ができる……本気のおねぇと)
準決勝はグングンと桜花のペースで将棋は進んでいく。
相手の小さな守備の穴に蟻の一穴を穿ち、そこを起点にどんどん攻めていく。
まだ詰みは見えないけど、このまま順調に進めばすぐにいつも通り詰みが見えるはずだ。
この対局は序盤からずっと桜花のペース。
普段は苦手な序盤だけど、それは相手が姉だからだ。
この大会で出てくる同学年程度なら、さくらに鍛え上げられた桜花の序盤戦術はしっかりとした武器となっていた。
局面は明らかに桜花有利。
このまま一気に勝負を決めようと駒を次々と敵陣に突撃させた。
桜花はほぼ勝ちを確信していた。
パチッ。
ノータイムで相手が着手する。
その手を見た瞬間桜花の思考が止まる。
ざわざわとした感覚が背筋に流れ、声を漏らす。
「へっ……?」
攻め駒が敵陣に閉じ込められた。
それだけじゃない。動けない。
一歩でも動くと敵駒に桜花の攻め駒が全て取られてしまう。
偶然じゃない。こんな見事な罠は狙わないとハマることはない。
桜花は口を押さえてゆっくりと顔を上げた。
「……やっとボクを見てくれましたね」
桜花の対局者の少年がそう呟いた。
黒縁眼鏡に軽くパーマのかかった黒髪。
見た目から暗い雰囲気を伺える少年。
誰だっけと桜花は初めて名前を確認する。
ネームプレートには『角淵影人』と書かれていた。
「せっかく将棋をしているのに、いつまでたってもボクを見てくれないから寂しかったなー」
少年は微笑し再び盤に視線を戻す。
桜花もすぐに倣って視線を盤に戻した。
ついさっきまで圧倒的に桜花の勝勢だった。
いや違う。勝勢と思わされていた。
ミスかと思っていた小さな穴は、実は虎の穴だった。
まんまと誘い込まれた桜花の攻め駒は、退路を塞がれ蹂躙されようとしていた。 
選択肢は二つ。
ある程度の犠牲は許容して包囲網を突破して大駒を逃す。
もしくは、全滅覚悟ですぐそばまで迫った敵王に向けて突撃する。
(……負けないもん!!)
桜花の選んだ手は攻め。
大駒も小駒も全て投げ捨て前へ進軍させる。
攻め駒が途切れる前に相手を王を狩る。
『桜花、ゲームの考え方の基本を教えてあげる』
いつだったか、さくらが言っていた事を桜花は思い出す。
『自分が勝っている時は負け筋を潰す事を考えて。そして自分が負けている時は勝ち筋を残す事を考えるの。どうしてかと言うと、負けている時に負けないように――生き残るために動くとジリ貧になってしまい、結局逆転のチャンスがなくなるの。だから危険であっても負け筋を潰すより、勝ち筋を残すように考えなさい』
自分の棋力で、ここで退く手はジリ貧になって詰みが見える見えない以前に、二度と敵陣に攻め込むことができなくなる可能性が高いと桜花は考えた。
故に、敗北の瞬間が早まるとしても今ここで、小さな勝ち筋にかけて攻め込む方が勝てる可能性が高い気がしたのだ。
おねぇの教えその一。
『勝ってる時は臆病に。負けてる時は大胆に』
「ふふ、小さいのに暴れ馬ですね。さて、全て受け潰してあげますよ」
しかし桜花の攻めは全て角淵に全て受け止められる。
動けば動くほどいばらの棘が刺さるように、次々と駒が失われていく。
それどころかそんなに固く見えなかった角淵の囲いは、桜花の攻めを受け始めた瞬間次々と歯車が噛み合い始め鉄壁の囲いが生まれた。
「あぁ……」
攻めが途切れる。
何をしても敵陣を傷つけることすらできない無力感にたまらず桜花は声を漏らす。
でも――諦めない。
(あと一つ。ここで勝てばおねぇと将棋が指せるの……だから考えて!)
逆転の一手を。
どんなに難しい詰将棋でも、詰みがあるなら見つけれる自信がある。
でもこの盤面に詰みはない。
なら考えることは少しでも敵の王に接近すること。
(焦だちゃダメ。まだ時間はある)
慌てずにしっかりと読みを深めていく。
幸か不幸か中盤のない急戦になり互いに多くの持ち時間がある。
またさくらの言葉が思い浮かぶ。
『桜花、私の手を読むのも大事だけど、結局の所相手の心を読み切るなんて出来ないの。だから上手い人は相手の手を読むのではなくて相手の手を誘導するの』
この対局でわたしがやられた事と同じだ。
角淵は桜花の手を読みきったのではなく、桜花の手を自分の得意な分野に誘導してこの状況に持ち込んだ。
さくらに言われた時はピンと来てなかったさくらだけど今ならわかる。
おねぇの教えその二。
『相手の手を読むな。誘導しろ』
(おねぇ、もっと教えて。まだわたしは弱いもん。おねぇと並び立つことはできないよ……)
考えに考え抜いた桜花の手を角淵は完璧に潰してくる。
桜花に持ち時間があるように角淵にも持ち時間がある。
ミスさえしなければ角淵は勝つのだ。丁寧に一つずつ対処していく。
『桜花、プロの棋士は綺麗な棋譜を残したがるから、みっともなく足掻くことなく降参する事だってある。でも私たちはプロじゃないから最後までちゃんと指しましょう』
おねぇの教えその三。
『死ぬまで諦めるな』
将棋を始めて二年。さくらが教えてくれた事が桜花の血のなり肉となっていた。
他にも多くの教わった事が頭に浮かぶ。
完全に攻めが途切れた。
角淵はゆっくりとゆっくりと確実に桜花の陣地を荒らしていく。
もう天地がひっくり返っても勝てる見込みは無い。
「まだ指しますか? 素直に投了したらどうですか?」
「やだ」
「……そうですか」
おねぇの教えは絶対。
例え王以外のすべての駒が取られたとしても桜花は絶対に詰みまで投了しない。
それが姉の教えだからだ。
「では出来るだけ早く詰ませましょう」
涙で視界が霞む。
負けたくない。おねぇと対局したい。勝っておねぇに褒めてもらいたい。おねぇにもっと自分を見て欲しい。
……違う。
――将棋に勝ちたい。
「……これで詰みです」
角淵がそう宣言する。
わかっている。わかっているがまだ逃げ道があるのではないかと桜花は探す。
当然そんなもの見つかるはずがなかった。
桜花は負けたのだ。
「……ヒクッ……まけ、ました」
声を振り絞り投了する。
桜花自身さえびっくりするほど掠れた力のない声だった。
そして投了した瞬間、負けた事実が急に現実味を帯び始めた。
……負けた。
……負けた!!。
おねぇと対局できなくて悔しい。
でもそれ以上に将棋に負けた事が悔しかった。
どうして。どうしてこんなに悔しいのだろう。
別に将棋なんて……。
気づいたら桜花は立ち上がって走り出していた。
一人になりたかった。負けて気持ちがぐちゃぐちゃになって何が何だかわからない。
さくらと決勝で戦えなかった事よりも、今将棋に負けた事がどうしてこんなに悔しいのかわからなかった。
人混みを掻き分け一人になれる場所を探す。
女子トイレの個室に入り、腰を落とす。
「くやしい……よ……!」
ポタポタと零れ落ちる涙が止められない。
静かなトイレに桜花の鳴き声だけが響く。
ネット将棋で負けてもこんなに悔しくなかった。おねぇに負けてもこんなに悔しくなかった。
桜花は今日初めてさくら以外の他人と現実の盤で向かい合って将棋を指したのだ。
準決勝まで負けなしだった桜花。しかし準決勝で角淵に負けてしまった。
さくらが桜花に対して本気で向かい合って将棋を指さなかったように、桜花も将棋に本気で向かい合ってなかった。本気で勝ちたいと思った事がなかった。
なぜならば桜花にとって将棋とは姉のおまけでしかなかったからだ。
しかし今日。
桜花は本気で勝ちたいと思って将棋をした。
動機は『本気の姉と将棋をしたい』だが、その準決勝のさなか桜花は将棋で勝ちたいと初めて本気で思ってしまった。
初めて将棋としっかり向き合ったのだ。
そして負けた。
全力を出して心から勝ちたいと思った事で敗北したら悔しくて涙が出る。そんな当たり前の事を桜花は今日知った。
全力で無ければ悔しさなんて生まれない。
そして悔しさを覚えなければ本当に強くはなれない。
さくらは桜花に技術は教えた。
対局する時大事な心構えも考え方も教えた。
でも感情だけは教える事が出来ずにいた。
『負けたくない』。悔しいと思えるほど将棋に向き合う事。
こればかりは親しいさくらでは教える事ができない。
何度でも対局できるネット将棋ではなく、大会という一度限りの対局だからこそ桜花は心の底から悔しいという感情が湧き起こったのだ。
「もっと……強くなりたいっ……」
姉に認められたいからでも、姉に褒めてもらいたいからでもない。
将棋で勝ちたいから強くなりたい。
何分、何十分桜花は泣き続けた。
そしてもう流す涙が無くなった頃。
コンコン
「桜花、大丈夫?」
心地よい声。姉であるさくらだ。
「……おねぇ、準決勝は?」
「勝ったよ」
さすがおねぇ、と桜花は思う。
いつでも自分より強く、将棋以外でも頼り甲斐がある姉。
大好きな姉。
「わたしは負けちゃった」
「うん知ってる。えーっと……」
さくらは桜花になんと声をかけていいか悩んでいる。下手に慰めても逆効果になりかねない。
ひとときの静寂の後、桜花が口を開く。
「おねぇ、かたきうってね」
「え、あっ、おうよ!」
「……へへっ、おっさんくさいよおねぇ」
「うぎゃっぴ!?」
素っ頓狂な声を出すさくら。
桜花の涙はすでに止まっていた。
ドアのロックを解除して個室のドアを開く。
桜花の目の前にはさくらがいた。
「ねぇ、おねぇ」
「ん、なに?」
負けて悔しかった。
次は――次こそは勝ちたい。
さくらの目をしっかりと見据え桜花は。
「わたしもっと強くなりたい。だから――また将棋教えて」
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