港町恋物語

Rachel

10. 2人で歩く道


翌日、ジレンは食堂の仕込みをしに朝早くからデュクレ家を出ていった。
クラリスは朝ごはんを用意してくれたが、クレメールは緊張のあまり何も食べることができなかった。会って2日目の時はうまいうまいと言ってたくさん食べたのに、今日は一口もだめだった。
クラリスは少し心配そうな表情を浮かべたが「そうですか」とだけ言って他に何も言うことはなかった。
逆にクレメールはその反応に落ち込んだ。もしかして見限られたかもしれない。そう思ってリビングの長椅子でぼうっと座り込んでいると、二階からクラリスが降りてきた。いつものエプロンや仕事着ではなくみぎれいな服装で、片手にかばんを持っている。
ぽかんと見上げたクレメールに、クラリスは小首を傾げた。

「あら? どこかへ案内してくださるのではなかった?」

「し、します、します!」

クレメールはバネのように立ち上がると玄関の扉に突進し、家を飛び出した。

そのまま2人は無言で道を歩いた。クレメールは緊張した面持ちで歩き、クラリスは時折心配そうな眼差しを彼に向けながら足を進めた。
そのうちだんだんと、クレメールの進むスピードが遅くなってきた。気が進まないのだ。クラリスがちらりと伺うと、彼の顔は思いつめたような、不安そうな表情をしていた。

「クレメールさん、大丈夫?」

呼ばれてはっとした顔になり、クラリスを見た。

「体調が悪くなったのじゃない? また別の日に出直しましょうか」

彼女の気遣う言葉に、クレメールは唇を噛み締めて首を振った。

「いや、大丈夫だ……もうすぐ着く」

クレメールは先ほどより強い意志を持った表情になると、歩みを進めた。
ようやくクレメールが立ち止まった。そこは大きな通りの前であった。どうやらここが目的の場所らしい。
商店の並ぶ他の通りと比べて、人通りが少ない。だが、それは今が日の高い時間であるからということをクラリスは知っていた。
ここは花街ーーいわゆる娼館の立ち並ぶ娼婦街である。
クレメールはクラリスを連れて、その通りをまっすぐに歩いた。

「お、俺は……ここで生まれて、ここで育った」

クラリスはクレメールを見た。彼はこちらは見ずに、ただまっすぐ見つめるだけで続けた。言わなければならないという義務が瞳の奥に見えた。

「母親が娼婦だった……父親は知らない。そこの娼館では子を作ることはご法度だったが、ある時避妊に失敗して子どもを産んだ。彼女は産んだ子をすぐに殺そうとしたが、すぐに人に止められて子どもは生きながらえた。それが……俺だ」

クラリスは淡々と話すクレメールをじっと見つめながら隣を歩いた。誰も歩いていないが、窓からこちらを不審げに見る顔が時々ちらちらと見えた。
クレメールは続けた。

「母は罪人として憲兵に連れていかれたらしい。そしてそのまま帰ってくることはなかった。俺はその後孤児院に入れられたが、あんまり子どもの数が多かったから、歩けるようになるとすぐに娼館に返されてそこで働き始めた」

クレメールが立ち止まって左側の建物の方を向いた。

「ここだ」

クラリスはまじまじとその娼館を見つめた。決して大きくはない、隙間を木片で覆ったような建物だった。窓は小さく閉め切られ、誰かが覗いている様子もなかった。
クレメールはその娼館から目を逸らすことはなく、続けた。

「働くといっても俺は女じゃない。器用じゃない俺は、結局女衒として、客引をするしかなかった。客は1日に2人連れてこないと食事を抜かれた。それに……俺は、みんなから嫌われてた。死神にも嫌われるほどの死にぞこないだから、多少何かしても死にはしないだろうって思われてたんだ。だからよく理由もなしに殴られた。客引だけじゃない、娼館の雑用も、老婆の相手も……男の相手までやった。そうすれば、夕食にありつくことができたんだ」

クレメールは逃げるように身を翻し、再び歩き出した。一緒になって娼館を見上げていたクラリスも慌ててそれに従う。

「全然食い物にありつけない日が続いた時もあった。それでパンを盗んで、役所に連れていかれたこともあった」

クレメールはその時のことを思い出し、身体を震わせた。まだ子どもだったのでひどく恐ろしかった。

「殴られるのには慣れてたけど、あんなに怖い思いをしたのは生まれて初めてだった。役所はそういうとこなんだって身に染みてわかった」

クラリスは、示談金を出して役所に彼を迎えに行った時の事を思い出していた。彼は憲兵に名を呼ばれた時も、牢を出た時も、ひどく怯えた顔をしていた。
クレメールは続けた。

「結局、それから何ヶ月か牢屋にいたらしいけど、気がついたらまた娼館に戻っていた。相変わらず客引をしていて……それしか生きる術を知らなかった」

やがて2人は通りの先に着いた。すぐ目の前に見える船着場の向こうには、青い海が広がっている。この海沿いは先ほどの通りと違って漁師や貿易商人、仕入れの準備をする料理人などが歩いていた。2人はそのまま船着場を進んだ。

「19の時だ。俺がこの辺りで客を探してると、船長が……君のお父さんが、俺を呼び止めた。客だと思った。その時は3日食べてなかったからやっと見つけた客だと思って……すごく嬉しかった。だけど、デュクレ船長は俺の顔色を見て、心配して声をかけたらしかった」

今でもその時のことはクレメールは鮮明に覚えていた。





デュクレ船長は灰色の眉を寄せてクレメールにぐんと顔を近づけてきた。

「お前、どこの船の乗組員だ。待遇が悪すぎやしないか? 全然食べてないって顔してるぞ。クリスに似てるかと思ったけど、もっとひどい顔だ。その船と契約が終わったんなら、私の下で働かないか。ちょうど人手が足りてなくてな。毎日腹いっぱい食わせてやる、どうだ?」

クレメールは自分は船乗りではないこと、客引をしていること、顔色が悪いのは3日食べてないからだということを話した。だが、デュクレ船長は肩をすくめた。

「お前の事情はわかった、いいから私と来い。船の乗り方は一から私が教えてやる。まずは腹ごしらえだ」

少々強引ではあったが、デュクレ船長はそれからクレメールを引っ張って食堂でご飯を食べさせ、その夜のうちからクレメールを船に乗せて出航してしまった。クレメールはこの時、後になって追い出されると思っていたが決してそんなことはなく、デュクレ船長のはからいによって正式に商船の船乗りとなったのである。








「最初は船の進め方も、ロープの結び方も、乗組員の上下関係もわからなくて、慣れるのに苦労した。だけど、他の人間と同等に扱われたことが新鮮で……給料なんてものを初めてもらった時は涙が出た、へへ、冗談じゃないぜ」

クレメールは思い出すように小さく笑みを浮かべた。
やがて2人は船着場の終わりの崖のところまでたどり着くと立ち止まり、クレメールは海の方を向いた。

「それからずっと6年間、デュクレ船長の下で船乗りとして生きてきた。今ジレンの小屋の隣にある家は、2年目の時に、引退して田舎に帰った甲板長からもらい受けたものだけど、俺は君のお父さんと同じようにほとんど海の上で過ごしてきた。それは……俺が、俺自身の過去から逃げるためでもあったんだ」

クラリスはクレメールの顔を見上げた。朝と同じ、怯えたような表情をしている。
クレメールは続けた。

「修道院が完成した後、貴族の邸宅の仕事があるって言っただろう、その貴族ってのが俺の母親の同僚だった。彼女は貴族に身請けされてて……だから俺に気づいてすぐに嫌だと言って契約を切ろうとした。親方も途方にくれちまってたから、それで、俺……。けど、俺もできた男じゃないから、酒に逃げて騒ぎを起こしちまった。だから……その、俺はあんたにふさわしい男じゃないんだ。俺はもともと暗いところで生きていかなきゃならないから。もうこれきりにして、俺たちは会わない方が……」

クラリスは思わず彼の頬に手を当てた。泣きそうなのを必死で堪えている様子に耐えられなかったのだ。
クレメールさんは、私と決別するために、ここへ案内してくれたのね。私が拒否すると思っているんだわ。
触れられたことに驚き固まっているクレメールに、クラリスは少し迷ってから切り出した。

「……きいて、クレメールさん。2ヶ月前、私は父を失ったわ。正直なところ、それを聞いた時どうしたらいいのかわからなかった。涙がこみ上げてきたけど、泣いてはいけないと押しとどめるものがあったのね。でも、ある男性が無理をするなと言ってくれた。泣きたい時は泣けと、肩を貸してくれたの。あの時ほど心が支えられたことは、今までなかったわ。まるで心に一筋の光が照らされたようだった、ほんとうよ。だから、私は少しでもその人の力になりたいの。その人がどんな生まれでも、どんな過去を持っていても、私はその人となら、悲しみも喜びも分かち合えるって思えるもの」

クレメールはぐしゃりと顔を歪めてクラリスの方を向いた。

「いや、違う、違うんだ、あの時の俺は……そんな殊勝なことを考えていたわけじゃないし……俺はもっと情けない男なんだ。最初は船長が死んだのを伝えに行くのが嫌だったし、君の家に初めて泊まった時は……その、変な期待をしていたし、君が紹介状を持ってきてくれたあの日なんか、俺は、その……」

「知ってるわ」

クラリスはようやく目が合ったことに微笑みを浮かべて遮った。

「私ね、知ってるの。あの雨の日、窓辺からあなたが嫌そうな顔をして玄関まで歩いてくるのが見えたし、その夜にクレメールさんを部屋に案内した時にはなんだか声が上ずっていたし、ジレンとお料理したあの日も、あなたから甘い香りがしたから……」

クラリスがそう言ったのに、クレメールの顔はかあっと赤く染まった。ぶんっと音がなるほどの勢いで再び顔を海の水平線に向ける。

「……ごめん」

なぜか謝ってきたクレメールに、クラリスは首を振った。

「私の方こそ、あなたに気を遣わせてしまってばかりでごめんなさい。父の葬儀でも、海軍や商会の人達がたくさん来ていたから自分と噂になることを心配して、私に近づかないようにしていたのでしょう。でもね、クレメールさん」

クラリスはクレメールの向いた顔の方へ自分が移動して、視線を合わせた。

「私はあなたといたいのよ。他の誰でもない、あなたと一緒に食事がしたい。あなたと一緒に暮らしたいの。あなたを嫌う人がいても、私はどうしてもあなたを嫌いになんてなれないわ、だって……」

「だだ、だ、だめだ、だめだ!」

クレメールは顔を赤くしたまま眉を寄せて首を振った。

「きっとすぐに俺に幻滅するに決まってる! 俺は娼館で育ったんだぞ。前に食堂で会った男を覚えているだろう、俺はあの男となんら変わらないんだ。あ、あの男と同じ事を俺が考えているとしたら、い、嫌だろう!? い、い、今、俺が君に、何をするかもわからない!」

クラリスはあんまり必死になってクレメールがそう言うので、思わず笑みを浮かべてしまった。

「たとえ同じ事を考えていたとしても、あなたはそうしないはずだわ。それにあの人とあなたじゃ、決定的に違うことがあるわ。私はあなたを愛しているんだもの」

クレメールは目を見開いた。本気か。これは夢ではないだろうか。目の前の彼女の微笑みが、普段にも増して艶麗に見える。クレメールはギリッと歯を噛み締めると、両手をガッと勢いよく彼女の肩に置いた。
クラリスはちっとも怯えた表情にはならず、距離の近くなったクレメールをまっすぐに見つめるだけだった。
クレメールは顔を赤くしながらもずっとその体勢のまま彼女と対峙し続けたが、やがて「くっ」と泣きそうな表情になって下を向いてしまった。
少しの間沈黙していたが、しばらくして俯いたまま小さな声で言った。

「……あの夜、君がジレンと食事の用意をしてくれていた日が最後だ。あれからは一度も娼館に行ってない。大工を辞めた時も酒は飲んだけど、女は抱いてない。言い訳じみてて証拠もないけど、信じてくれ」

俯きながら言ったクレメールの言葉に、クラリスは穏やかな笑みを浮かべたまま「はい」と頷いた。
クレメールは続ける。

「婚前交渉は絶対しない。誓うよ。それに、君のお父さんの貯金には一切手をつけない。まず仕事を見つける。ちゃんと給料をもらえるようになる。だから……、俺と、けけ、け、結婚し、してくれないか」

クラリスは嬉しさでいっぱいになったが、彼が俯いたままであることを少し残念に思った。
だから、肩に置かれた彼の両手からやんわりと逃げ出すと、「えっ」と戸惑っているクレメールの頬に自分の両手を伸ばした。彼の頬は熱があるのではないかというくらい熱い。
クラリスは、クレメールの不安に揺れる瞳をまっすぐに見つめた。

「こだわりの強い方。でも、それであなたの妻になれるのなら……喜んで」

それを聞いたクレメールは目を潤ませ、唇を震わせた。

「ほんとうに?」

「最初から私がお願いしているじゃない」

クラリスは小さく笑ってから、クレメールを見つめ、嬉しそうに彼の腕に触れた。

「でも、あなたもそう望んでくれたのが何より嬉しい。片思いはちょっと悲しかったんだもの」

クレメールは泣きそうな表情を浮かべて震える唇を噛んだ。
彼女が片思いだったことなんて、一度もないのに。しかし、クレメールは恥ずかしくてそれ以上何も言えなかった。



それから2人は、そのまま腕を組んで再び船着場を歩いた。船着場から商店の並ぶ通りを歩き、やがてデュクレ家まで来た。その時、玄関に誰かが居ることに気づいた。
ジレンよりも少し歳下くらいの、金髪とそばかすの目立つ見覚えのない少年だ。
彼は自分を見ている2人の存在に気づくと、パッと駆け寄ってきた。

「あの!もしかして、デュクレさんとクレメールさんですか?」

2人は顔を見合わせた。

「そうだけど……あなたは? どなたかの使いかしら」

クラリスの言葉に、少年はほっとしたような表情を浮かべた。

「ああ、よかった! 親方からクレメールさんを連れてこいって言われてるんです、ついてきてください」

そう言うと、少年はタタタッと駆け出した。2人はまた顔を見合わせたが、少年が向こうから「早くぅ!」と叫ぶので、慌てて従った。
少年の足は速かった。広場を抜け、中心街を通り、低い平野に抜けた。そこには、木材がズラリと並び、何人かの男達が土台をカンカンと打ち立てているようだった。

「親方ぁー連れてきましたようー」

少年は小さな布の天幕の方へと駆けていった。そこには大きな机が置かれてあり、1人の大柄な髭面の男が机の上に置いてある紙を見下ろしていた。
男は少年の声に顔をあげた。

「おお、ニコル! 戻ったか」

男の声は野太く、少し離れたところにいたクレメールとクラリスにもよく聞こえた。男は駆け寄ってきたニコルの頭に手をやる。彼は「よくやった、駄賃はあとだ、持ち場に戻れ」と言い、少年が作業場へ駆けていくのを見送ってから、客人の方に目を向けた。
こちらへずんずん歩いてくる。
まるで熊のようだとクレメールはひとりごちた。
男は2人の前まで来るとクレメールに向かって言った。

「あんたがレイモン・クレメールだな」

「は、はあ。あの……」

男は次いでクラリスにも目を向けた。

「で、あんたがクラリス・デュクレか」

「あの、あなたは……?」

クラリスが戸惑いがちに問うと、男はにかっと歯を出してわらった。

「へへへ、2人ともわけわからねえって顔してんな。悪い悪い、俺はデラボルド、大工だ」

男、デラボルドはちらりと後ろで作業をしている弟子達に目をやった。

「一応あいつらの親方をやらせてもらってる。実は今日からここに学校の校舎を建てることになっててな。とにかく人数が足りてねえんだ」

「は、はあ」

「だからお前、手伝ってくれねえか、明日からでいいからよ」

「へ?」

クレメールはぽかんとした表情を浮かべた。一体何を言われているのだろうか。

「お、俺が?」

「そうだ。今、仕事ねえんだろう?」

「で、でも、なんで俺を……?」

デラボルドはええと、と頭をかいた。

「お前、ランディールのとこで働いてただろ」

ランディール? クレメールははっとした。ランディール親方か! ついこの前まで上司だった、気は良いが、人使いの荒い男のことを思い出した。
デラボルドは続けた。

「あいつとは昔からの付き合いでな、頼まれたんだよ、変な客に目をつけられちまって仕事をやめちまった真面目な男がいる、雇ってやってくれないか、ってな」

ランディール親方がそんなことを……! クレメールは目を見開いた。
デラボルドは目を細めてクレメールを見た。

「でもお前、酒場で問題起こして憲兵に取っ捕まったんだろ? まあその腕っぷしは仕事で使わせてもらうけどよ。とにかくその牢に入ったとこまでは居場所がわかったけど、いつのまにか示談で出たって言うじゃねえか。誰が払ったんだってきいたら、婚約者のクラリス・デュクレって名前をきいてな。それで家がわかったから、使いをやったって話よ」

「え、こ、婚約者……?」

クレメールが驚いたように隣に立つクラリスの方を向いた。クラリスは少し顔を赤くしたが、こほんと咳払いをすると、デラボルドに笑いかけた。

「そうだったんですのね。でも、そんな風にしてクレメールさんを探してくださったなんて、デラボルドさんはなんて素晴らしい方なんでしょう」

そう言われて、デラボルドは「がはは」と照れたように笑った。

「まあ、あのランディールの頼みだからな。実は俺も昔いろいろやってな、あいつに助けてもらったりしてんだ。ここじゃ、気取った貴族なんかいねえから安心してくれよ。育ちだって、気にするこたあねえさ」

「あ、ありがとうございます……」

デラボルドの温かい言葉に、クレメールは頭を下げた。そして給金の話や、建築の目処の話をした後、「明日は朝から来る」と話が決まると、クレメールとクラリスはその平野を後にした。

2人はもと来た道を歩いていた。喜ばしい状況のはずなのに、どちらも気まずい思いを抱え無言でそっぽを向いていた。
クラリスは役所で自分がクレメールの婚約者だと名乗ってしまったことを後ろめたく思い、クレメールはさっき仕事が見つかったら結婚しようと言ったばかりであることを、どう切り出そうか迷っていた。

「あのさ……」

クレメールが口を開いた。しかし何を言おうか迷ったあげく、結局先ほどの疑問を口にした。

「そ、その、示談金を払う時、役所で俺の婚約者だって言ったってのは……ほんとうなのか?」

クラリスはビクリと肩を震わせた後、ばつが悪そうに横を歩くクレメールを見た。

「ごめんなさい、勝手な事を言ってしまって。その……その方が示談の話がしやすかったの。恋人でもなんでもないのに、なぜと問われても困ってしまうから……いいえ、それだけじゃないわ、私が、そう言いたかったからかもしれない。ほんとうにごめんなさい」

恥ずかしそうに謝るクラリスを、クレメールはじっと見つめた。そうまでして自分を役所から出したかったというのか。彼女は、ほんとうに俺のことを好きみたいだ。そう自覚した途端、無性に彼女への愛しさがこみ上げてきて、クレメールは急に立ち止まった。

「クレメールさん?」

クラリスも一緒に立ち止まる。不安そうな顔だ。クレメールは彼女の手を取ってまっすぐ目を見つめて言った。

「クラリス、これから教会に行かないか?」

「え?」

クラリスは目を丸くさせた。

「司祭に式の相談に行こう。日取りを決めたいんだ。君のお父さんが亡くなったばかりだから、喪が明けるまで待たなくちゃならないけど、なるべく早く、その、一緒に……」

クラリスはぱぁっと顔を明るくさせた。

「まあ、嬉しい。じゃあ私はほんとうに正式にあなたの婚約者になれるのね」

クラリスは心から嬉しそうにそう言い、「あっ」と思いついたように彼の両手を取った。

「そうだわ、司祭様のところに行く前に、父のお墓に行ってこのことを報告してもいいかしら」

クレメールは目を細めて頷いた。

「ああ、俺も一番に行きたいと思っていた。それに……ジレンにも言わないとな」

「ほんとうねマルセルやアネットにも早く知らせたい。ああ、クレメールさん、私きっと今、世界で一番幸せだわ」

クラリスの嬉しそうな言葉に、クレメールは言いづらそうに頭をかいた。

「その、あのさ、け、結婚してからでいいから、な、名前で呼んでくれないか……時々で、いいから……」

クラリスは「あら、ほんと」と今気がついたように、肩をすくめた。

「うふふ、そうね、レイモンさんと呼ぶわ! 素敵、レイモンさん、レイモンさん、レイモンさん……」

「わ、ちょ、そ、そんな急に、何回も言わなくていいから……」

クレメールは顔を赤くして慌てたように手の平をひらひらと振った、世界で一番幸せなのは自分の方だと思いながら。
教会まで歩く2人の道は午後の温かな日差しに照らされ、心地よい潮風が吹いていた。






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