港町恋物語

Rachel

1. 不幸の知らせ


レイモン・クレメールは一軒の石造りの家の前に立ちすくんでいた。いつもこの港町は晴れている日が多いのに、今日に限って空は 灰色の雲で覆われ、雨がしとしと降っている。
レイモン・クレメールは気が重かった。





彼の乗っていた三本マストの商船は、先ほどこの港町に帰ってきた。
半年近くの長い航海だった。嵐に襲われることもあったが、積荷は無事で、港で出迎えてくれた船主もそのことに満足して、船員たちを労ってくれた。
ただひとつ、この航海には不幸があった。デュクレ船長が病気で亡くなったのである。身体が丈夫であった人なだけに、突然倒れた時は皆が驚き懸命に看病したが、2日とたたないうちにあっけなく逝ってしまったのだった。生前に彼がよく言っていたように、皆はデュクレ船長を正装に着替えてさせて海に沈めた。
しかし、クレメールは彼の帽子だけは海に流そうとしなかった。
他の船員は帽子がないと船長が浮かばれないだの、船長としての帽子を取り上げるつもりかだの、文句を言ったが、クレメールは頑なに帽子を手放さなかった。

結局それがきっかけだった。


デュクレ船長の死は、桟橋に駆けつけた船主の耳にすぐに入った。

「デュクレ船長の家に寄ることができる者はいるか」

船主は船長の死を報告する適任者は誰かと疲れ切った船員達に尋ねた。誰かが船長の家族にその悲報を知らせねばならない。
しかし、皆早く賃金を受け取って家に帰りたい者ばかりだ。それになにより、家族の死を知らせる役割なんて、誰もがごめんだった。
その時、誰ともなく声が出た。

「クレメールがいい」

「クレメールの奴は、船長の帽子を持ってた」

「帽子を届けるついでに言えばいい」

「俺たちには家族がいるが、クレメールにはいない」

「待たせている相手もいない、クレメールにしよう」

そんな意見が出たので、結局クレメールが引き受けることになったのだ。
船主はクレメールに言った。

「ご家族には彼の保険金もなにもかもこちらで預かっているから、明日以降に商会事務所まで来てほしいと伝えてくれ。それとお悔やみも」







クレメールは雨に濡れた髪をがしがしとかいた。留守であれば良いと思っていたが、デュクレ氏の家の窓からは灯りが溢れていて、明らかに誰かがいるようだ。
くそっ。心の中で悪態をつきながら疲労した足で玄関の前の小さな屋根の下に入った。手に持った三角帽を振って水気を払う。
さっさと渡して、さっさと伝えて帰ろう。終わったら酒場にも娼館にも行ってやる。とびきりいい酒ととびきりいい女を手に入れれば、この疲労だって少しは安らぐだろう。
そう自分を元気づけ、クレメールは目の前のドアを軽く叩いた。

「はい、おまちください」

女性の柔らかい声がして、すぐにドアが開いた。出てきたのは、若い女性だった。亜麻色の髪に鳶色の目が印象的な美人だ。どうやらデュクレ船長の娘らしい。彼女はずぶ濡れのクレメールの姿に、怪訝そうな表情を浮かべた。

「え……と、どなたでしょう」

クレメールは自分がひどく汚い姿をしていることを今更になって思い出した。なんせ半年ぶりの帰港だ。船から降りたばかりで顔も服も汚れ、髪はバサバサ、そして絶対に臭いもするはずだ。最悪だ。
クレメールはあまり女性に近寄ることなく小さく礼をした。

「ガロワ商会のギマール号がさっき、港に到着して……えと、俺はその船員のレイモン・クレメールといいます」

女性がこくこくと頷く。ああいやだ、言いたくない。くそ、早く言っちまえ。クレメールは自分を胸の内で叱咤した。

「それで……その、ギマール号のデュクレ船長が、その、航海中に病気にかかり、な、亡くなって……お、お、お気の毒です」

目の前にいた女性は息をのんだ。目が見開かれ、涙が溜まっていく。

「……そ、うですか。父、が、び、病気で……」

声が震えている。しかし、クレメールが恐れていたように、女性は大きな声をあげて泣き出したりはしなかった。彼女は嗚咽が漏れそうになった口元をさっと左手で抑えると、鼻から大きく息を吸い込んだ。ここで泣き始めたらクレメールが困ると気を遣っている。その様子に、クレメールは少なからず同情した。
早く俺がこの場から消えてやらないと、彼女は泣けない。

「……その、詳しいことや、船長の保険金や財産はガロワ商会が預かってるって言ってたから……明日にでも事務所に行ってもらえますか。それじゃ、俺はこれで。お、お悔やみを」

クレメールの言葉に、女性は頭を下げ、震える声のままやっと言った。

「お疲れのとこ、ろ、わ、わざわざご足労いただき、ありがとうございました」

「いや」

そう言ってクレメールが身を翻して歩き出すと、後ろからパタンと扉が閉まる音が聞こえた。ほっと息をつこうとしたその瞬間に、クレメールは自分の手元にある帽子に気づきはっとした。帽子!? な、なんでこの帽子を渡すの忘れてんだ、俺の大馬鹿野郎っ!
クレメールはぎゅっと帽子を握るとゆっくりと前を歩き出した。
帽子はまた別の日に渡せばいい。今もう一度ノックして帽子を渡し忘れました、なんて間抜け過ぎる。
しかしクレメールは数歩だけ歩くと足を止めた。
まてよ、明日彼女が朝早く事務所を訪れた時に帽子を受け取っていないと船主に知られたらどうなる? 俺は泥棒扱いされるぞ。かといって船主に帽子を渡し忘れたといえば、完全に船員たちに間抜けの烙印を押されることは間違いない。
クレメールはギリと歯を噛み締め、くるりと振り返ると、再びデュクレ家の玄関の前まで引き返した。
ああ、くそ! くそっ! 胸の内で悪態をつきながら再び扉を叩く。
すると、少しの沈黙の後そっと扉が開き、目を真っ赤にさせた例の女性が少しだけ顔を出した。その表情にクレメールはああしまったと思った。
そうだ、彼女は扉を閉めてから泣き始めたんだ。何をやっているんだ俺は……! タイミングの悪さに、焦るあまり言葉がなかなか出てこなかったが、手元の帽子が目に入ると思い出したように喋り出した。

「わわ、わ、悪い。その、こ、これを、船長の帽子を渡し忘れて……。他の遺品は海に流しちまったから……これはあんたに返した方がいいかと思って」

クレメールのもうすっかり砕けた言葉と、差し出された帽子に、女性は目を瞬かせ、扉を先ほどと同じくらいに開けた。濡れた三角帽子を無言で見つめる。
クレメールは言葉を紡いだ。

「ほんとうはこの帽子も流すはずだったんだが、何も残さないのはさすがに船長も望んじゃいないだろうと思って……その、これだけ」

クレメールがそう言ったのに、女性はおずおずとその帽子を受け取ると、何かを思い出すかのように目をほんの少しだけ細めた。

「……ご親切に、ありがとうございます、たしかにこれは父のものですわ」

女性は目を赤くさせたままクレメールに笑みを向ける。

「こんな雨の日なのに、ご訪問いただいて……きっと帽子もうちに帰ることができて喜んでおりますわ」

クレメールはそんな彼女を見つめた。無理をして微笑んでいるのは丸わかりだ。
クレメールは心底彼女に同情した。そして自然とデュクレ船長のことを思い返していた。

あまり愛想のない自分も含め、分け隔てなく接してくれた良い船長だった。勇猛果敢で、嵐でも風のない日でも船と船員を守り続けた。ほんとうに良い人間を亡くしたと、クレメールも彼が死んだ日に涙を流したものだ。あの時ばかりは、あまり良い仲ではなかった船員達とも肩を組んでその死を惜しんだ。

デュクレ船長の娘はぼんやりとこちらを見ているクレメールを不思議そうな表情を浮かべたが、はっとして言った。

「ごめんなさい、飲み物も出さずに。どうぞこちらで休んでいって」

クレメールは彼女の言葉に我に返った。

「い、いや! 結構だ、その帽子を渡しにきただけだから……そんじゃ、俺はこれで」

そう言うと、後ずさり今度こそ踵を返そうとしたが、途中でぴたりと動きを止めた。彼女はまだ不思議そうにこちらを見ている。これからまた一人でここで泣くのだろう。そして他の誰かがやってきたら、また無理に笑みを浮かべるのだろう。
空っぽになった手をぐっと握り込む。
クレメールは全く言う気もなかった言葉をぼそりと口にした。

「……無理するなよ」

「え?」

デュクレ船長の娘は疑問の声を漏らした。
クレメールはすっと真面目な顔になり、振り返って彼女を見つめた。

「あんたは泣いてもいい。親父さんが亡くなったんだ。いい人だったからな、俺だって船長が亡くなった夜はずっと泣いてたぜ。恥じることはない。泣けよ」

その言葉に、彼女は驚いたように目を見開き、みるみるうちに瞼に涙を溜めた。震える唇を両手で覆う。クレメールは一歩だけ踏み出して家の中に入った。

「お、俺の――俺の肩を貸してやる、い、今だけ。でも、その、汚いし、雨で濡れてるからーー」

言い終わらないうちに、女性はクレメールに駆け寄り、彼の肩に自分の目元を押しつけた。少しすると嗚咽を漏らし、すすり泣く声が聞こえてくる。見下ろすと、肩も震えていた。
後ろで開けっ放しのドアから雨が地面を打つ音が聞こえ、それは少し大きくなり、彼女の泣き声をかき消すようだった。
クレメールは、デュクレ船長が家族の話をよくしていたのを覚えていた。奥方はずいぶん前に亡くなっていて、娘が二人、息子が一人いる、長女は妻にそっくりで、いつも自分の帰りを出迎えてくれるのだと嬉しそうに話していた。父親が亡くなれば、彼女はどんなに心細いだろう。
クレメールは小さな背中を撫でてやるか迷ったが、「いや初対面だぞ」と思い直し、両手を彷徨わせたあげく、結局ぐったりと自分の両脇に落とした。

「ご、ごめん、なさい」

娘が肩でむせび泣きながら詫びた。

「は、初めてお会いしたのに、こ、んな……あなたも、疲れて、いるのに……」

「気にすんな」

クレメールはそれだけ言った後、少々粗野だったように思い続けた。

「いや、その……困った時はお互い様というか」

なんだよそれ。
クレメールは気の利いたことも言えない自分に落ち込んだ。
しかし、娘の方は彼の発言を気にした様子もなく、そのままクレメールから離れようとはしなかった。

「あ、りがとう……ほんとうに優しいのね……ごめんなさい、もう、少し、このまま……」

肩に目を押しつけている彼女には見えていないのに、クレメールはうんうんと頷いた。「泣く女」をクレメールは面倒だと思っていたが、今は全くそう感じていなかった。むしろいつまでも彼女のそばにいてやりたいとさえ思った。きっと美人だからだろう。デュクレ船長の娘ってだけで名前も知らないのに、現金なもんだ。クレメールはつくづく自分の浅ましさに嫌気がさした。
しばらくそうして泣いていたが、やがて静かになると、彼女はふっと顔をあげた。目は先ほどよりさらに赤くなっていて痛々しい。こんな質の悪いごわごわした服の肩に押しつけたからだ。クレメールはしまったと後悔したが、娘の方は顔に翳りがあるものの、いくらか気丈さを取り戻したようだ。

彼女はクレメールに微笑んだ。先ほどのようなぎこちなさはない。

「ありがとう、少し気持ちが楽になりました。悲しいけど、船乗りですから、覚悟はしていたの……。あなたは優しい方ね。温かいお茶を淹れますからぜひ休んでいってくださいな」

娘は帽子を持ったまま身を翻して部屋の奥にいこうとしたが、あっと気づいたようにクレメールの方を向いた。

「ごめんなさい、私はクラリス、クラリス・デュクレ。ロベール・デュクレの娘です。あなたは、ええと、ムッシュー・レイモン…クレ…?」

クレメールは肩をすくめた。

「レイモン・クレメール。ムッシューなんていらねえよ。それに俺、服が濡れてるから入ると家の中が濡れちまうし……」

するとクラリスは、そのことに初めて気づいたように赤い目を見開いた。

「大変っ! 私ったら気づかずに……すぐ湯浴みの準備をするわ」

「へ? ゆ、湯浴み……いやいやいやいや! そんな、俺、い、いいや、もう帰るとこだから」

クラリスはパタパタと駆け回って微笑みを向ける。奥の棚からタオルを取り出しながら言った。

「まあご遠慮なさらないで。父はよく船乗りの方を連れて帰りましたから準備くらいできます」

「いや、そういう問題じゃ……」

「もしや」

クラリスははたと足を止めた。

「まだお家に……ご家族に挨拶に行っていないのでは? 奥様か恋人の方がお待ちでしたか」

クラリスの問いかけに、クレメールは頭に手をやった。

「い、いやあ、俺は結婚してないし、そういうのもいないから家に帰っても一人だ……」

そう言葉にした自分にクレメールは少々落ち込んだが、クラリスの方はほっとした表情になった。

「それなら、ぜひうちで休んでいってください。着替えは父のものがあるから大丈夫よ。どうぞご遠慮なさらないで」

結局クレメールは、元上司の家で風呂に入ることになったのであった。




さすがは船長の家だけあって、立派な浴室だった。そもそもこれほどきちんと浴室を使うなんて人生で初めてではないだろうか。
お湯は温かく、冷たい雨で冷えたクレメールの身体に沁みた。清潔な石鹸の香りが漂い、べっとり皮膚にこびりついていた潮はきれいに洗い流され、クレメールは自分のほんとうの肌の色をやっと見た気がした。
浴室を出ると、すぐ傍に柔らかいタオルと質のいい衣服が置かれていた。
クレメールはまるで王族になった気がした。どれだけの金を持っていたらこのような生活ができるのだろう。そんな風に考えながら服を身につけ、浴室を出た。
自分からいい匂いがする。あの石鹸だ。それにこの服も。
玄関に続く階段に近づいていくと、クラリスの姿が目に入り、そして少年と青年の間くらいの男子が海軍の制服を濡らして立っているのが見えた。
彼の顔は蒼白でじっとクラリスを見つめている。手にはクレメールの持ってきたあの帽子を持っている。濡れた黒髪からどことなくデュクレ船長に似ている気がした。
クラリスが階段を下りてきたクレメールの存在に気づいた。

「あらクレメールさん、お湯加減はいかがでした?」

「あ、ああ、とても……よかった、ありがとう。その……?」

クレメールの視線に、クラリスが青年の方によって背中に手を当てた。

「こちらは弟です、さっき帰って来たの。マルセル、彼がクレメールさんよ」

ああ、弟だったのか。クレメールは納得したように頷いた。
青年はクレメールの方を向いた。なるほど、目の色がデュクレ船長とそっくりだ。

「マルセル・デュクレです。姉から聞きました、あなたが父を看取ってくれたのですか」

声は沈んでいたが、しっかりした声だ。16、7歳と、いったところだろうか、まだ若く、制服に着せられているように見える。クレメールは肩をすくめた。

「俺だけじゃない、船員みんなで見送った。いい船長だったからな」

その言葉にマルセルは唇を噛み締めて下を向いた。

「そうでしたか……ありがとうございます」

最後の方の声は詰まらせたように聞こえた。クラリスが心配そうな顔で弟の肩に手を置く。

「マルセル……」

「大丈夫だよ、姉さん、大丈夫。……雨でびしょ濡れだからお風呂に入ってくるよ」

マルセルは姉の手をやんわりとどけると、テーブルに父の帽子を置き、階段を上がってくる。
すれ違う時、マルセルは振り向いてクレメールに言った。すがるような目をしていた。

「夕飯を、食べていってください。父の話を少しだけでもきかせてくれませんか、お願いです……いいだろう、姉さん」

クラリスは目を細めた。

「クレメールさんさえよければ、ぜひ」

マルセルとクラリスに挟まれ、クレメールは少したじろいだが小さく頷いた。

「わ、わかった」

マルセルはその返事にほっとしたような表情を浮かべると、浴室の方へ入っていった。

「ごめんなさいね」

クラリスがぽつりと言った。

「亡くなった上司の家になんてあまり長居はしたくないでしょうけど……でもあなたがいて、とても感謝しているの」

クレメールは慌てて首を振った。

「い、いや……! 湯浴みさせてもらって、しかも夕飯までごちそうになる俺の方がありがたいというか……どうせ家に帰っても何もないからいいんだ」

確かにこの家の玄関に立っている時までは憂鬱で仕方なかったが、この目の前の女性の態度に、クレメールはちっとも悪い気はしなかった。湯浴みに質の良い衣服を着るだけでも普段のクレメールには体験できないことだった。それに船旅から帰ってきて、こんな風に出迎えられるなんて初めてだった。しかも金も払っていない。いいんだろうか。

「マルセルは……海軍の兵士なのか?」

さっきの制服を思い出してクレメールが尋ねるとクラリスは頷いた。

「ええ、文官見習いですけれど。仕事中に上官に呼び出されて父の死を知ったそうです。私が泣いているだろうって思ったみたいで慌てて駆け込んできてくれたわ」

クレメールは苦笑いを浮かべた。

「見知らぬ変な男が先に風呂に入ってると知ってびっくりしただろうな」

「なにを言うの! ……私が泣いているのをあなたが慰めてくれたと言ったら安心してくれたわ。あの子は、人一倍自立心もプライドも高いから、きっと人前では泣きたくないでしょうけど」

クレメールは目を細めた。この姉弟はお互いをちゃんとわかっている。両親がいない間もそうやって支えあっていたのだろう。クラリスはさあ、と切り替えた声を出した。

「そちらの長椅子に座って。夕飯までゆっくりとなさってくださいね。もうすぐ妹も帰ってきますから少し騒がしくなるわ」

そうだった、デュクレ船長には娘が二人と息子が一人。あともう一人帰ってくるのだ。
再び目の前のテーブルにクラリスがお茶を置く。

「妹は、弟以上に自立心が高くて……あなたに失礼なことを言わないといいのだけど。まだ14なの」

クレメールは低い数字にふと眉を寄せた。

「14……? マルセルとあんたはいくつなん……あ、わ、悪い、きかなかったことにしてくれ」

クラリスは気にしないというように微笑んで首を振った。

「マルセルは17、私は23よ」

あっさり明かしてくれた年齢に、クレメールは一瞬ぽかんとしたが、少し顔を赤らめた後、ふむと考えこんだ。この家には奥方はいない。マルセルはまだ17か。クラリスは成人しているとはいえ、遺産を受け取れるのだろうか。あの船主は不正は行わないことは確かだが、結婚していないクラリスを前に、遺産公証人が保険金を渡してくれるかどうかは定かではなかった。前に船乗りの友人が亡くなった時に、先立たれた彼の若い妻が遺産を受け取るために苦労していたのを覚えている。まあ、船長の娘相手にそんな失礼なことはしないだろうが。

「……もし、明日、窓口のとこで遺産交渉人があんたに保険金を渡すことを渋ったら強気でいけ、ガロワ商会はあんたの親父さんにたくさん借りがあるはずだ。なんなら俺を呼び出してくれてもかまわない」

クレメールが難しい顔をして言ったのに、クラリスは目を瞬かせていたが、嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ありがとう、クレメールさん」

それからクラリスは調理場で夕飯の支度に取りかかった。クレメールはその後ろ姿を眺めながら、出されたお茶を飲み、しばし考えにふけった。
この姉弟はこれからどうするのだろう。マルセルは海軍に所属しているからなんとかなるだろう。しかし一兵卒、しかも文官見習いでは姉妹を養うことは難しい。彼女らが働いているとしても、保険金がきちんと支払われなければいずれこのような生活はできなくなる。
そこまで考えてクレメールははっとした。
おいおい、俺はなんだってこの家族の事情に首を突っ込んでいるんだ。デュクレ家の人間がどうなろうと別に関係ないだろう。ほんとうだったら、帽子を渡してとっととこの家を出て、今頃酒場で飲んでいるか女を抱いているかしているはずだったのだ。
クレメールはちらと窓の外を見た。雨は弱まることなくずっと降り続いているようだった。
その時だ。
ガタンッという音とともに、玄関の扉が勢いよく開いて、一人の少女がずぶ濡れで飛び込んできた。

「おねえちゃんっ? おねえちゃん、いるう!?」

高い声で叫んだあと、リビングの長椅子に座るクレメールの存在にぎょっとした声を上げた。

「うわっ、あんただれ」

栗色の髪の毛をおさげにしてまるで獣を前にしたようにこちらを睨みつけている。マルセルに少し似ているが、髪の色は長姉と同じだ。服装は傭兵団員のような恰好をしている。

「お、俺は……」

「なんなの? 人の家のリビングに上がり込んで、お茶なんか……」

「アネット、おかえりなさい」

クラリスが調理場から出てきてそう言ったのに、少女ははっとそちらのほうに顔を向ける。

「おねえちゃんっ!」

そうしてクラリスの方へ俊敏な速さで駆け寄っていくと彼女の身体に腕をまわしてぎゅっと抱き着いた。くぐもった声で言う。

「……鍛錬所できいたの。私、おねえちゃんが気を失ってないかって心配したんだから!」

クラリスは微笑み、少女の頭をなでながら穏やかな声で言った。

「ありがとう。私は大丈夫よ。とっても悲しかったけど……。でもいつかはって覚悟していたことだから。そこにいるクレメールさんが、お父さんの帽子を届けてくれたのよ」

クラリスが、テーブルの上に置いたままの帽子を指して言った。少女は姉の身体に手を巻き付けたまま首だけ振り返り、クレメールに目を向けた。

「なあんだ、船乗りだったの。おねえちゃんに求婚してきた保険金狙いの悪党かと思った。思わず剣で切りつけちゃうとこだったわ」

クレメールはぐっと口を結んだ。がらの悪い顔で悪かったな。
するとクラリスがたしなめるように言った。

「失礼よ、アネット。彼はわざわざ知らせに来てくれたんだから。クレメールさん、ごめんなさい、この子は妹のアネットです」

「アネットです。この度はありがとうございました」

きちんと向き直った姉妹に、クレメールも慌てて長椅子から立ち上がって言った。

「レイモン・クレメール……お父上の船の船員だ」

アネットは「ふうん」とじろりと下から上まで見上げる。この挑戦的な視線。これはまたクラリスやマルセルとは違う部類のようだ。船乗り仲間がいつだったか「同じ屋根の下で同じ飯食ってるんだから兄弟なんて顔も性格もそっくりであたりまえなんだよ」と得意げに言っていたのを全力で否定できるとクレメールは思った。
アネットが言った。

「お父さんの部下。そう、じゃあ、私たちよりお父さんといた時間が長いかもね。私たちより話した回数も、思い出もたくさんあるんでしょうね」

「アネット!」

クラリスが驚いたように目を見開いたが、妹の名前を怒鳴るようにして呼んだのは、階段の上のマルセルだった。湯浴みを終えたようで、乾いた服を身につけている。顔は怒ったように妹を睨んでいた。
アネットは階段の上の兄を見上げる。

「なによ、マルセル。私は間違ったことは言ってないでしょ」

「そんな言い方は、クレメールさんにも父さんにも失礼だろう!」

兄は階段を下りながら声を張り上げたが、妹も負けてはいない。

「どこが失礼なの? ほんとうのことを言っただけじゃない。お父さんはちっとも家に帰ってこなかったんだから。どうしてマルセルはいつもお父さんの肩を持つの?」

「お前はっ!」

マルセルがまた怒鳴り声をあげようとしたその時、クラリスが睨み合う二人の肩に手を置いた。

「やめなさい、二人とも。お客様の前よ」

マルセルは、はっとしてばつが悪そうな顔をし、アネットの方は不服そうに口をへの字に結んだ。
クラリスは穏やかな声で言った。

「アネット、まずは湯浴みをしてらっしゃい。身体が濡れたままでは風邪をひくわ。それから夕食にしましょう」

アネットは小さく頷くと、無言で階段を上がっていった。
マルセルはため息をついてドスンと長椅子に座った。クレメールは目を丸くさせて立ち尽くし、困ったようにクラリスを見た。彼女は申し訳なさそうに微笑んで、ついてくるよう手招きした。

彼女に従って調理場に入る。奥の火元ではコトコトと煮えている鍋があった。よだれの出そうなほどいい匂いだ。しまった、不覚をとった。今ここで、申し訳ないが夕食はなかったことにと言われたら、自分は立ち直れないかもしれないとクレメールは思った。
クラリスは少し振り向いて弟の方を確認すると、調理場に通したクレメールの方を向いた。

「ごめんなさいね。気を悪くしたでしょう」

「い、いや……俺は別に」

喧嘩のことのようだ。確かに驚きはしたが、それほどでもない。荒くれの野郎どもの喧嘩より何倍もかわいいものだ。
クラリスは少し落ち込んだように言った。

「アネットは……あの子は、あまり父と接していないの。あの子が生まれて何年かして母が亡くなったのだけど、同時に父が船長に昇進して……。父は母を愛していたから、母のいない家にはあまり帰りたがらなかったの。それであの子は、なかなか帰ってこない上に帰ってきてもすぐ船出してしまう父のことを、いつからか嫌いだと言うようになってしまって。父から離れたいって家を出て、剣を習いに女性用の鍛錬所に通ったり、そのことで喧嘩になったり。でも、ほんとうはあの子も父を愛しているのよ。ただ、意地っ張りで」

クレメールは納得したように頷いた。船乗り仲間がいつも言っていた話題だ。家族を残しているから子供に顔を忘れられてしまうと嘆いていた奴はたくさんいた。帰りを待つ家族のいないクレメールには、わからない事情だった。

「それで、正義感の強い弟と言い合いになることがよくあるの。もしかしたら、夕食の席でもそうなるかもしれないわ。そうなったら疲れているあなたに申し訳なくて……。先に夕飯を召し上がっていただいた方がいいと思うの。あの子は湯浴みが長いから、急がなくても大丈夫ですから」

クレメールは少し驚いた顔でクラリスを見つめた。また彼女はこの俺に気を遣っている。夕食の最中に喧嘩なんて、クレメールの生きてきた人生ではしょっちゅうだったのに。慣れているから大丈夫だと言おうとして、いや違うな、とクレメールは心で否定した。そんなことが理由ではない。
クレメールは少し考えてから言った。

「……アネットの言う通り、俺はきっと、彼女より多くの時を船長と共に過ごした。だから……船長がどんな人間だったか、俺はあんたにもマルセルにも、それにアネットにも話す義務がある。だからあんたたちと夕食を一緒に取らせてくれないか」

クレメールの言葉にクラリスは目を見開いたが、次の瞬間、心底嬉しそうな、ぱっと花が咲いたような表情を浮かべた。

「クレメールさんってほんとうに良い方ね……ありがとう」

その美しい微笑みに、クレメールは顔の温度が上がるのを感じ、顔をそむけた。
危なかった。今、手を伸ばしそうになった。
しかし、そむけた先には例のおいしそうな鍋があり、ここで耐え切れずクレメールの腹が鳴った。
嘘だろう、このタイミングで。二人の間にすこしだけ沈黙が流れる。

「……ふふっ、やっぱり先に少し召し上がってください。だって下船してから何も食べていないのでしょう? 妹だって文句は言わないわ」

クラリスがそう言ったのに、クレメールは赤面して小さく頷いた。






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