雪原の幻

杜乃日熊

雪原の幻

 白銀のつぶてが身体中に叩きつけられる。気がつけば、黒の外套も毛糸の帽子も隅々に至るまで雪が付着している。それを見て、このまま立ち止まってしまえば瞬く間に白色に染められてしまうのでは、と底知れぬ不安が込み上げる。
 先ほどから私以外の生物が見当たらない。人間も、動物も、植物も、現れる気配は無い。目を凝らせば、認識出来るのかもしれない。しかし、私の心がそれを阻んでくる。
 身体の震えが止まらない。それは寒さのせいか、それとも寂しさのせいか。一人のちっぽけな男を迎えたのは、静寂の轟音だった。
 荒れ狂う吹雪の猛威に歯向いながら、私は一歩ずつ進んでいく。しかし、いつまでも変わらぬ景色を見ているせいで一向に進んだという実感が湧かない。
 まさに終わりなき悪夢だ。眠りから覚めないのがこれほど恨めしいことがあっただろうか。徐々に苛立ちが募っていく。


 歩いた距離も過ぎた時間もとっくに数えるのを止めた頃。ここまでずっと平坦だった景色に変化が生じた。
 それは真っ白に包まれた円蓋だった。高さ三メートル、幅五メートルほどの大きさで、中央から地面にかけて穴が開けられている。そこから光と煙が漏れているのが窺える。外側は雪で作られていることが一目で分かるが、とても頑丈そうな印象を受ける。
 それはとどのつまり、かまくらだった。
 なぜ雪以外には何も無いこの場所に、このような物が作られているのか。珍妙かつ奇妙なことではあったが、疑問に思うことは無かった。それほど心身ともに限界が近かったのだ。
 これを作った誰かが中にいるのだろうか。希薄な希望を持って、穴の中を覗き込む。そこには中心に七輪が置かれ、その周囲には簡易椅子がいくつも並べられている。その他にも様々な小物が雑多に散らばっているのが確認出来た。
 そして何よりも、男が一人座っていた・・・・・・・・・
 蓑虫みのむしのように藁を纏った彼は、七輪で牡蠣を焼いている途中だった。炭火の美味しそうな匂いが、鼻腔を激しく突き刺してくる。
 男はこちらに目を遣る。無表情の中に灰を思わせる瞳。しばしの沈黙の後に「食うか?」と誘われた。私は首肯する。迷うことは無かった。


 男二人、七輪を囲い焼き貝を食らう。噛むほどに弾力ある食感が呼応する。まろやかな味わいとともに旨味ある汁が口内に広がっていく。これがたまらなく美味い。
 男から缶ビールを差し出された。有難くそれを頂戴する。弾けるアルコールの流体が、舌を刺激し喉を伝う。身体がじわじわと高揚していく。
 一頻ひとしきり食事を済ませると、男は雪で出来た兎を見せてくれた。すると、突如その雪兎が飛び跳ねた。男が作る兎はもれなく生命を宿すらしい。かまくらの中をひたすら跳ねる兎の光景は、なんとも幻想的だった。
 それから、男は釣りをしようと提案してきた。もちろん了承する。かまくらの中に不思議な釣り堀があるとのことだった。
 その見た目はただの空洞だった。竿を借りると、その穴に糸を垂らす。しばらくして、竿が震える。慎重かつ素早く持ち上げると、ぶりが釣れた。ここは海から離れた陸地のはずなのに、どうしてなのか。男は企業秘密だと言って教えてはくれなかった。
 時間はあっという間に過ぎていった。かまくらの中で過ごす時間は心地良いものだった。
 私は男に感謝と別れの言葉を告げ、外に出た。依然として吹雪は止まない。しかし、目の前の豪雪はひどく遠いものに感じられた。
 何歩か進んでから、惜しむように後ろを振り返る。すると、かまくらのあった場所は白一面に塗り潰されていた。

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