愛と平和のドリーマー

白結 陽

お目覚めドリーマー

 う……なんか声が聞こえる。
「ぬぅ、コイツ起きんな」
「テメェの屁でも嗅がせば起きんじゃねぇか?」
「そりゃ無理っしょ。ここ、内臓の働きが止まってるっていうか、内臓という存在も概念もないっぽいし。汗とか涙とかは演出として再現されているけど」
「そうなのか。だが問題ねぇ。おいゴリラ、今こそテメェの顎を活かす時だ。そこから屁ェこけよ」
「できるか!」
「ピンクうんこ。できるかできないかの前に、銀ちゃんの屁を嗅いだら永眠しそうな事実に気づこうか」
「いや、ここじゃ死なねぇんだろ?」
「銀ちゃんの屁でも?」
「……否定できねぇ」
「テメェら嗅いだ事ねぇだろうが!」
 賑やかだなぁ。僕も混ざりたいなぁ。
「つーか、気絶もしないんじゃねぇのかよ。ババア、そこんトコどうなんだ?」
「アタシが知るわけないっしょ。まぁ、これでも気絶はしてないんじゃない? 仮想のとはいえ痛みが極限を通り越したから、一時的に麻痺したとか?」
「知らない言いつつ答えんのな」
「あっはは、ただの予想だってば。当てにしないどいて」
 ここはどこだろう。背中に柔らかい感触がある。でも、何も考えられない。
「……おい、いつになったら帰れるんだ?」
「コイツが起きたら帰してくれるだろうよ」
 声、聞き覚えがある。誰だっけ? ていうか知り合いって、どんな人達がいた?
 むしろ、僕って誰だっけ。
「……仕方ない」
 あ、大きな溜息。誰か、嫌な事でもあったのかな。
「加賀美、起きろ」
 加賀美? もしかして、それが僕の名前? うーん、何て言うか、しっくりこないな。もっとカッコイイ名前がいいのに。
 スーパー・ザ・バウムクーヘンとか。でも無敵神之浩志とか、スターダスト中島とかも捨てがたい。
「起きろと言っている」
 もう、さっきから誰ですか。
「………………………………まぁ、なんだ……たまになら、少しだけ、お前の話に付き合ってやっても良い。だからさっさと起きろ」
「マジですかッ!」
 僕は目を強引にこじ開け、ガバッと一気に上半身を起こす。
「聞きましたからね、確かに。この耳で!」
 うおおおおっ、これはっ、全身の血がっ、昂ぶるっ!
「……と、中島が言っていた」
「ちょっとぉ⁉」
 誰ですか中島って! スターダストですか!
「ハッザーマ、そりゃちょっと酷いんじゃない? 明日志はアンタを護って、こうなったんだから」
「狭間、漢という生き物に二言はないぜ。オレも確かに聞いた」
「言い直していないのだから二言じゃない。付け加えただけだ。そもそもお前は関係ない。部外者が首をつっ込んでくるな、死ね」
 狭間さんは腕を組み、僕を見下ろしていた。その目は、まだ氷に覆われた部分ばかりだけれど、少しは――温かみがあるかな。
 そんな狭間さんの首を遥さんが抱き込み、頭をわしゃわしゃと撫でた。
「素直になんなよ。恥ずかしがんないでさ」
「うるせぇババア、死ね。そして触んな」
「あんな騙すようなこと言っていいのかねぇ。ハッザーマが現実の人間を嫌う理由って、そういうのが嫌だからだと思ったんだけど、違う?」
 狭間さんは遥さんの腕を掴んで投げ捨て、黙って僕に背を向けた。
図星なんだろうか。考えてみれば、(多分)頭も良くて運動もできて、おまけに見た目まで超人的な狭間さんには、それが幼少期からなら、色んな人が寄ってきたはずだ。そんな人の中には、邪な考えを持つ人もいたんだろう。むしろ多いくらいかもしれない。
しかもそんな考えはお見通しだったはず。もしもそうなら……現実を嫌ってしまっても不思議じゃない。
 だけどね、そんな人間ばかりじゃないんですよ。僕に邪な心が微塵もないかと聞かれれば答えに窮するけれど。でも、少なくとも狭間さんには、悪意を持っては接しない。
 だから、
「狭間さん。少しずつで良いんです。少しずつ、仲良くなっていきましょうよ」
「何を上から目線で勝ち誇りながら語ってやがる。死ね」
「すんません。自分、調子こきました。これからは気をつけますので、どうぞ私めにお情けで貴重なお時間を、少しばかり頂けませんでしょうか」
 光よりも速く、地に頭を擦りつけて土下座した。
「きめぇ、死ね」
 また罵られたけれど、口調が少し柔らかい。これはお許しと受け取っても良いのだろうか。
 以後、狭間さんは口を閉ざした。
「――で、これはどんな状況ですか?」
 周りを見渡すと、雲の地面に桃色の空、それからファンシーなオブジェの数々。最初に夢の世界へ来た時に見た景色と同じだった。
「おう、このオレが説明してやろう。つまりあの時にだな、アレがアレで、それで……えーとだな、かくかくしかじかなんだ」
 すみません。僕には何がなんだか……。
「説明ベタにも程があんだろ。テメェ黙ってろよ」
「うっせぇピンクうんこ」
「テメェぶっ潰すぞ!」
「やってみろコラァ!」
 また二人の言い争いが始まった。遥さんがやれやれ、と首を振る。
「どこまで記憶あんの?」
「えーと、爆炎に身を焼かれて死ぬほど辛い思いをしたあたりまで、ですかね」
 もう痛みは微塵も感じないけれど、正直あの時のことは思い出したくもない。
「その後、当然あの爆発だから城が崩壊したわけ。で、幼女が急いで世界を初期の状態に戻して、起きない明日志を見守ってしばらく。少年は目覚め、そして現在に至る」
「わかりやすい説明、どうもありがとうございます」
 すると、もうすぐ帰れるってことか。なんだか長かったような、短かったような。苦しい事も多かったけど……いやもうホント、腐るほどあったけども……いざ去るとなると、少しだけ寂しかったり。
 後は幼女の力で、現実世界、あるいは自分の夢に戻るだけ――。
「……で、肝心の幼女はいずこに?」
 尋ねると、遥さんは頭をポリポリと掻いた。
「あー……うん。アレね、うん。アレならホラ、あそこにいるけど」
 遥さんが指で示すのは、地面に刺さっている巨大なクマのぬいぐるみ。
「あれがっすか⁉ まさか幼女の正体がテディベアだったなんて!」
「アホ。その裏だってば」
 裏?
「アタシが何を言ってもダメだったわ」
距離にして五メートルくらい、僕は歩いて行く。真っ黒のつぶらな瞳でにこやかな笑顔のまま表情が固まった、可愛らしいテディベアだ。その裏には小さな人影あって、すんすんと音を立てている。
「幼女さん?」
 返事はない。聞こえなかったのだろうか。
「幼女さーん」
 もう一度、少し声量を上げて呼びかけると、もぞっと影が動き、まもなく幼女が現れた。目を真っ赤に腫らした泣き顔で。
「お兄さん……」
 幼女は震える声で返事をした。嗚咽が混じり、グスッ、グスッと鼻音も鳴っている。子供の泣く姿は、見ていると胸が痛む。やりきれない気持ちだ。
「本当に、本当にごめんなさい!」
 幼女が頭を下げると、止まることなく溢れ続ける涙が雨の様に地面の雲を打った。さっきも謝られたけど、これはその比じゃない。心底なにかを後悔し、自分の非を全て認めた上で、何かを詫びている謝罪だ。
 これはどうしたら良いんですかね。
とりあえず、あやす意味で頭を撫でてみようか。屈んで頭の高さを合わせ、そっと髪に手を滑らせる。幼女の小さな体がビクッと震えた。
「正直なところ、何を謝っているのか全くわからないんだけども……」
 ここまで謝られる事をされた覚えはない。いや、待てよ。もしかしたら僕の知らない何かなのかも。例えば、ここから出られなくなったとか。
 それはちょっと困るな。困るけど、まぁ何であれ、
「……本当に何一つ心当たりがないんだけども……うん、許すよ」
 ポンポン、と手を優しく弾ませると、幼女は糸が切れたように、会話ができなくなるほど号泣した。
 遥さんが小走りで駆けてくる。
これは怒られる――そう思った僕は、慌てて姿勢を正し、両手を挙げた。
「ウェイト。超ウェイト遥さん! 僕は何も悪い事は言っていないのですよ。これだけは断言できます、ホントに。マジで。この命を賭けて!」
「いや、それは何となくわかってるけど……」
「ダカラ、コロサナイデ」
「なんで片言になってんの?」
 えっと、なんとなく。
「僕は謝られたから許しただけなんですけどね。そうしたら急に泣き出されまして」
「元から泣いてたけどね。明日志が目を覚まさない間、ずっと」
「ほう……そりゃ随分と長いこと、なのかな。どれくらいかは知りませんけど。で、なんで泣いていたんです?」
 首を傾げると、ポカッと頭を叩かれた。紙のように軽い拳だ。
「そのアホが一時的なものなのか通常営業なのかで、アタシの中での明日志の評価が著しく変わるんだけど」
 なんか僕達の友情に危機が迫っている。これはマズイ。
「いや、寝起き(?)なもんで」
「あっそ。……まぁ、幼女が泣いているのは、簡単に言うとアンタが原因ってこった」
「なんでですか! 僕なにも悪い事はしていませんよ!」
 声を大にすると、遥さんが珍しく不機嫌そうな顔をした。
「もう面倒だから黙って聞いといて」
「はい」
 ああ、大分イライラしていらっしゃる。
「幼女はこの世界で色んな事ができるっしょ。で、知っての通り、アタシ達をここに連れて来てゲームを創った。そうすっと必然的に責任者なわけ。他に誰も居ないかんね」
 ふむ、なるほど。
「そんで予期せぬ事故が起こった挙句、目を覚まさない被害者が一名。あ、予期せぬ事故ってのは発生した力が想像以上で、被害者がよくわからない状態に陥ったこと。ここまでわかったらイエスで」
「イエス」
「それ即ち幼女の責任。イエス?」
「オフコース」
「ダカラ、ヨウジョ、ジブンガワルイト、オモッタ。ダカラ、ナイテル。オーライ?」
「オゥイエース。アイスィー。センキュー。ハバナイスデイ」
 なんだこれ。
 でもとにかく事情はわかった。再びしゃくり上げる幼女に目線を合わせ、上下する肩に手を乗せる。
「幼女さん。事故が起こったのは結果的なことであるからして、だから僕も結果的なことを言わせてもらうよ。このゲームで僕は皆と少し仲良くなれた。それは幼女さんに助けてもらったからだよ。助言ももらったし。で、何かあったみたいだけど最終的には助かった。だから幼女さんは何も気にする必要なんてないのですよ。むしろ感謝してるくらいっすから」
 言い聞かせると、幼女は泣き顔を上げた。
「でもお兄さん、わたしのせいで脳死するかもしれなかったんだよ?」
 ⁉
「それでも怒らないの?」
「…………も、もちろんさ。ハハッ」
 怖ッ。脳死って、ちょっ……怖ッ! マジで危ないじゃないですか。
「ホントに? わたしの事、怒ってない? 嫌いになってない?」
「大丈夫、大丈夫。ぜーんぜん大丈夫、なにも問題ない。終わり良ければ全て良しって言うでしょう?」
 これでもかというくらいに頭を撫で回す。
「ほーら、ベロベロバー」
「そこまで幼くないっての」
 変顔をしていると、ピシッとツッコミが飛んできた。それを見て、幼女はようやく泣き止んだ。まだ顔とかぐちゃぐちゃだけど。
「ほら、効いたじゃないですか」
「いやいや、ツッコミとセットだからっしょ」
 まぁ、どっちでも良いか。
「さ、泣きやんだところで、そろそろ帰してもらおうかな。狭間さんがものすごい顔で睨んでくるし」
 と言うと、幼女はまた泣き出しそうな顔をした。だが、そうは問屋がおろさない。
「させるかっ!」
 マシュマロほっぺを摘まみ、左右に引っ張った。これで強引に笑顔を作る。
「ふぁふぉ……」
「ごめん、何を言っているか全然わからない」
 後頭部に鋭い手刀、今度は優しさの欠片もないツッコミが飛んできた。
「だったら手を離せ」
「イタッ。狭間さん?」
「お前、その妙なテンションをどうにかしろ。それか死ね」
「すんません。狭間さんの前じゃなければ、ギリでありかな、と」
 さて、冗談はこの辺にしておきましょう。精神のダメージが抜けてきたのか、そろそろ思考も正常に戻ってきたし。
「銀島さん、佐熊さん。そろそろ帰りますよーっ!」
 遠くでケンカしている二人を呼ぶ。そんな僕の袖を、幼女が引いた。
「あの、あのね……」
 まだ赤い目と頬の前で、人差し指をツンツンさせる。
「今度はもっと危険がないように気を付けるから、だから……」
 ああ、そっか。最後まで言わずとも幼女の気持ちは、なんとなく伝わった。
「また呼んでよ。夢の中で、それも皆で好き勝手あそべるなんて素晴らしい事なら、いつでも大歓迎だからさ」
 これは嘘も偽りもない気持ちだ。だから満面の笑みで言ってやる。幼女も、目を丸くした後に、同じような笑みで返してくれた。
「うんっ!」
 すっかり元気を取り戻したらしい。
「ねっ、狭間さん!」
「俺を巻き込むな。死ね」
 うわ、すごく辛辣な「死ね」だ。やっぱり打ち解けたとは言えないなぁ。まあ、次回もあるなら強引に連れて来るけど。
「それじゃ、みんなを元の夢に帰すよぉ!」
 うん、やっぱり子供は元気なのが一番だ。
「誰からがいい?」
 みんな一斉に狭間さんを見た。が、
「俺はもう少し後でいい。ケツアゴ、先に帰れ」
 などと意外な事を言った。
「ぬ……まぁ構わんが。元の夢か、へへっ。待ってろよ武羅怒外威瑠。この鋼の肉体でぶっ潰してやるぜ」
「誰っすか、それ」
「どうせ暴走族だろ? ケツアゴの敵対勢力の」
 銀島さんって暴走族なんですか。それは知らなかった。
「ケツアゴおじさん、また来てくれる?」
「その呼び方はやめろ。……そうだな、気が向いたらな。あばよ幼女、テメェら」
 まだまだ戦う気まんまんの猛る背中を見せつけながら、銀島さんは光の粒となって天に召されていく。なんか成仏したみたいな光景だ。
 次は……狭間さんは黙ったままだから、佐熊さんか。
「ウンチお姉さんも、また来てくれる?」
「おい、死にてぇのかテメェ」
「落ち着いて佐熊さん」
 相手は子供ですよ。
「……フン、たまにはな。ただし、ライブの夢を見てる時は邪魔すんじゃねぇぞ」
 佐熊さんも背を向けたまま、召されていく。
「次はアタシ?」
「いや、俺だ」
 狭間さんが前に出て、前例に倣い僕達に背を向ける。流行ってるんですか、それ。
「加賀美」
「あ、はい」
 呼ばれた。なんだろう。
「お前はあの時、なぜ魔女を突き飛ばした?」
 なぜって――、
「だって危ないじゃないですか」
 答えると、狭間さんは一本、指を立てた。
「一つ、ここでは死なないとされていた」
 はぁ、まぁそうですね。
 二本目が立つ。
「二つ、あの位置のお前は比較的だが安全だった」
 はぁ、まぁそうですね。
 三本目。
「三つ、城主だけが受ければ半分。一身に受ければ全ての痛みを味わう事になる。この意味がわかるか?」
「一人で逃げた方が痛みはない、あるいは少なくて済むってことっすか?」
「加えて、少なくともあの時は、誰がどんな攻撃を浴びようと死なないという条件があった。あの時のお前は、何を考えて魔女を突き飛ばした?」
 は?
 ……何を言うかと思えば。
「何も考えてませんよ。そんな余裕ありませんでしたし」
 即答すると、髪で陰になっていたために見えにくかったけれど、後ろ斜めから見える口の端が少しだけ吊り上がっていた……かもしれない。
「そうか」
 それだけ。
「ババア」
「なに?」
「今の話は聞かなかった事にしておけ」
「はいはい」
「よし、俺をさっさと帰せ。ロリ」
「うん。また連れて来るねっ」
 最後に幼女と言葉を交わすと、狭間さんは光の粒となって――。
「ちょっと待て、なぜ俺には訊かないんだ! 俺はもう二度と――……」
 狭間さんが狼狽しながらツッコミを入れるという、とても貴重なものが見られた。
 残ったのは幼女、僕と遥さんだけ。随分と寂しくなってしまった。
「明日志は最後の方が良いっしょ?」
「ええ、そうですね」
「んじゃ、幼女」
 遥さんの顔から笑みが消え、急に声が低く、真顔になった。
「答えてもらおうかな。アタシ、アンタの声に聞き覚えがあるんだよね。どっかで会ったことはない?」
 幼女は二ヘッと笑う。
「さぁね。たぶん会ってはいないと思うよ?」
 遥さんは幼女に訝しげな目を向けた。
「もう一つ」
「なぁに?」
「ここは誰の夢なわけ?」
 また含み笑いだ。
「んー、誰の夢なんだろうね」
 さっきまで泣いていたとは思えない顔で見返している。まるで秘密にして、解けない謎を与えているみたいな……。
「答えになってないんだけど……まぁいいか」
「元気お姉さんも、また来てくれる?」
「呼んでくれりゃあね」
 遥さんだけは背中を見せず、僕と真っ直ぐ向き合った。
「じゃ、一足おっさき―っ! またね二人とも」
 遥さんは持ち前の快活っぷりを遺憾なく発揮し、召された。
 最後は僕だ。なんて言って別れれば良いんだろう。
「……あ、そうだ。僕も一つ訊いていいかな」
 幼女はコクンと頷く。その目には警戒の色が見えた。遥さんみたいな質問を恐れているんだろうか。
「名前、教えてくれる?」
 幼女は安堵の息を吐き、ぱぁっと顔を輝かせた。
「そういえば教えてなかったね。わたしはフローラ。朝倉フローラだよ」
 ふむ、やっぱりハーフってことなのかな。
「僕は加賀美明日志っていうんだ」
「知ってるよ」
 だよね。この世界で周りから何度か呼ばれてたし、知られていても不思議じゃない。
「僕はフローラって呼ぶから、フローラも名前で呼んでくれない?」
「いいよっ、あしゅし」
 …………。
「あしゅっ……あしゅ……」
 まあ、自分でも言いにくい名前ではある。
「あっしゅ」
「業火より生まれし咎人、我が名はアッシュ」
 とりあえず眼前に手のひらを持ってきてポーズも決めてみる。
 こうして僕とフローラにも固い友情が芽生えた。ただ、
「ちなみに何歳?」
「レディーにそういう事を聞いちゃいけません!」
 という事なので、この大人びた幼女の年齢はわからないけれど、もう敬語を使うのは一切やめようと思う。友達でも年上になら敬語を使うけれど、フローラは少なくとも僕よりも年下だろうし、だとすれば敬語なんて余所余所しいだけだ。
「また呼ぶからね、あっしゅ」
「うん。待ってるよ」
 最後にもう一度だけ頭を撫でると、チュッという音と共に、頬に覚えのある感触。
 少し驚いたけれど、ハーフだということを考えれば外国の習慣とかが残っていることもあり得るし、珍しい事じゃないのかもしれない。
「バイバーイ」
 白んでいく景色、地面が遠くなる。このファンシーな世界にフローラが一人、その姿がどんどん小さくなって、やがては完全に見えなくなる。
 フローラは夢から出られるのだろうか、そんな事をふと思う。もしも万が一、仮の話だけれど、一人でこの世界に残されるのだとしたら、こんな明るくて楽しげな世界でも――やっぱり寂しいだろうな。

 ………………ハッ。
「なんだ夢か」
 いや、夢だったのは知っていたけれども。
一体どこからどこまでが夢だったんだろう。もしかしたらアレは全て僕だけの夢で、実際には何も起こっていないのかもしれない。そんな不安が胸を刺す。
ろくに光も防げない安物のカーテンを貫いて入ってくる日光に、起きたばかりの目を思いきり突かれる。壁が薄いから、外から聞こえる鳥のさえずりだって鼓膜を穿つようだ。
 人に会うのが恐い。もしも何一つ変わっていなかったら、僕はどうすればいいんだ。
 夢で起こった出来事は全て記憶に焼き付いているけれど、あの激戦の痛みは欠片だって覚えていない。ただし妙に疲れた感じがあって、眠っていた気がしなかったりするくらいの害はある。
 いきなり狭間さんに声を掛ける勇気は、さすがに持ち合わせていない。ちなみにその本人だけど……うわっ、ゲームやってる。壁に耳を寄せると、ボタンを押す音が聞こえた。
 一方、その反対の部屋。
「フンッ……フンッ……」
 変わってない。何一つ変わっていない。もうヤダなんなのコレ。
 あの熱い戦いは? 感動の別れは?
 やっぱり僕の願望が見せた、都合の良い夢だったんだ。ですよね。人生そんなに上手く転ばないですよね。
 すっかり落ち込む。それでもお腹は減るので、冷蔵庫からラップに包んだゴハンを取り出して、レンジに突っ込んだ。失敗した固い米の残りだ。一気に炊いておこうと思ったのが運の尽きで、あと三食分は残っている。
 ……いや、待てよ。お粥にすれば良いじゃないか。
 やっぱり中華鍋にゴハンと水を入れた。
 で、塩を入れ過ぎて泣いた。そんな朝でした。

 午前八時、僕は暴れ狂う心臓を押さえながら、あの夢が真実か否かを確かめるべく行動を開始した。どう考えても魔の二階の人達に尋ねて確かめるのは、得策じゃない。となれば標的はただ一人、我が師にして友、遥さんだ。
 すり足で廊下や階段を移動し、一〇三号室の戸を叩く。
「すいませーん」
 ……反応がない。まだ寝ているのかな。
「遥さーん?」
 ガチャリ。
戸が開いた――隣の。
「あ、加賀美さん。おはようございます」
 サラサラ髪のポニーテール、三竹彩那さんだ。
「おはよう、彩那さん」
 あの夢の時間が濃かったせいか、なんだか久しぶりな気がする。
 そして、会って早々残酷な真実を突き付けられた。
「遥さんなら、もう出かけたみたいですよ」
 なんでですか! って、バイトですよね。なんでこんな朝早くからバイトなんですか!
 というか、あの夢が真実だったとしたら、遥さんはタフ過ぎですよ。僕なんか、こんなにも体がダルいというのに……あ、僕だけ無駄に痛めつけられた所為もあるか。
「彩那さんもお出かけ?」
「お出かけというか、ランニングです」
 そういえば彩那さんは音楽学部だっけ。肺活量とかのためなのかな。それとも健康のためとか、趣味だろうか。
 ん、音楽? 音楽か……。
 ちょっとばかり考えていると、彩那さんとは反対隣の戸も開いた。出て来るなり、にこやかな笑顔を見せる。
 えーっと、成績が残念なのに医学部志望で二浪中、おまけにお人好し。しかし働き者の工藤春…………也! 大家の仕事を押し付けられている工藤春也さんだ。危ないところだった。一〇一号室の人なら、確実に思い出せなかった。
「おはようございます、工藤さん」
 彩那さんと一緒に挨拶する。
「おはよう。二人とも早いね」
 工藤さんは猫みたいな人懐っこい顔で、微笑みを絶やさない。やはり魔の二階とは比べ物にならない爽やかさだ。
でも、よく見ると工藤さんの顔はやつれている。きっと徹夜で勉強していたんだろうな。
「工藤さんもお出かけっすか?」
「うん、予備校にね。今日も頑張るぞ!」
 一人でグーを真上に突き出した。ええ、頑張ってください、本当に。
 トートバッグを提げた工藤さんは、僕達の横を通りようとして足を止めた。
「――おっと、そう言えば加賀美くん」
「なんですか?」
「よく眠れているかい?」
「そりゃこっちの台詞ですよ」
 確かに今日は疲れが残っている……いや、寝ている間に生み出されたけれど、目の下に隈ばかりの工藤さんに言われたくないです。
「ははは。加賀美くん、心配しなくても僕は毎日一時間、ちゃんと睡眠を取ってるよ」
「圧倒的に足りてないじゃないですか!」
「そうかい? それより君の部屋なんだけど、屋根裏にネズミでも住みついているのかな、たまに音が鳴るんだよ。ちょっと調べたんだけど何もわからなくてね。もしもうるさいと感じたら遠慮なく言ってよ。本格的に調査してみるから」
「はあ。その時はお願いします」
 お願いしませんけどね。これ以上、工藤さんの負担を増やしたくない。むしろ、
「工藤さんも、手が足りなければ言ってください。掃除だろうと何だろうと手伝いますから」
「あ、私にもお手伝いさせてください」
 工藤さんは僕達の申し出にお礼を言うと、玄関へ歩いて行った。彩那さんもその後に続こうとする。
「それでは、私もこれで失礼しますね」
 深々と下げられた頭、その尻尾が愛らしく揺れる。
「ちょっと待って」
「はい?」
 顔を上げた彩那さんが首を傾げた。
「僕も一緒に行っちゃダメかな」
 彼女とも仲良くなりたい、というのは当然のこと。しかしこのお願いには、その他にもいくつか目的があった。

 朝日が踊る街の中、新鮮な空気を胸一杯に吸い込んで駆け抜ける。夢の世界では感じられなかった風を一身に受け、なんだかとっても気持ちが良い。全てが止まった夢世界と、生命に満ちたこの世界。どちらにも違った良さがある。
 今は、こちらの世界を満喫したい。
 先日訪れた老婆神の家とは別の方向に、僕と彩那さんはいた。こういう形での近所散策、これも目的の一つだ。あと運動不足解消っていうのもあるかな。
「コースは決まっているの?」
 走っていると声が物理的な意味で弾む。隣を走る彩那さんは、楽しそうに答える。
「はいっ」
 ただ走っていて、ただの質問でこの反応……なるほど。初めて会った時、遥さんが一緒に居た理由が何となくわかった。遥さん、こういう箸が転がっただけで笑ってくれそうな人、好きそうだもんな。工藤さんの人相が良いという笑顔とはまた別種で、彩那さんも笑顔の多い人らしい。
 そのどちらでも良いから、狭間さんも少しは見習っていただければ……それはそれで気持ち悪いか。
「あっ、こんなところにファミレスがあるんだ」
 僕の実家近くにもあるチェーン店の看板を見つけた。
「僕、行った事ないんだよね」
 僕の家族はあまり外食をしなかった。外で食べるとしても、母さんの稼ぎが良かったために大抵はホテルのレストランとか、そうじゃなくても味で勝負している有名な飲食店。ファーストフードやコンビニの食べ物は、高校時代にお小遣いで食べたことがあるんだけど。
「実はちょっと憧れていたり」
「そうなんですか? 実は、私も……」
 ですよね。そうだろうと思っていました。僕の元家族は所詮、一般家庭の範囲内に留まるレベルの裕福。でも彩那さんはそれ以上の家の出だと、勝手に思っている。そんな人が何であんなアパートに居るのかは、それこそ彼女が言うように、色々? まあ僕の想像に過ぎないんですけどね。
 気になっても、家庭の事情には踏み込まないでおく。
 なんにせよ、僕と少しは似た部分があるように思う。
「加賀美さん。今度、一緒に来てみませんか?」
「でも遥さんは誘っても金銭的な理由で来ないだろうから、他の誰も誘わなければ二人きりになるよ?」
 そうすると問題がある。
 二人きりだなんて、まるでデ、デデ、デートみたいで僕が緊張する、だけじゃなくて、
「上手く注文できるかな」
 自信がない。
しかし、そんな心配は杞憂だった。
「大丈夫ですよ。そこ、工藤さんがバイトしている所なんです。お仕事の時間に合わせて行けば、きっと教えてくれますよ」
「あ、それなら安心だね。……ん? どうして工藤さんのバイト先を知っているの?」
「遥さんに街を案内してもらった時に、教えてもらいました」
 僕と彼女達が初めて会った日、あの日に案内をしてもらっていたそうな。遥さんにとって彩那さんは、僕と違って一目でお気に入りだっただろうから、それはもう楽しく歩き回っていたんだろう。まったくもって羨ましい。
 いつか、という社交辞令的で曖昧な約束を交わし、僕達は走り続ける。
 どこまで行っても様子の変わらない住宅地。そんな中で、ちょっとした違いを見つけるのが楽しい。例えばそこの庭にはリンゴの木があって、向こうは薔薇。あっちはアジサイ。ここの家は洋風だな、とか、ここは和風だな、とか。
 彩那さんは猫を見る度に足を止め、
「わぁ、可愛いですっ」
と言いながらキラキラした瞳を向け、近づいてみては逃げられて凹んだり。
そんな楽しいランニングはまだまだ続く。彼女曰く、もうすぐで折り返しらしい。
そこは、長く続いた住宅街の切れ目に見えた。
「公園?」
 正確には住宅地に囲まれているのだろうけれど、その広さから、大自然の中に足を踏み入れたような感じを受ける。
 新緑の葉が綺麗で、鳥の歌声が心地いい。
 マンション高田の隣に位置する児童公園「ラックス公園」とは格が違う。こんな所で幼児たちが鬼ごっこでもしようものなら、遭難者が出るかもしれない。
 この時間、人は結構いた。
 散歩のご老人。犬を連れた主婦。たぶん春休み中の子供たち。中には、遠くからピクニックに来たのかもしれない、シートを広げている家族もあった。
 僕達は木のベンチを見つけて、並んで腰掛ける。
「ここで休憩?」
「はい」
 乱れた息を整えながら、辺りの幸せそうな様子を見回した。いいな。僕もアパートの皆とか家族とかで、ああやって過ごしたい。
 遠くに橋が見える。川もあるのか。魚とか捕ってみたいと思ったり。
 その近くには、自動販売機と鉄網のゴミ箱。そうだな、ちょっと喉が渇いたかも。
「飲み物とか要る?」
 タオルで汗を拭いている彩那さんに問う。
「えっ……でも私、お金を持って来てないです」
「僕が持って来てるよ」
「貸して頂けるんですか? でもお金の貸し借りって……よくないと思います」
 彩那さん。そんなんで、よく高校生活を乗り切れたね。というか、
「ジュースの一本くらい奢るから。あと仮に貸したとしても、余程の事がなければ、この程度の額でトラブルにはならないから」
「そうなんですか? でも買ってもらうなんて、そんなの悪いですよ」
「遠慮なさらず。のど渇いたでしょ?」
「……じゃあ、後でお返しします」
 頑固だ。そんな彩那さんが僕に単独で買いに行かせてくれるはずもなかった。
 清涼飲料水が入ったペットボトルを手に、再びベンチへ。
 僕は、彩那さんに付いて来た最後の理由を切り出した。
「彩那さんは音楽に詳しいんだよね」
 ちょっと聞きたい事があったんだ。別にいつだって、どこだって構わない話題だから、このためだけに付いて来たわけじゃないんだけど。
「そうですね。一応お勉強していますから、少しは知識があると思いますよ。ただ、最近の流行歌にはちょっと疎いですけど」
 いや、充分に心強い。
「じゃあ聞きたいんだけど……陽だまりと花の歌って、知ってる?」
 そう、僕が知りたいのはフローラが歌った、あの歌についてだ。夢で初めて聞いた歌が現実でも存在するなら、あの夢は真実の可能性が高い。でも、遥さんに訊けばわかる夢の真偽はこの際、あまり重要じゃない。
 大切なのは、あの歌をフローラが歌ったという事だ。遥さんも正体を探ろうとしていたけれど、僕だって知りたい。決して怪しんでいるのではなく、一人の友人としてフローラがどんな人物なのか、知りたいだけだ。会えるなら現実でだって会ってみたいし。
あの歌は僕にとって、フローラに繋がる唯一の手掛かり。だから彩那さんの力を借りたい。
「陽だまりと花、ですか……」
 彩那さんは顎に手をやり、考え込む。
「あの、他になにか特徴はありますか?」
 僕はそれが最近のポップス調ではない事を伝え、大雑把に歌詞を要約して話した。
「えーっと……多分どこかで聴いたことがあると思うんですけど……」
「えっ、ホントに?」
 さすがエリート音大生。
「でも、ごめんなさい。なかなか思い出せないんです」
 ……やっぱり無理か。そりゃそうだ。いくら音楽に詳しくたって、世の中の全部の曲を知っているわけじゃないし。知っていても数が膨大すぎて、思い出せない事だってある。
「加賀美さん。もしかしてその歌、歌えますか?」
 あれだけ詳細を語ったんだから、それは勿論。
「歌えるんじゃないかな」
 一度しか聴いていないから朧な所もあるかもだけど、基本的には覚えているはず。
「歌ってみてもらえませんか? 実際に聴けば思い出せるかもしれません」
 ちょっ……ええっ? そんな、彩那さんの前で歌うなんて……。
「……加賀美さん?」
 うっわ。何だろ、この胸の高鳴りは。
 音痴と言われた事はないにしても、上手いレベルには達していない。人様に、それも音大生に聴かせるなんて……は、恥ずかしいじゃないですか! そんな、そんなの――、
「僕にはできないッ!」
「ええっ? どうしてですか?」
 お察し下さい。
 僕はベンチの背に顔を埋める。板が擦れて顔が痛い。
「あの、加賀美さん?」
「だって僕ヘタだもん! 絶対に笑われるもん!」
 嫌われたくないんですよ。
 彩那さんが慌てる。
「どんなメロディか聴くだけですから。笑いません。大丈夫ですよ」
 まぁ、彩那さんがそう言うのなら、そうなんでしょう。でも不安はそれだけじゃない。
「……彩那さんの音感とか崩れない? センスが外れたりしない?」
「それも大丈夫です。心配はいりませんよ」
 うーむ……それなら勇気を出して、歌おうかな。
「じゃあ、失礼して」
 ベンチから立ち上がり、彩那さんに向かい合う。濁りのない瞳が僕を見つめている。
「んっんん! あーあー。んっんん! あー、あー」
 おおお、手に汗握る。そんなにジッと見られていたら余計に緊張するなぁ。
「ラー、ラー。ラララ~ッ」
 よしっ、喉の調子は良い感じだ。では、僭越ながら……。
 夢に見たフローラを思い浮かべて旋律を紡ぐ。
「…………」
 彩那さんは綺麗で長いまつ毛の目を閉じ、頭を揺らす。静かに聞き入りながら、まるで指揮するみたいに拍子を刻んでくれている。
 これなら、あまり緊張せずに歌えそうだ。
 明るく弾む、優しく楽しいメロディと、誰かの想いが詰まった歌詞を噛み締め、自然に囲まれた、この場所で歌う。
 珍しそうに僕を見る人もいる。だけど気にしない。そんな事でこの歌が淀むのは、嫌だったから。
 あの時のフローラとのやり取りが、頭の中で泡のように現れては消える。これは余計な事ではなく、歌の魅力を加速させるものだ。
 いつまでも歌っていたい――。
 渋っていたのが嘘のように口が機嫌よく動いた。自分自身の歌に耳を傾け、心を躍らせる。
 しかし楽しい時は速く過ぎるものだ。加えて、この歌そのものが長くはない。
 最後の音を伸ばし切り、名残惜しくも歌い終える。それが少しだけ寂しかった。
「…………」
 パチ、パチ、パチと拍手がなる。目を瞑ったままの彩那さんからも、いつの間にか周りで聴いていたご老人方からも。
 いや、そんな照れるじゃないですか。
「良い歌だったわねぇ」
「ええもん聞かせてもろたわい」
 口々に感想を言うと、ご老人方は僕に握手を求めてきた。手を触れ合わせると、みんなはホクホクした笑顔で去って行く。
 最後のおじいさんは、
「そちらの可愛らしいお嬢さんは彼女さんかい? 大事にしなさいよ」
 などと言っていた。何を言っているんだ、この人は。
「いえ、これから友達になる人です」
 まあ、こんな答えが妥当かな。
 ご老人方が散らばると同時、僕は彩那さんの方を向く。まだ彼女は目を瞑っていた。
「……あの、どうだった?」
「ちょっと待ってください。これは、確か……」
 ぶつぶつと何やら反芻している。なにを手間取っているんだろう。
 僕は待ち切れずに質問する。
「ご老人方には割と好評だったんだけど、もしかして結構いいセンいってる? 僕の歌」
 すると、彩那さんはズルッと、まるで芸人みたいな反応を見せた。
「あの、別に歌唱力の評価をしているわけじゃ……」
 ……ハッ、しまった。
ご老人方に持ち上げられて、つい本来の目的を見失っていた。
「ですよね。彩那さんから見れば、上手いも下手もないレベルですよね……」
「いえっ、そんな。感情が籠っていて素敵でしたよ」
 褒められた。へへっ、音大生に歌を褒められるなんて、照れるな。そうか、僕って実は歌が上手かったのか。
「それより、その歌なんですけど」
 彩那さんが本題に入る。僕は唾を、口にした飲み物と一緒に飲み込んだ。
「古海晶子さんの『あいの陽だまり』だと思います」
 あ、思い出したんだ。すごいな。だけどその人も曲も知らない名前で、どう反応したら良いのかわからない。
「それ、いつの歌?」
「……たぶん三〇年くらい前でしょうか」
 多分、か。正確な年数がわからないってことは、あまり有名な歌じゃないのかな。フローラまで辿り着くためには遠い情報だけれど、この歌が実在することがわかっただけでも大変な進歩だ。
「本当にどうもありがとう、彩那さん」
「いえ、お役に立てたなら嬉しいです」
 お互いに頭を下げ合う。
 ところで、と彩那さん。
「どうして、この歌を知っているんですか?」
 彩那さんが知る限り、おそらくCDを探しても見つからない、とのこと。原曲が残っていないどころかカバーすらされていないはずで、そもそも何らかの場で発表された曲じゃないらしい。彩那さんが知っているのは勉強の成果などではなく偶然で、親と古海晶子さんが知り合いだったからなのだという。それで小さいころ、晶子さんから教わった曲を母親が子守唄として歌ってくれたことがあるだけ、だそうだ。
 ちなみに古海晶子さんは元歌手で、これ以外に作った曲はない、かもしれないとか。
 それにしても、どうして知っているのか――か。こういうのって話しても良いのかな。というか、信じてもらえるんだろうか。
 僕としては隠したい事ではないし、隠す理由もないけど……。
「どうしても聞きたい?」
「えっと……はい」
「聞いても笑わない? 引かない?」
 我ながらくどい。
「はい、多分」
「言っておくけど、僕は正気なんだからね!」
「はあ……」
 というわけで、何もかもを包み隠さず話した。彩那さんは適度に、そして丁寧に相槌を打っては、時に驚いたり笑ったり。また、話の流れを崩さない程度に質問を挟んだり。すごく聞き上手で、特に話が得意ではない僕でも、上手に説明できたと思う。
 話が終わった頃には、日も結構な高さまで昇っていて――彩那さんはぷくっと頬を膨らませていた。
「……私もそこに行きたかったです。遥さんは誘ったのに、どうして私は誘ってくれなかったんですか?」
「いや、彩那さんとは特別な事をしなくても仲良くなれるかな、と」
 現にこうして会話が弾んでいるし。
「……というか、この話、信じるの?」
 こんなのをホイホイ信じるなんて、彩那さんの身が心配になる。この人、一人暮らしをしても大丈夫なのか? 詐欺とかに引っ掛からないだろうか。
 と思っていたら、彼女なりに根拠はあったらしい。
「さっきは加賀美さん、とても優しい心で歌っていました。それがフローラちゃんへの気持ちだったんですよね」
「まぁ、そうだけど」
その言い方は変な誤解が生まれそうだから止めて欲しい。相手は幼女ですよ。まるで僕がロリコンみたいじゃないですか。
「歌に籠められた気持ちは伝わります。だから、私は加賀美さんの話を信じます」
 これが彩那さんの理論らしい。
「いや、でもね、すっごく痛いんだよ。そしてすっごく危ないんだよ。僕なんて何回も泣く思いをしたし」
 実際に泣いたけど。
「挙句、脳死しそうになったんだから!」
 本当に危なかった。今回みんなで無事に帰還できたのは一握りの運と、そして確かな実力があったからに他ならない。それはメンバーを見返してみればわかる。
 パーフェクトで金色の髪を持つ狭間さん。欠点がない人。魔女にやられていたのは演技だったのだから、最後の爆発を除けば、もっとも危な気なく余裕で生還した人だ。
 ケツアゴリラの銀島さん。暴走族らしくケンカ慣れもしていて、肉体の強靭さだけなら狭間さんをも上回る……かもしれない人。僕のアレを除けば唯一回復待ちになった人だけど、とにかくタフだった。
 ピンクうんこ、佐熊さん。女性の細身でありながら男女の体格差など物ともせず、かの銀島さんと、いつも戦っている勇ましい人。相手が雑魚ばかりだったとは言え、受けたダメージはたぶん狭間さんよりも少ない。
 そして我が師であらせられる遥さん。運動能力は勿論のこと、意外に頭脳の面でも優れている多彩な人。勘も良くて逞しい。
 あと僕。完全に運で生還しました。神様ありがとう!
 こんな感じですよ。
 あんな激戦に彩那さんのような普通のか弱い女の子が混じってみなさい。もうね、一瞬で終了ですよ。
「とにかく、危ないの」
 子供に言い聞かせるみたいに説得を試みるが、膨らんでいる頬は潰れない。拗ねた顔で僕を見ている。
「でも、次も行くんですよね」
「そりゃ、まだ皆と仲良くなってないし、フローラとも約束したし」
 あと危険だけど楽しいし。
「フローラちゃんが、次はもっと安全に気を配るって言ったんですよね?」
「いや、そうだけども」
 でも未知の世界である事に変わりはない。フローラは信頼しているけれど、また予期せぬ事故が起こる可能性も、客観的に見れば否定できない。
「私も皆さんと遊びたいです。フローラちゃんに会いたいです」
 伏し目がちに呟く。
「わがまま言ってごめんなさい。でも私、両親が過保護で、自分の好きな事とはいえ音楽ばかりやってきて……お友達と遊んだことが、ほとんどないんです」
 うぅ……そんな事を言われたら、断るなんて――、
「お願いします。私も誘ってください!」
 できる訳ないじゃないですかぁ!
「……わかったよ」
 僕が渋々承諾すると、彩那さんは寂しそうな顔から一転、満開の笑顔を咲かせた。
「わぁっ、ホントですか? 嬉しいですっ」
 でも連れて行くのなら、僕にはフローラと同じだけの責任が生まれる。あれだけ自分の責任を重く感じていたフローラの手前、適当なことはできない。僕には彩那さんを護る義務が生まれる。だからタダでは連れて行けない。
「ただし条件つきで」
「はいっ、なんですか?」
「まず、安全じゃない遊びの時は誘わない」
 これは当然。彩那さんも不満はありそうだったが、頷いてくれた。
「次に、危なくなったら帰ること。いい?」
「はい」
 ……なんか、大抵の事なら頷いてくれそうだ。とりあえず思い付いた条件はこれくらいだけど、うん、ちょっと遊んでみよう。
「嫌いなものも残さず食べること」
 うんうん、と熱心に頷く。
「おやつは三百円まで」
 また頷く。彩那さん、向こうには一円分だろうと持って行けませんよ。
 こうして、しばらく彩那さんで遊んだ。遊んでいたらつい調子に乗ってしまい、色々と変な条件に承諾させていた。それとジュースのお金を返さないで僕が奢った事にする、というのにも、歌の件で協力してくれたお礼だからと理由をつけて、承諾させた。
 まぁ、お礼をしたかったのは事実。
 すっかり話に夢中になっていて、アパートに戻る頃には昼を過ぎていた。
「調子こいて長引かせて、どうもすみませんでした」
 別れ際に、最近やけに慣れてきた土下座は忘れていない。
 この後はどうしようか。……昼ごはんを食べてから考えよう。
 僕は部屋に戻り、適当にお昼ご飯を作って食べた。ちょっと味が濃いけど、これくらいなら許容範囲かな。

 あんな経験をした後でも、日常は日常。特に夢の出来事というのは、現実に大きな影響を与えない。精々見た人の気持ちが左右されるくらいで、太陽が西から昇るわけでもなければ法律が変わるわけでもない。寝る前の日と驚くほど変わっていないわけだ。
 確かに僕は夢の中で戦った。色んな思いもして、色々と考えもした。
 だけどそれがどうした。実際にこの世界に何かがあったわけじゃない。だから心を揺さぶられながらも、極普通の生活をする。
 午後――僕は大学の資料と睨めっこ中。手続きもあるし、日程の確認もしておかなければならない。
 来週にはもう、未知のキャンパスライフが始まっているんだ。
 一通り終えると、表面がツヤツヤしている中古のコタツに紙の束を置いた。その横には、別の紙が何枚か。僕の部屋には大金を要するハイテクな設備などないので、さっきインターネットカフェなる所までわざわざ出向いて仕入れた情報のメモだ。印刷する方法がわからなかったし、それ以前にインターネットカフェで印刷できるのかどうかも僕にはわからなかったから、雑な手書きで記してある。
 内容は大学関係、この街の様子や周辺の店の分布、料理の基本やレシピ数種。それから古海晶子という人物と、「あいの陽だまり」について。
 最後の二つについては、インターネットという人類の最終兵器を以ってしても、あまり情報は得られなかった。検索に掛けても引っ掛かるサイトは数件。実際に関係のある記事だともっと少ない。
 それでも一つだけ新たな、且つ有力な情報を手に入れた。それは、古海晶子さんは海外生活が長く、しかしこの街に縁があるらしい、ということ。
ドンドンドン! 急にノック音が鳴った。
「加賀美、出て来い!」
この声は狭間さんだ。突然にして予想外の来訪者に、僕の心臓が跳ね上がる。どうしよう。まだ夢が本当だったという絶対的な根拠はないから、話す心構えなんて整っていない。
 でも、応じるしかないか。無視するわけにもいかないし、もしかしたら僕と話してくれるっていう約束を守りに来たのかもしれないし。
 急いで戸を開ける。
「こんにちは」
「…………」
 なんだ? このかつてない殺意は。夢の最後の笑顔っぽいものは、やはり見間違いだったのだろうか。睨まれているだけで息苦しい。
「ど、どうしたんですか?」
 僕の問いには答えず、狭間さんは銀島さんと佐熊さんも乱暴に呼び寄せた。あの夢以来、初めての再会だ。だけど皆の様子に大きな変化はなく、僕は焦りを感じていた。そんな中で、少しだけ場所を移す。二階の御手洗いだ。
 何事かと思っていると、狭間さんの口から怒りに震えた声が漏れる。
「この中にトイレットペーパーを無駄遣いしたクソ野郎と、補充しなかったクズ野郎がいる。あるいは同一人物かもしれんが」
 ………………。
「テメェ、なに言ってんだ?」
「一昨日までは予備まであったはずだが、見ろ、紙が切れている」
「まさかオメェ、今……」
「そんなわけあるか、死ね。使う前に気づいた」
 狭間さんはもの凄いイライラ顔でいらっしゃる。
「さて、問題はどいつが補充しなかったか、だが」
「オレじゃねぇぜ、動機がないからな」
「故意でやったなら生かしておかねぇよ。お前の場合はケツがアゴにもある分、余計に紙を使うだろう。可能性は充分ある」
「トイレでアゴは拭かねぇよ!」
「ピンクうんこは同様に、頭のクソを拭くだろう」
「ぶっ殺すぞテメェ!」
「そして加賀美。お前が来る前は、こんな事は起きなかった」
 …………。
「待てやテメェ! テメェの可能性だって、あるだろうがよ!」
「バカかお前は。俺ならば補充して終了。お前達を呼ぶ必要などない」
「テメェが二連続で使って、一回目に忘れてたかもしれねぇだろうが!」
 二階トイレの前に険悪な雰囲気が漂う。暗雲が立ち込め、睨みと睨みの間に稲妻が走っている。これは僕がなんとかしなければ。
「待って下さい」
 声を上げると、稲妻が一斉に僕へ向かって来た。怖いっす、皆さん。
ええい、怯むな。自信を持って、高らかに告げるんだ。
「外部の犯行ってことも考えられますよ」
 …………どうだ?
「コイツだな」
「ああ、コイツだ」
「間違いねぇな」
 ええっ?
「なんでですか! どうしてこの一言で断定されるんですか!」
「クソ真面目に言うとだな。アパート以外の者の不法侵入なら、わざわざ階段など上らずに一階の方を使用するだろう。前提からしてあり得ないが」
 ……むう。
「一階の奴らは一階を使う。二階を使う意味がわからん」
「ストップです。一階が使用中だったら、一階の人でもこっちを使いますよ」
「そうだな。だが紙を使いきって放置する奴が一階にいるか?」
 いませんね。
「でも僕だと決定づけるには――」
「この状況で安易に外部へ目を向けさせるのは、疑われたくない内部の犯人だけだ」
 …………。
「まだお前は答えていなかったな。改めて聞こう。紙を補充しなかったのはお前か?」
 ……嘘をついたら嫌われるんだ。だったら本当の事を言ってやろうじゃないか。
「見事な推理です、狭間さん。そうです。たぶん僕が補充し忘れた真犯人です。しかも一昨日の晩、予備を一個まるごともらって行きました。でもですね、ティッシュがなくて鼻水が止まらなかったんですよ。今日だって使いきったけど予備の場所がわからなくて、そのあと忘れていただけで、決してわざとじゃ――」
 それから後のことは、よく覚えていない。ただ、全身が痛かったんです。
「どうやらあの夢は本物だったみたいだな。なぁ、狭間」
「なんの話だ?」
「とぼけんじゃねぇ。昨日までのテメェなら、わざわざオレ達を呼びつけねぇだろ」
「ああ、いつもなら糾弾するよりも、ウチらと関わる方を避けるな」
「ま、オレもテメェらも、少しは変わったってことだ。この明日志のお陰でな」
「お前と一緒にするな。俺は何も変わっていない」
「野郎は意地ばっか張りやがるな」
「強靭な意志を貫くのも漢だが、それをねじ曲げるのも漢だぞ、狭間よ」
「うるせぇ。全員死ね」

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