愛と平和のドリーマー

白結 陽

天使たちもいる町

「ぶぇっくしょい!」
 白み始める紺碧の空。
 引っ越しから一夜明け、僕は早朝、畳の上で歯を震わせていた。甘く見ていて、本当に申し訳ないと思っています、ええ。春の夜は少しくらい涼しいかも、くらいの覚悟は一応あったんですけどね、まさか風の不法侵入がここまで激しいとは思わなんだ。
 やや風邪を引いたのか、持っていたポケットティッシュを使いきってしまい、御手洗いからトイレットペーパーをちこっと拝借したのはナ・イ・ショ。
 今日は荷物を受け取る日だけど、任務はそれだけにあらず。昨日は結局、二階の方々にしか挨拶できなかったから、残りを済ませなければ。荷物が届けば配置などの作業があるし、挨拶は早めに行った方がいい。
しかし時間が早過ぎたら迷惑だし、少し遅れれば仕事やバイトに行かれるかもしれない。絶妙のタイミングを狙う必要がある。
 出かけているなら後で行けば良い、それはわかっている。でも可能ならば一度に済ませたいとい思うのが人の心。あの急な階段を行き来するのは面倒だし。
 それに源田さんへの正式な挨拶もまだだし、銀島さんと佐熊さんへの謝罪もまだだ。
 ……あれ、まだ一件しか達成してなくない?
 まぁいいや。気を取り直して、今日も平和を目指して、幸福を探して頑張ろう。っと、まだ時間が早いからコンビニあたりで朝食の入手が先だ。昨日は夕飯を食べていないから、お腹が盛大に鳴っている。
 財布をポケットに突っ込み、音を立てない様に行動する。
 一夜を過ごしてみて分かったけど、壁なんてあって無いようなものだ。深夜なんか息遣いすら聞こえそうだったし。ぐっすり眠っていたから良くは覚えていないけれど、話声なんて耳元で囁かれているかの様だった。
 だから……なんか、隣からボタンを叩く音が聞こえる。狭間さん、早起きっすね。それとも寝ていないとか?
 あの人はヘッドフォンを付けているみたいだから音に迷惑することも気遣う必要もあまり無さそうで、関わらなければ何一つとして害のなさそうな人だ。言われた通り、関わらないでおこう。
 ……いや、ちょっと待て。それで良いのか?
僕の中で何かが弾ける。
 争いがなければ、それで平和と言えるのか? 幸せなのか?
 世界中の人間が狭間さんみたいになったと想像したら……人々は挨拶すらしなくなり部屋にこもって画面に張り付く……確かに争いはないけれど、なんて冷えきった世界なんだろう。温かさが微塵もない、荒んだ世界だ。
 それって幸せなのか?
 否! 断じて否! ほとばしる程に否!
 そんな世界には何かが足りない。なんて言うか、温かくて、人にとって何より大切な……そう、愛が足りない!
 どうやら度々ケンカしているらしい銀島さんと佐熊さんには平穏が、一人で籠りっきりの狭間さんには愛が必要なんだ。
 加賀美家の崩壊は止められなかった僕だけど、やってやりますよ。いつか家族の亀裂を塞ぐためにも、誰もが幸せになるためにも。手始めに、このアパートから理想郷を築いてみせようじゃないですか。
 あんな人達だ、最初は拒絶されるかもしれない。だけど、臆しちゃダメだ。革命を起こすために必要なのは勇気と希望だ。
 争いを止める勇気を!
 皆を幸福にする愛を!
 くじけそうになっても追い続ける希望という名の光を!
 僕は持たなければならない!
 そうと決まれば景気づけに一発、隣の壁に向かって挨拶だ。昨日はノックに反応してくれたし、そう大きな音量で聞いているのではないはず。ヘッドフォンを貫く声で、元気にいってみよう!
「おざまっす狭間さん!」
「うるせぇ死ね」
 ……ま、まぁ初めはこんなものさ。むしろ返事があったんだから上出来だよ。罵声だろうとコミュニケーションには変わりないんだから。
 畳の上で小さくガッツポーズをしていると、反対の壁の向こうから人が動く気配を感じた。
「おざまっす銀島さん!」
「テメェ、こんな朝っぱらから騒いでんじゃねェ! 起きちまっただろうが!」
 ドンッ! と鈍い音。
 おおお、無言じゃないけど、これが噂に聞く壁ドンってやつなのか。ずっと一軒家に住んでいたから、実際にいただくのは初めてだ。
 大きな女性の声がもう一つ続いた。
「ゴリラ、テメェうるせぇんだよ!」
 佐熊さんだ。
「ああん? オレじゃねェ。騒いでんのは隣のガキだ、ピンクうんこ。勘違いすんな」
「テメェも騒いでるだろうがよ!」
 えーと……あ、朝から元気で、うん、いいんじゃないかな。元気が一番だよ。
「髭を剃れゴリラ、目に毒だ」
「漢の証明書をなくせるか。テメェこそ、頭にうんこを乗せるのを止めやがれ、目に猛毒だ」
 でも理想実現への道のりは前途多難だね。価値あるものを手に入れるのは、そう簡単じゃないってことか。焦らずに頑張ろう。
「表に出ろクソヤロォ!」
「上等だ。掛かって来いやクソアマァ!」
 ドアが二つ、蹴破られる音が聞こえた。そして罵詈雑言の応酬。
 きのう叩きこまれた鉄拳がフラッシュバックし、僕の身はすくんだ。まだ身体が痛むから今回は止めにいかない。勇敢と無謀は別物だ。ここで命を落とせば夢を実現できなくなるし、争いの鎮圧は残念だけど見送ろう。
 コンビニにはもうちょっと後で行くことにした。

 はた迷惑な騒音をBGMに、それを生み出している二人への謝罪文をしたためた。なんだか凄く奇妙な図だった。
 銀島さん達が静かになった頃を見計らっての出かけぎわ、それを投函。
 僕は晴れやかな気分で出歩く。今日も良い天気だ。程良い気温と湿度で、過ごしやすい。
古きも新しきも、その中間の民家も入り混じる住宅街が、僅かに黄金を帯びた朝日に照らし出されている。街路樹が春風に吹かれて揺れ、枝葉が爽やかに歌っている。
 味気ないコンクリのブロック塀ですら、なんだか風情があるように見えた。
 うん、今日は良い一日になりそう……なのは、いいんだけど。越して来たばかりでコンビニの場所を知らないことに、いま気付いた。
 でも心配はいらない。ちょうど隣の児童公園から、小さい犬を連れた眼鏡のおばあさんが出て来たところだ。散歩の最中、もしくは帰るところだろう。
犬の種類はポメラニアンかな。あんまり動物には詳しくないけど、テレビで何度か目にした事があるから、なんとなく覚えている。
「おはようございます」
 おばあさんと上機嫌なわんこに近付き、軽く頭を下げた。どちらも柔らかい表情をしていて性格の良さが滲み出ている。ご老人と犬、昨日も見た組み合わせだけど、格が違うな。チヨはともかく、源田さんでは勝負にならない。
「はい、おはようございます」
 やっぱり人当たりが良い。もっとも、あのアパート関連の人がおかしいだけで、このおばあさんは普通なんだけど。
「道をお伺いしたいのですが、お時間はよろしいでしょうか」
「あらあら、そんなに畏まらなくても良いのよ。それで、どこに行きたいの?」
 いい老婆だ。
「コンビニに行きたいんですけど、近くにありません?」
「そうね……ちょうど私の帰り道にあるところが一番近いと思うわ。お急ぎでなければ案内するけど、こんな年寄りと一緒じゃ嫌かしら?」
 ますます良い老婆だ。源田さんは見習うべきだと思う。
「いえいえ、とてもありがたいですよ。ぜひお願いします」
 僕はおばあさんの隣に並び、歩き始める。方向は公園から見てアパートの逆。二車線の側面に走る歩道に人通りはまだ少なく、十字路の先にサラリーマンが一人、もう一つ先に犬を連れた人とジョギングに勤しんでいる人が見えた。
 独り暮らしだし、コンビニにはお世話になるだろうから道は一回で覚えるように頑張ろう。
 まずは最初の十字路を、公園に沿う形で右折する。車線が一つになり、歩道が消えた。
左手には一階建ての古風な広い家が、幅を利かせている。昔からのお金持ちが住んでいるのか、塀の隙間から覗き見える庭は日本庭園っぽく、格式のある感じ。万が一にも野球のボールとかが飛び込んでしまい、何かを壊してしまったなら、経済的なダメージが恐ろしそうだ。僕の財布なんかは一瞬にして蒸発するだろう。大学生にもなって児童公園で野球するなんてことはないだろうけれど、一応気をつけておこう。
 次の交差点を直進すると、両側にアパートが立ち並んでいる。その中に落ち着いた雰囲気の小さな喫茶店があった。木造建築に見える割と新しい建物で、まだ朝早いのに開店していて客もいる。
 看板によると朝六時から営業か。バイトを始めたりして、お金に余裕ができたら、たまに朝食をいただくのも悪くないかもしれない。
 目的地までの道中は、昨日マンション高田に越して来たことや、今年から大学生になることを話したり、他愛のない会話をおばあさんと交わした。
「それで、ここを左折すると見えるでしょ?」
 曲がると車線が二つに戻り、向こう岸の先に見慣れた看板が立っている。曲がり角の近くにはガードレールの切れ目に横断歩道があり、歩行者用の信号は押しボタン式だ。
「あ、近いですね。わざわざ案内してくれて、どうもありがとうございました」
「どういたしまして。ところで、こんな時間にコンビニなんて、どんな御用なの?」
「朝食を仕入れに行こうかと。まだ冷蔵庫も調理器具もないのは勿論、食材も米粒一つありませんから」
 僕はありのままを説明した。すると、予想外の提案が返って来た。
「まぁ、そうだったの。でもコンビニのお弁当って保存料とかが入っていて、あまり体に良くないんじゃない? 私も朝食はこれからだし、よければ一緒にどうかしら。ご馳走するわよ」
 女神は女の神だから女神なのだ。てことは、このおばあさんは老婆の神、つまり老婆神ということになる。老婆心に似ていながら、それとは違って本当に神の恵みを与えてくださることを意味している。我ながら、この老婆神に適した素晴らしいネーミングだと思う。
心の中で、そう呼ばせていただきます。
なんて感動の嵐は吹き荒れているけれど、ここで甘えるのは流石に厚かましい。初対面だし早朝だし。
 小銭ばかりが踊る僕の財布は口を固く閉じて誘惑に乗ろうと抗議しているけれど、
「そこまでお世話になれませんよ。ご家族にも迷惑が掛かるでしょう?」
 涙を呑んで辞退する。
 しかし神の名は伊達ではない。
「遠慮ならしなくて良いのよ。主人を早くに亡くしたものだから今は独り暮らしで。娘夫婦や孫は頻繁に遊びに来てくれるけど、朝は一人きりだもの、ご一緒してくれると嬉しいわ」
 眩い笑顔の老婆神。その足元で仔犬がワン、と吠える。
「あら、そうね。二人だったわね」
 絵に描いた様な美しい光景だ。僕の老後も、こう在りたいと思わせる程に。源田さんのような淀んだ心を持っていては辿り着けない、まさしく神の領域だ。
 僕が迷っていると、追い打ちが飛んでくる。
「無理にとは言わないけれど、もしも嫌じゃないなら、老人のわがままには付き合って欲しいわ。遠慮されたら寂しいものよ」
 ろ、老婆神……っ!
 結局、僕はお言葉に甘えることにした。コンビニから徒歩三分、この小さいながらも綺麗なレンガ調の一軒家が老婆神の住まう家らしい。純白の柵や門、手入れされた緑の庭は、僕の実家にも劣らない優雅さを纏っている。
 表札には吉野と書いてある。
「何もないところだけど、どうぞ上がって」
 ホコリ一つ見当たらない玄関に上がると、老婆神はスリッパを出してくれた。僕が履き替える間にわんこの足を綺麗にしている。
 わんこは利口で、一連の手入れをおとなしく受け入れていた。
 フローリングの廊下を老婆神に続いて歩く。わんこは僕の足の周りをグルグル回って、歓迎してくれているらしい動きを見せている。
 上り階段や数枚の木製の扉を横目に進み、老婆神が正面の戸を開ける。他とは違ってガラスが付いたそれは、居間と廊下を繋ぐ扉だった。白いレースのカーテンを通って入る陽の光が神聖なほど明るく、部屋全体を照らしている。
 実家と近い匂いがする。物理的な意味ではなく、雰囲気みたいな意味で。マンション高田と比較すると、なんだか心が洗われる様だ。
「ちょっと待っててね。すぐ用意するから」
 老婆神はキッチンに向かって行った。
 その場に残され、見つめ合う僕とわんこ。眼下にはふかふかな白いカーペットが鎮座している。「おいでなさい」と、まるで声が聞こえるかのようだ。
 僕は尻尾を振るわんこに微笑み、
「シャルウィダンス?」
 問う。
「オフコース、マイブラザー」
 つぶらな瞳はそう答えている、ような気がした。
 僕は高らかに歓声を上げ、カーペットに豪快な前回り受け身をかます。床が畳ならば高らかにターンッ、と鳴るはずの平手は、もふっと衝撃を吸収された。
 わんこはワンッと一鳴きしてから、横になった僕に飛び込んでくる。
 僕達は戯れた。湯気が立ち揺れる盆を、老婆神が運んで来るまで。
「お待たせ。あら、遊んでもらっていたの?」
 テーブルに皿を並べた後、老婆神は足元に寄って行ったわんこを撫でた。
「ありがとうね。この子、とっても喜んでいるわ」
「いえいえ。それに、おばあさん。遊ぶっていうのは、もらうものでも、あげるものでもないんですよ。対等でなければ成立しないんです。僕とジョニーは遊んだ、ただそれだけです」
「ジョニー?」
「その子の名前を知らないんで、適当にあだ名をつけました」
 犬と言えば人間の相棒。相棒と言えば名前はジョニーだ。
「この子はジョーよ」
「そっちだったか」
 惜しい。非常に惜しい。
「そうじゃなくて、譲るで『譲』。娘が付けた名前で、好きな植物のユズリ葉から取ったらしいわ」
 娘が付けた、か。一人で暮らすおばあさんにとっては大切な名前なんだろうな。今は唯一の同居人として、娘との絆を身近に感じる存在として、ジョーは老婆神の支えであるはずだ。
 その愛情は、しつけからも窺える。ここまで落ち着いた犬に育てるのは、愛情なくして出来る事じゃない。
「覚えておこう、我が友ジョーよ」
 ビッと親指を立てると、ジョーは高らかに鳴いて返事した。
 この件を経て、僕は今更ながら気付いた事がある。
「あの、唐突なんですけど、僕、名乗りましたっけ?」
 僕は表札を見たから、老婆神の苗字を知っている。だけど向こうは僕の名前を知らないだろう。お家に上がり込み、これから食事まで頂こうというのに、なんと無礼なことか。
「そう言えば、まだ伺ってなかったわね。話し易いから、初対面だって忘れていたわ」
それは僕も同じだ。なぜか昔から、ご老人方とは話が弾む。
「これは失礼しました。加賀美明日志です。どうぞよろしくお願いします」
「吉野千代です。こちらこそ、よろしくね」
 上品に皺が刻まれた笑顔を向け、老婆神は丁寧なお辞儀をくれた。
 さて、待ちに待った食事だ。
 ジョーの前にはペットフードが盛られた皿が置かれ、僕と老婆神は四人掛けのテーブルに向かい合って座る。卓上にはふっくらとしたツヤのある白米、豆腐とネギの間でワカメが踊る味噌汁、お漬物、鮮やかな黄色の出汁巻き卵が二つずつ乗っていた。漬け物以外はどれも湯気を放っている。
 そして、僕の前にだけ程良く焦げ目がついた焼き鮭があった。
「これ、おばあさんの分なんじゃ……」
 考えてみれば、僕は突然の来訪者。二人分の食事なんて用意してあったはずがない。
「いいのよ。若い子には、たくさん食べて貰わなくちゃ。鮭はこれっきりだけど他は用意してあげられるから、足りなければ言ってね」
 ……どこまで良い人なんだろう、この老婆神は。世界中の皆がこんな風なら、きっと誰もが穏やかで楽しい生活を送れるんだろうに。
 身近にこんなにも良いお手本がいる。ありがたい事だ。
「さ、食べましょう」
「はい。いただきます」
 手を合わせてから漆塗りらしき箸を取る。
まずは味噌汁からいただこう。お椀を左手で持ち、ぐっと一口、湯気と共に熱々の汁を口内に流し込む。柔らかな香りを鼻に、薄目の塩分と確かな旨味を舌に残し、熱が喉を通って体中に染み渡る。
ダシは昆布と鰹という基本的なものだけれど、そこらの味噌汁とは格が違う。少なくとも僕の父さんが作る、昆布と鰹と煮干しを水にぶちこんで適当にとるダシとでは、天と地よりも差がある。
雑味がなく、透き通った味わい。上澄みと味噌の濁りの比率すらも芸術的で、揺れる度に花が咲くみたいな神秘的な動きを見せる。
箸で豆腐を取り、口に運ぶと大豆の香り。僅かに力を掛けるだけで裂ける絹豆腐は舌触りがよく、良い豆腐を使っているのだろう、濃厚な風味を残す。
ワカメも硬すぎず、柔らか過ぎず、最高の歯ごたえ。
更にネギが加わることで、絶妙な調和を織り成している――。
「どうしたの? もしかして、お口に合わなかったかしら」
 動きが止まった僕を見て、老婆神が不安そうに尋ねる。
「いえ、違います。ただ、少し感動いたしまして」
 この味噌汁とどちらが濃いのだろう、塩分を含む透明の水滴が僕の眼から湧き、肌を伝う。
「荒れ狂う嵐の日もあったでしょう。凍えるほど寒い日もあったでしょう。暗い海で揺られ、それでも懸命に生きてきた海の幸が、温かな光を受けて豊壌の大地で育った大豆やネギと出会う。生まれや育ちが違う彼らでも理解し合い、互いの個性を高め合えたから、こうして一つの完成した味が出せる。このお椀の中に、僕の求めるストーリーがあるんですよ。僕達人間も、こうして生きて行けたなら――」
 続いてごはんに手を伸ばす。
 ふっくらした粒の一つ一つが真珠にも劣らない輝きを放ち、噛めばじんわり熱と甘みが吹き出す。食欲を誘う米の匂いは、口にすると味噌汁の余韻と程良く混ざる。
 次の品。今度は甘みが残る舌に、鮭の塩味が……。
「器の中で出会った彼らは、今度は僕の腹で更なる出会いを果たすんです。そこで生まれる幸福は、僕の空腹を満たす至上の幸福。まさに完全無欠。干渉し合ったからこそ成し得た幸せの物語です」
 食――一見すると生き延びるため、本能が促す行動でしかない。だけど、生きるだけなら料理を食べる必要はない。食材をそのまま食えばいい。
 誰もそうしないのは、幸せを求めているから。
 狭間さんだって同じだ。だからこそゲームとかに熱中しているのだろうし、何らかの料理を食べているはず。
 だけどあの人は知らない。色々な要素、人々が干渉し合って生み出される幸せを。
 やはり僕は間違っていない。あの人にはヒトの愛を教えるべきなんだ。孤独から救い出すべきなんだ。
 泣きながら激しく頷き、飯を次々と飯をかき込む僕を見て、老婆神は戸惑っていた。
 そりゃそうだ。
「取り乱してしまって、どうもすみません。ちょっと悩みがあったんですけど、この素晴らしい料理を食べた時に一縷の光明を見まして、つい興奮してしまったのですよ」
 とりあえずはマンション高田のみんなと仲良くなる。それは自分で決めた道だけれど迷いはあった。特に狭間さんに至っては、放っておいた方が良いんじゃないか、と。それは間違っていると考えたけど、実は心のどこかで臆していた。
 でも、もう迷わない。
 こんなのはお節介で、価値観の押し付けに過ぎない。何より、家族の仲を護れなかった僕の特殊な八つ当たりであり、悪い言い方をすれば、望みである家庭再生の実験でもある。自分勝手も過ぎる試みだ。それくらいは自分でも分かっている。しかし、最後に誰もが笑えていれば問題はないはず。
「悩みがあるなら相談に乗りましょうか?」
「いえ、それには及びません。これは僕の闘いですから。こうして道を示してもらっただけでも充分すぎる程です」
 心臓に快い風が吹き抜ける。まるで高原を駆け抜けるそよ風だ。
 ああ、僕は今、こんなにも清々しい気分になっている。老婆神が居てこそかもしれないけれど、ここは僕にとってのオアシスなのかもしれない。
「おばあさん。今日だけじゃなくて、また遊びに来ても良いですか?」
 自然と図々しい言葉が漏れる。
 老婆神は、嬉しそうに眼を細めた。
「ええ、もちろん。いつでも遠慮せずにいらっしゃい。待ってるわ」

 志を洗練させ、胸を張って帰宅する。まずは残りの挨拶からだ。手紙の投函で、二階は一応だけれど制覇したはずだから、お次は一階の方々だ。昨日のじゃじゃ馬さんと彩那さん、だったかな? がいるはず。二人とも悪い人じゃなさそうだったし、一階のもう一人も良い人らしいし、気後れする必要はなさそうだ。
 しかし慣れない事だから、やっぱり緊張はする。
 お菓子の袋を取り、いざ一階へ。
相変わらずボタンを押す音が鳴る狭間さんの部屋を通り過ぎて階段を下り、まずは一〇一号室の扉を叩く。
「はーい」
 戸はすぐに開けられた。
 出てきたのは、ベレー帽と丸眼鏡を身に付けた、太っているオジサン。たぶん僕の父(四二歳)と同じくらい、あるいは上だろうけど、丸々していて可愛らしい。なんかこう……ダルマみたいな。
「朝早くに失礼します。僕は昨日、二〇二号室に越して来た加賀美明日志という者でして、ご挨拶に参りました。何かとご迷惑をお掛けするかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」
「へえ、そうなんだ。ボクは巻山彦丸。よろしくね。ここの二階は色々と大変かもしれないけど、頑張って」
 おお、良い人だ。
「何か困った事があったら、一〇四号室の工藤クンを頼ると良いよ。ボクに相談してくれても構わないけど、ボクじゃ、あまり力にはなれないからね」
 一〇四号室の人は工藤さんというのか。しかし、すごく信頼されているな。さぞかし素晴らしいお方なのだろう。
「ふぁ……失礼。徹夜明けだから眠くて。手短で申し訳ないけど、挨拶はこれくらいにして眠らせてもらえるかな」
 巻山さんは口を手で多い、大きな欠伸をした。眼鏡の奥に涙が光る。
「あ、はい。……おっと、これ、挨拶の品です」
 巻山さんのぷっくりとした手に袋を握らせる。
「どうもありがとう」
「それじゃ、また。おやすみなさい」
「うん、またね」
 眼を半分以上も閉じ、何度も欠伸をしながら巻山さんは部屋に引っ込んだ。直後、
「死ねクソアマァ!」
「黙れケツアゴリラァ!」
 二階からとんでもない騒音が響いてきた。
 巻山さん、安眠できる事を祈りますよ。
 さて、次は僕の部屋の真下、一〇二号室だ。このアパートだと歩くだけでも下に音が響きそうだから、きちんと挨拶しないと。
「はい」
 例によってノックをすると、聞いたことのある声が返ってきた。一〇四号室は工藤さんだから、昨日の二人組が一〇二号室と一〇三号室のはずだ。一緒に暮らしていなければ。
 戸を開けたのは、おしとやかで髪の長い、可愛らしいお嬢さんだった。彩那、と呼ばれていた方だ。
 昨日は後ろで纏められていた髪が解放され、今はサラリと肩甲骨あたりを撫でている。液体のように滑らかで癖がない、綺麗な髪だ。
 しかしなんか、アレですな。女の子の部屋着姿って間近で見るとドキドキしますな。袖も裾も短い薄桃色の服が眩しい。遠くからだと眼福かもしれないけど、こう近くては毒ですよ。薬も過ぎれば毒ですよ。
「あ、昨日の……」
「ども、加賀美明日志です。ご挨拶に来ました。これ、つまらぬ物ですが、よければ受け取ってください」
 袋を差し出しながらに思う。謙遜とはいえ、つまらない物をあげると言ってしまうのは無礼じゃなかろうか。相手からすれば「そう思うんだったら改善しろよ」と言いたくなるかもしれない。
 だから付け加えておこう。
「……いや、面白くないというだけで、多分おいしいですよ」
 食べてないから味を知らないけど。
 彼女はクスッと笑って、僕から品を受け取った。
「ありがとうございます。私は三竹彩那です。よろしくお願いします」
 こんなボロアパートでは似合わない、優雅なお辞儀をくれた。良い姿勢に良い角度、それでいて堅過ぎないという礼で、非の打ち所がない。良家のお嬢様、そんな感じがした……こんなアパートの中でなければ。
「いえ、そんな。こちらこそ、よろしくお願いします」
ところで、と彩那さんが顔色を窺うような顔で口にした。
「間違っていたら、ごめんなさい。この時期に引っ越しってことは、もしかして新大学生さんですか?」
「ええ、まぁ」
 僕は老け顔じゃないし、その判断は妥当だろう。
「実は私もなんですよ」
 ふむ。すると源田さんが言っていた、数日前に入居した可愛らしい娘さんというのは彼女のことかな。なるほどかわいい。
「へえ、同じ大学だったら面白いですね」
 そんな偶然はないと思うけれど。
 場所によっては、大学周りに集合住宅がやたらと乱立していて、住人が同じ大学の学生だらけ、なんて事もあるらしい。でもこの辺りはそうじゃない。多くは社会人やその家族が暮らしている、ただの住宅街。
 近くの大学だって、近くって言っても割と遠いけど、いくつかある。
 そう思っていた僕は、彼女が所属する大学と学部を聞き、大いに驚く事となる。落雷が直撃したみたいに、僕の心臓に衝撃が走った。
「音楽学部……? そこ、確か日本でトップクラスの音大ですよね」
「そうなんですか? 尊敬する先生がいらっしゃるので選んだんですけど」
 図々しくも、もう少し踏み込んで話を聞いてみると、元々は海外留学をする予定だったらしい。が、彼女曰く「色々あって」ご破算になり、それならそれでまぁいいや、という事で現在に至るとか。
 色々の部分は表情を見る限り、そう楽しい話題でもなさそうだったので、これ以上の追及は躊躇われた。
「加賀美さんの大学はどこなんですか?」
「僕は……桜泉大学」
 胸を張って語れる程では決してない、私立の大学だ。僕の学科は偏差値が六〇もあれば確実に受かる。全国の全大学、短大と専門学校までを含めて見れば中間より少し上くらいで、決して低くはないんだけど。
 選んだ理由は就職率がそこそこで、学力が僕に合っていたから。進学先を決めていた当時は金銭面に危機がなかったので、一人暮らしの私大でも問題はなかった。今となっては国立に行けば良かったと後悔している。
 本当にそこそこの大学なので、自分の学校のレベルすら知らなかった彩那さんが知っているはずはなかった。
「えーと、じゃあ僕ら同い年ですかね。十八ですか?」
 僕は浪人していないし、彼女も経緯を聞く限り、そんな感じではない。
「はい」
「それなら、タメ口でいいですか?」
「もちろんです」
 …………。
「あの、タメ口じゃないんですか?」
「ですから、どうぞ?」
 僕はお互いにってつもりで提案したんだけど……まぁいいや。言動から察するに、誰に対しても敬語を使っていそうだ。
「そんじゃ、これくらいで失礼するよ。まだ引っ越しの挨拶が残ってるから」
「はい」
 別れの挨拶を交わし、僕は次の部屋へ。
「すんませーん」
 緊張しっぱなしで、そろそろ肩が凝ってきた。そんな僕にとって次の相手はありがたい。どうせ例のじゃじゃ馬さんの部屋だ。きっと少しくらい無礼でも問題はないだろう。
「ちょっと待っといて」
 ノックの後、元気な声が返ってきた。
「あいよ」
 出てきたのは、やはりじゃじゃ馬さん。昨日よりも荒れ狂った短髪に、どう見ても中学か高校時代に使っていただろうジャージ姿で現れた。寝起きなのかもしれない。
「ちゃっす」
 片手を頬くらいまで上げて挨拶する。
「……誰?」
「やだな、昨日会ったじゃないですか」
 じゃじゃ馬さんは首を傾げる。
「……あっ、須藤?」
「違います」
「の後輩」
「違います」
「の友達」
「その可能性が多少あることは否定しませんけど、そろそろ須藤さんから離れて下さい。僕の知人に須藤さんはいませんから」
 要するに覚えていないってことか。まぁ、会った時間は僅かな上に、僕には微塵も興味がなさそうだったから仕方ないか。
 と思っていたら、じゃじゃ馬さんは笑い出した。
「あっはは、冗談だって。新しい入居者っしょ?」
 はぁ、冗談ですか。
「なに、その顔は」
「え、いや……冗談の割には面白い要素が何一つないな、と思いまして」
 率直な意見を述べると、じゃじゃ馬さんは額に手を当て、細長い溜息を吹いた。
「な、なんですか」
「若いのに残念な人生を送ってんねぇ」
「たったの数分しか関わっていないのに、僕の十八年の人生を丸ごと否定しないでください」
「いやいや、アタシの基準では既に残念だと確定してるから」
 めちゃくちゃだな、この人。ちゃんと「自分の基準」だと線を引いているところには好感を持てなくもないけど。
 しかし残念と言われるのは、あまり快いものじゃない。
「再考してもらえません?」
「別にいいけど。じゃあ……」
 眉を寄せて何事かを考え、キッと吊り上げた。
 そして何か、わけのわからない一言を発した。
「ダチョウてめぇ何やってんだ調子こいてんじゃねぇ!」
 ……なんすか、その得意そうな顔は。
 そして、何なんですか、その後の残念そうな溜息は。ちょっ……もう手遅れです、みたいに首を振らないでくださいよ!
「やっぱね。アタシの中での評価は揺るがないわ」
「なんでですか! 今のをどうしろと?」
 いわゆる言葉遊び系のダジャレだった事はわかったけど、それをどうすれば彼女の中では正解なのか、まるでわからない。
「笑えなかった時点で、アタシとは相容れないから」
「いや、アレで笑える人は少ないでしょう……」
「そりゃね。だからアタシの基準では大半の人が、つまらない人生を送ってるってことになるわけ。だって考えてもみなよ。くだらない冗談でも笑えるなら、その分だけ笑顔が多くなるって事っしょ? 逆に高度なギャグだけを求めたり、沸点がやたら高い人ってのは、その分だけ人生で面白く思う時間を損しているわけ」
 ……なんだか凄く正論に聞こえてきた。ていうか、それって僕が求めている理想にも関係する考え方なんじゃなかろうか。
 この人、アホに見えるけど――、
「ま、別に理解してもらおうなんて思ってないけどね」
「師匠ォ!」
「うわっ、なに? なんで土下座してんの?」
「貴女様の考えに深く感銘を受けましたっ。ぜひともこの私めを弟子にィ!」
 じゃじゃ馬様は、僕の理想道の先を歩いておられる。この方からは学びとれる事が数多くありそうだ。
「えっ、そんなに感動した? てか、する話じゃなくない?」
「いえ、私めにとって貴女様の言葉は一つ一つが大変に貴重で、まるで恵の雨でございます。至らぬ私めに、どうかご教授をォ」
「いや、そんな……照れんじゃん。あんま堅苦しくしないどいてよ」
 なるほど、さすがは我が師だ。その様な笑いにくい接し方はお厭であらせられるか。
 最初のご指導、ありがたく頂戴いたします。
「おっけー、じゃじゃ馬」
「…………」
 ハッ、目が白けていらっしゃる。ここは何か冗談を挟むべきだったのだろうか。いや、それとも……くっ、お師匠様、愚鈍な私めには正しい答えがわかりませぬ。
「えーっと、最初くらいの接し方にしてもらえる? さすがにムカつくわ」
 最初くらいというと、丁寧語を使っていたあたりだろうか。
「す、すみません」
 謝ると、じゃじゃ馬さんはすぐに許してくれた。
「で、なにを教わりたいって?」
「じゃじゃ馬さんの考え方が、僕の理想を実現するのに必要だと思うんです。人生観とでも言うんですかね、そういうのを学びたいのですよ」
「ふーん……じゃ、それを面白く言うと?」
 いやいや、そんな事を急に言われても……だが待て。ここで逃げてはいけない。
「お……」
 でも、何も思い浮かばない。何となく口から出た「お」に繋げるため、ひらがなが一つ一つを頭に浮かべては、自分の語彙力のなさ、センスのなさに絶望する。
「おぼっふぇ……」
 ダメだ。謎の言葉しか出てこない。
 しかし、
「プッ」
 じゃじゃ馬さんは笑ってくれた。
「こんなので良いんですか?」
「どうだろね。問題はアンタが笑えるかどうか、じゃないの? アタシに言わせれば、笑いの沸点なんて酸素くらいで充分なわけ」
「マイナスじゃないですか。そこまで笑っていたら完全に危ない人ですよ」
 その後、じゃじゃ馬さんとはいくつか話をした。もちろん何かを教師のように教えてくれはしないけれど、たまに遊んでくれるらしい。その中で盗め、という事なのだろう。
 無事に自己紹介も済ませた。
 じゃじゃ馬さんの本名は栗林遥。呼ぶなら下の名前で、とは遥さん本人の希望。年齢は意外と上で二六歳。女性なのに自分からサラッと教えてくれた。
 職業はフリーター。中卒で働いているから、社会人としてのキャリアは結構なもの。
これにも遥さん独特の理論があった。
 曰く、「フリーターでも極貧生活を続ければ、ちょっとずつだけどお金が溜まっていくじゃん? 充分に溜まった時点で仕事を辞めて、残りはその貯金で暮らすって寸法」とのこと。現在は三つのバイトを掛け持ちしており、忙しくも自由な生活をしているらしい。食事はバイトのまかないやアパート裏に(勝手に)作った家庭農園、野草などをアテにしており、食費はほぼゼロ。
 水道なども契約していなく、飲み水などは隣のラックス公園の水道を使うとか。その他に関しては、ここはトイレと風呂が共同なので助かっているらしい。
 だから挨拶の品であるお菓子には、すごく喜んでくれた。
 フリーターになると同時に独り立ちしたので、実はこのアパートの最古参だという。
 ちなみに貯金額は、話から得た情報を整理して計算したところ、すでに〇が七つはついていると予想される。それでも一切贅沢をしない遥さんは、色んな意味で凄い人だと思う。
 今日もこの後バイトが控えていると、腹を鳴らしながら言っていた。
 そして遂に、このアパート最後の住人を訪ねようと思う。一階は魔の二階とは違って良い人ばかりだったし、工藤さんとやらは前評判も良い。だから、どんな人か不安というより、少し楽しみだったりする。
「すみませーん」
「はい」
 高めの男性声だ。
「どちらさま?」
 歳も身長も僕と同じくらいの、笑顔が爽やかで柔らかい青年が顔を覗かせた。
はい、どう見ても良い人です。完全に良い人です。滲み出るオーラで、もう既にわかりました。狭間さんとは対極の人間です。
「あ、もしかして加賀美くん?」
「はい、初めまして。引っ越しのご挨拶にうかがいました」
「わざわざありがとう。昨日は案内できなくてごめんね」
「いえ、バイトなら仕方ないですよ」
「そう言ってもらえると助かるよ。僕は工藤春也。よろしく」
 たぶん知っているんだろうけど、僕も一応、名乗っておく。
「確か新大学生だよね」
「はい」
「いいな、賢いんだね。僕も早く合格したいよ」
 この口ぶりだと浪人しているのかな。
「賢いなんて、そんな。特別むずかしい大学じゃないですよ」
 本当にね。
「工藤さんは、どこの大学を目指しているんですか?」
「どこって言ってもね。医者になりたいから医学部を目指しているんだけど、特に志望校はないんだ。低目のところを狙ったんだけど落ちちゃって、今は二浪中」
 医学部⁉ 明らかに僕より賢いじゃないですか!
「凄いですね。僕の学力だと、医学部なんて目標にすらできませんでしたよ」
「ははっ、僕だって似たようなもんだよ」
「そんな謙遜しなくても……」
「だってセンター試験で二割しか取れないからね」
 は?
 医学部志望なのに、二割……? 医学部なんて夢にすら見なかった僕でさえ、もっと取っているんですけど。似たようなもん……そんな無謀な人と一緒にしないで頂きたい。
「二年とも合格まで遠くてね。親にも見放されて、結局、今は予備校に通いながらバイトしているよ」
「はぁ、そっすか。頑張ってください」
 なんか、涙が出そうだ。笑顔で細くなった目の下に見える隈、手についた鈍光を放つ鉛色の汚れは、きっと血の滲むような努力の証。それが微塵も報われていない。
工藤さんの夢は叶わないだろう。
早く現実を知って欲しい。いっそ、僕が教えてあげようか。
「どうかした?」
 ダメだ! こんなにも頑張っていて、こんなにもキラキラした顔の人に残酷な真実を突きつけるなんて、僕にはできない!
「……幸運を祈ってます」
 奇跡が起きるか、早く気付くか。そのどちらかを僕は切に願う。
「ありがとう」
 眩しい笑顔で、工藤さんはそう言った。
僕は心に一つ、誓いを立てる。僕は工藤さんを頼らない、頼らないぞ。ただでさえ、なんだか色々と押しつけられているらしいのに、これ以上の負担を掛けて堪るか。

 アパートを一通り回り終えると、源田さんの家にも挨拶に行った。結果、やっぱり冷たくあしらわれた。
 新しい環境に身を置くだけで、色々な人達と知り合ったな。
 魔の二階では、もう色々とダメな金髪の美形、お隣の狭間さん。
同じくお隣、凄まじい筋肉を持ち、どことなく父さんを思い出させるケツアゴ、豪快な銀島さん。
髪型が母さんっぽいピンクうんこで、バンドを組んでいるらしい佐熊さん。
一階には、眼鏡も体型も丸いおじさん、巻山さん。
これから音大に通うという、僕と同い年の清楚なお嬢さん、彩那さん。
明るくて活発。我が心の師匠であり、どんな貧乏生活もなんのその、意外とかなり年上だった遥さん。
お人好しで夢全開、もうすぐ成人するのに、それで良いのかという医学部志望の工藤さん。
他にも大家の源田さん、老婆神こと吉野千代さんとその愛犬ジョー……顔と名前を覚えるだけでも一苦労だ。実際、既に何人かのフルネームは覚えていない。
まぁ、おいおい覚えていくことだろう。なんせ全員、ただのアパートの住人同士という関係だけで終わらせるつもりはない。
ふふふ、まあ今に見ておくといいですよ。もうちゃっちゃと仲良くなってね、この夏にはみんなで海とか行く予定ですから。
まずは魔の二階の浄化、それが最初の目標だ。

 部屋に荷物が届いた。
 布団、冷蔵庫、電子レンジ、学習机と食卓を兼ねたこたつなどを並べると、一気に部屋らしくなった。
調理器具も届いたし、食材でも買いに行こうかな。安い中華鍋が一つだけど、アレさえあれば大抵の料理はできる、と聞いた。炊飯器もないけど、鍋と蓋があれば米は炊けるし、問題はない。
工藤さんに教えてもらったスーパーへ行き、足りない日用品も合わせて購入。
 料理は初めてだけど、父さんの料理を何度か見たことがある気がするし、きっと何とかなるでしょう。まずは米を研いで、水と一緒に火に掛けて、と。
 ――ほい、調理完了。容易い。米を炊くって、なんて簡単なんだ。
 さてさて、そんじゃ冷めないうちに頂きますか。
……うわっ、なんだこの米、すごく硬い。不良品なんじゃないの?
 あーあ、思ったより膨らんだから四食分くらい残ってるのに、どうするよコレ。

 こうして僕の新生活、二日目が過ぎていく。

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