のうすとるじ
1
あたまのなかに流れている世界が、この現実をつぶしてくれたらきっと幸福に一歩近づけるはずなんだと信じ続けている。
現実は腐敗しきっている。
べつだん関わりたくもない相手にこびを売り、自分の立ち位置を確保していく。
面白くも、楽しくもないのに、笑顔を作ることを努力する。
つねに他人の視線にさらされながら、自分は何を信じて生きたらいいのだろうと行き先の分からぬ岐路に立たされ続ける。
それが現実だ。
そこから抜け出すのにはどうしたらいいのだろう。
人には無限の想像力がある。
あたまのなかは誰にも邪魔されない。
そこでなら何をしてもいいのだ。まちがって、そちら側を、こちら側(現実)に引っ張ってこなければいいだけのこと。
意識というパラレルワールド。
人と人とは、完全に理解しえない。
それが、親子でも兄弟でも。そして当然の如く、夫婦でも。
自分のことを他者に正確に、100%伝えることは不可能だろう。
もし、それが可能だというのなら、それは思い込みにすぎない。
分かったつもりになることでしか、他人に理解を示すことはできない。
分かってもらう必要もない。そして、分かってもらえたところで、それがなんだと言うのだろう。
すべては憶測にすぎない。
なのに、後付でいろいろと、人は解釈をしていく。
勝手なストーリーをでっち上げていくのだ。
なぜかって? 納得したいからだ。
不安を消していきたいからだ。 不安が残っていては生命が脅かされるからだ。
不確かなものは一つ残らずにつぶしていきたいのだ。
いまは、この世に未開の地はなくなった。すべては冒険しつくされてしまった。
残る場所は、どこか。
あたまのなかにしか、ないのではないだろうか。
どれだけ技術が進もうとも、今現在、人が何を想像しているのか、どんな風景を思い浮かべているのかを、目の前の女性の服をすっかりと脱がせてしまっているのかを、あるいはそれ以上を。
いったい、なにが見えているのか。それを映像にしてハッキリと証明してしまうことはできていない。そして、それはこれからもできないのではと考えている。
他人の夢のなかに侵入し、その夢の世界から記憶を盗む、改ざんする。
そういった、物語は、映画や本の世界ではおこなわれてきた。
だが現実においては、言葉として口から出たものを信じるしかない。
どれだけ相手が、わたしのことを心のなかで憎んでいようとも、下に見ていようとも、表情や声色から読み取ることができなかったとしたら、その言葉を信じるしかない。
愛していないのに、愛してると平気でいう男や。
あなたしかいないの、信じてと、毎日のように異なる男へ、涙をみせる女。
そういったものを信じるしかないのだ。
あたまのなかを共有してしまうことはできない。
もし仮に、たとえば、各地域ごとにあたまのなかを何かしらのネットワークで接続可能になれば、相互理解が深まるのか。そんなことはなく、余計に不安感をあおり、そして、そのあたまのなかで相手に見せる部分と、見せない部分。その2種類をどう分け隔てるかだけを考えるようになるだろう。結局は、人は、見せたいものだけを他人に見せるのだ。見せたくないものは巧妙に隠していく。それが、どれだけ親しい間柄でも起こる。そして、それは精神を守るには必要なこと。
完全なる白、すべてにおいてその白を貫くことはできない。いや、そのようなことをすれば、人は生きていけない。そして、それは人ではない。
腐敗した現実を浄化してくれるのが、あたまの世界だと信じていたが、わからなくなる。
あたまのなかを見せきってしまえば、すべてが崩れ去っていくことは紛れもない事実だと分かっている。
完全なる幸福は存在せず、完全に幸福を信じきることでしか、それは実現できない。
他人を理解することも、理解してもらうことも、信じきることでしか実現はできない。
脳は閉じられた。
現実は腐敗しきっている。
べつだん関わりたくもない相手にこびを売り、自分の立ち位置を確保していく。
面白くも、楽しくもないのに、笑顔を作ることを努力する。
つねに他人の視線にさらされながら、自分は何を信じて生きたらいいのだろうと行き先の分からぬ岐路に立たされ続ける。
それが現実だ。
そこから抜け出すのにはどうしたらいいのだろう。
人には無限の想像力がある。
あたまのなかは誰にも邪魔されない。
そこでなら何をしてもいいのだ。まちがって、そちら側を、こちら側(現実)に引っ張ってこなければいいだけのこと。
意識というパラレルワールド。
人と人とは、完全に理解しえない。
それが、親子でも兄弟でも。そして当然の如く、夫婦でも。
自分のことを他者に正確に、100%伝えることは不可能だろう。
もし、それが可能だというのなら、それは思い込みにすぎない。
分かったつもりになることでしか、他人に理解を示すことはできない。
分かってもらう必要もない。そして、分かってもらえたところで、それがなんだと言うのだろう。
すべては憶測にすぎない。
なのに、後付でいろいろと、人は解釈をしていく。
勝手なストーリーをでっち上げていくのだ。
なぜかって? 納得したいからだ。
不安を消していきたいからだ。 不安が残っていては生命が脅かされるからだ。
不確かなものは一つ残らずにつぶしていきたいのだ。
いまは、この世に未開の地はなくなった。すべては冒険しつくされてしまった。
残る場所は、どこか。
あたまのなかにしか、ないのではないだろうか。
どれだけ技術が進もうとも、今現在、人が何を想像しているのか、どんな風景を思い浮かべているのかを、目の前の女性の服をすっかりと脱がせてしまっているのかを、あるいはそれ以上を。
いったい、なにが見えているのか。それを映像にしてハッキリと証明してしまうことはできていない。そして、それはこれからもできないのではと考えている。
他人の夢のなかに侵入し、その夢の世界から記憶を盗む、改ざんする。
そういった、物語は、映画や本の世界ではおこなわれてきた。
だが現実においては、言葉として口から出たものを信じるしかない。
どれだけ相手が、わたしのことを心のなかで憎んでいようとも、下に見ていようとも、表情や声色から読み取ることができなかったとしたら、その言葉を信じるしかない。
愛していないのに、愛してると平気でいう男や。
あなたしかいないの、信じてと、毎日のように異なる男へ、涙をみせる女。
そういったものを信じるしかないのだ。
あたまのなかを共有してしまうことはできない。
もし仮に、たとえば、各地域ごとにあたまのなかを何かしらのネットワークで接続可能になれば、相互理解が深まるのか。そんなことはなく、余計に不安感をあおり、そして、そのあたまのなかで相手に見せる部分と、見せない部分。その2種類をどう分け隔てるかだけを考えるようになるだろう。結局は、人は、見せたいものだけを他人に見せるのだ。見せたくないものは巧妙に隠していく。それが、どれだけ親しい間柄でも起こる。そして、それは精神を守るには必要なこと。
完全なる白、すべてにおいてその白を貫くことはできない。いや、そのようなことをすれば、人は生きていけない。そして、それは人ではない。
腐敗した現実を浄化してくれるのが、あたまの世界だと信じていたが、わからなくなる。
あたまのなかを見せきってしまえば、すべてが崩れ去っていくことは紛れもない事実だと分かっている。
完全なる幸福は存在せず、完全に幸福を信じきることでしか、それは実現できない。
他人を理解することも、理解してもらうことも、信じきることでしか実現はできない。
脳は閉じられた。
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