しょうらいのゆめ

ぐう

道端の責任



二話

 私はその後彼女の言葉を信じて家で奈央を待つことにした。パートを口うるさいおばさんと交代してしまったが、奈央のためなら後でどれだけ小言を言われても構わなかった。念のため、家の前に車があると近寄らないかもしれないので、近くの駐車場に置いた。

   本当に奈央は帰ってくるのだろうか。しかし、そんな質問を自分に投げ掛けたところで返事をすることはできない。一方的に信じることしかできないのだ。

   何をするにも落ち着かず、汚れてもいない部屋を掃除したり、お茶をいれては紅茶や珈琲に注ぎ直したり、何かしているようで何も手がつかなかった。奈央が本当に帰ってきたら、何から話そう。とそればかり頭に浮かぶ。

   幼少期には、いじめというものがつきものだと私は考える。種類や度合いは様々なものの、学生のうちに人間関係で嫌な思いをすることはあると思っていた。

   しかし、それが失踪することにまで発展するとは思っていなかった。奈央は小さい頃から人懐っこい子どもではなかったが、それでも色々な性格の子と性別関係なく遊べていた。だから余計にあの子がなぜ虐められているのかわからなかった。何が理由で虐められているのか。ここにきて、私は奈央に何か習い事をさせておけば良かったと思い始めた。小さい枠の中でも切磋琢磨し合ったり、努力しても報われない経験だったりをさせておけば、消極的な人間にならなかったのではないかと思う。

   なにより私がショックを受けざるを得なかったのが、あの子が誰かに相談をしなかったことだ。今朝会った少女がその人なのかもしれないが、今の状況を打破できる人間に話していなかったことが引っかかった。幼い時は何事もすぐ報告してきてくれたのに、こんな事態になっても言えない理由は何だったのか。

   私は我慢できずため息を漏らし、テーブルで頭を抱えた。


   そのとき、玄関で微かな音が聞こえた。靴底を擦る音。あの子だ。私は弾かれたように立ち上がった。本当に帰ってきたんだ。私は無意識に息を潜めて奈央が家の中に入ってくるのを今か今かと待ち構えた。

   奈央が鍵を持って行っていなかったことを考慮して、玄関の鍵は開けておいた。違和感があるかもしれないが、運が良かったとでも思ってくれればいい。とにかく、一秒でも早く奈央の顔を見たい。

   ドアの開いた音が家に響く。人の気配の無い家に奈央が安堵するのが手に取るように分かった。騙すようで罪悪感があるが、面と向かってちゃんと話すにはこれしかない。奈央がリビングの前を通り過ぎ、階段を登る音を聞いてすかさずリビングから出た。久しぶりに我が子を見た時、その子は私のことを冷ややかに見ていた。凍てつくように、動揺も怒りもないその姿を見て、私はまるで別人になったのかと目を疑った。

「隠れてたんだ」

親子のはずなのに、まるで他人行儀のような声のトーンが、私の胸を締め付ける。私を責めるような言い方だったが、やっと聞けた奈央の声ゆえにとても嬉しかった。

「奈央、話をしましょう。リビングにきて」

「なんで僕が帰ってくることを……いや、やっぱりいいや」

奈央はそう言って観念したように逃げ場から帰ってきた。階段を一段降りるたびに髪が揺れる。お洒落にセットされた髪はあの少女がしてやったのだろうか。やはりあの少女は私と会う寸前まで奈央と一緒にいたに違いない。となると、泣いたような目元が気になるが。

   リビングテーブルに二人で対面に腰掛け、少し沈黙が続いた。思い直して私は立ち上がった。

「お腹空いてる?何か作ろうか?」

あえて明るく話し掛けてみたが、奈央の返しは依然冷めていた。

「いい、何もいらないから」

「……そう」

私が緊張しているのを、奈央もきっと分かっているはず。こんなことは私の人生で初めての出来事だったから。私ですら実家から無断で家出まがいのことをしたことはない。手探りでやるしかなかった。私は座り直し、手元にあった冷めた珈琲を口に含み、乾いた唇に潤いをもたせてから口を開いた。

「今まで何をしてたか聞いていい?」

「友達と遊んでただけだよ」

「ご飯や寝る所はどうしてたの?」

「友達が奢ってくれたんだ。寝る時は公園で寝てた」

「誰かに何かされなかった?病気とかは?大丈夫なの?」

「……なんにもなかったよ。別に普通だった」

奈央は素っ気なく答え続けた。特に表情も変えぬまま。やはり、まだ怒っているようだ。この壁を超えなければ普通には話せないだろうと考えた。

「今日、お父さんともう一度話してみる?」

「……は?」

途端に、背筋を冷たいものが走った。まさか我が子にこんな感情を持つ日が来るとは。

   海の奥底から突然足を掴まれた感覚。はっと息を飲んでから私は気が付いた。奈央が祐のことを心から嫌悪していることに。言ってはならない言葉、地雷だったのかと私は奈央の顔色を伺った。しかし、彼は軽蔑以外の何も表してなどいなかった。それは、私に対しても同様に感じられた。膝の上で拳を固く握ってしまう。子供に臆するなんて、親失敗だ。ちゃんと冷静でいなければ。

「お父さんとは、話したくない?」

奈央はそっぽを向いた。視界に入るグッピーを睨んでいるようだった。

「でも、そんなこと言ってもいられないわ。これは家族の問題よ。それに……」

「……それに?」

探りを入れるような瞳。私は奈央と何か駆け引きでもしているのだろうか。この子はいつの間にこんなに謎な子供になってしまったのだろう。いや、いつから私たちがそう育ててしまったのだろう。

「お母さん、お友達から聞いたの。……奈央、学校で虐められてるんだって?」

言うのに何秒、何分掛かっただろう。私はデリケートな部分なのは承知で単刀直入に問いただした。そうしなければ、もしかしたらはぐらかされると思ったからだ。

   奈央はぴく、と眉毛を動かした。そして徐に唾を飲む。私たちに沈黙が訪れた。グッピーが美味しそうに空気を飲む音のみ聞こえる。もっと集中すれば私の心臓の音を聞くのなんて易いだろう。

「……そうだよ。ずっと、小学生の頃から虐められてた」

「そんな、小学生……そんな前から」

蜘蛛の糸一本ほども考えていなかったそれに、私は一瞬思考が完全に停止した。

「小学生の、ときから……ずっと」

同じことを繰り返しては漏れる吐息を誤魔化すように咳をこぼした。衝撃、と言うよりすぐに憤りを感じた。こんなに奈央を苦しめたのは誰なのだと。そして、それを暴露できないように育ててしまった自分は今まで何をしていたのかと。それでも我慢出来ずに私は聞いた。

「どうして、言ってくれなかったの」

奈央は、答えなかった。私への拒絶の意かとも思ったが、ひとまず置いて奈央の言葉をひたすらに待った。外から隣の家の玄関が開く音と、犬の鳴き声が聞こえたとき、ようやく奈央は口を開いた。

「言える……わけ、ないだろ」

「どうして?お母さんもお父さんも、ちゃんと聞いたのに」

「……はぁ?よくそんなこと言えるな!この間のことで分かったよ。父さんは僕のこと信用してないし、母さんだって父さんの言いなりだろ?言ったところで何も変わらなかったし、面倒だっただけだよ。僕が正解だった」

畳み掛けるように言う奈央に、私は怯んでしまった。ここまで言われるほど裂け目ができた私たちは、どうすればいいのだろう。音を立てて心の柱がぽきりと折れた気がした。

「お、落ち着いて」

それは、私自身にも言った言葉だった。顔は強張り声も上擦っている。情けないが、それでもしっかり話したかった。

   しかし、奈央が強くテーブルを叩いた音でその思考も吹っ飛んだ。跳ねるような音をして椅子が床に転がった。

「落ち着いてって、バカにしてるの?僕が悪いと思ってるの?そんなの、ありえない。虐められていることがどんなに情けなくて恥ずかしいことか。それを言ったところで親は何もしてくれないことを分かりきってるのに、何を言えっていうんだよ!」

この子がこんなに大声を出すなんて、あの時が最初で最後だと思っていた。そんなに、怒鳴らないで。怒らないで。ゆっくり、落ち着いて話しましょう。違う。そういうタイミングはとうの昔に捨ててしまったのだ。

「母さん、僕はもう嫌なんだ。母さんとこんな話をするのも、本当は生きているのだって辛い。これは助けを求めているんじゃない。少しだけでいいから自由にさせて欲しいだけなんだ」

「自由?私たちが奈央を縛ったことなんて」

「ないって、言いたいの?嘘だ。嘘つきだ、母さんは」

目を見張った。意表を突かれた感覚だった。まるでポルターガイストのように家具かカタカタと揺れるような気がした。奈央の怒りが、酸素から、窒素から伝わる。私の唾を飲み込む音が大きく響いた。駄目だ。今奈央は冷静ではない。そのなかでいくら話し合いをしようが、きっとまとまらない。彼の一方的な思いの丈をぶつけてもらうのもいいけれど、このままだとこの間の惨状と大差なく終わってしまうだろう。

「奈央、私たちは本当に奈央のことを心配しているの。それだけはわかってちょうだい」

   しかし、言った直後私の脳内に今朝までの祐の行動がよぎった。彼も、奈央のことを本気で心配しているのだろうか。世間体より奈央のことを気にかけていると本気で言えるか。祐の言動から。

   私はその疑問を大急ぎで埋めた。誰にも開けられないように鍵をかけることを忘れずに。私がそんなことを考えていたら、それは奈央に信用されないことにも頷けてしまう。そんなのでは駄目だ。否定されるのが目に見えていても、それを机上に出しておくメリットがない。

   依然として俯いたまま動かない奈央に、もはや視線を送ることも許されないのを肌で感じた。

 我が子が恐ろしい。何を言うか、考えているか、全くわからない。

「へえ。そうなんだ」

奈央は顔を上げずにそう呟いた。せめて私を一瞥するくらいはしていいものの、既にそうしたくもないほどに彼の中で憎悪が拡大してしまったのかと考えるだけで恐ろしい。どうしたらいいか分からない。みっともない。私は、大きく息を鼻から吸い上げ、深く吐き出した。そして、乾いた喉から言の葉を捻り出す。

「お母さんとお父さんのこと、嫌い?」

わずかに荒くなる呼吸。奈央の答えを聞くのが怖い。覚悟はしているものの、やはり目の前で言われることには抵抗があり、緊張で力の入った拳はずっと開かれなかった。奈央は考える様子もなく言った。

「嫌いと言うより、もう何も感じない」

鈍器で頭を割られるような感覚。ぐやんぐやんと視界が揺れて奈央の真っ黒な髪の毛でさえ今は灰色に見えた。嫌いならばまだいい。本当に辛いのは無関心という言葉だと、大人になれば誰でもわかる。

   家族という肩書きで繋がっていた私たちを今もなお繋ぎ止めるものはまだあるのだろうか。

   涙腺から押し寄せる洪水を必死の思いで堰き止めた。こんなことで泣いてしまっては情けない。いや、こんなこと?我が子から発せられたこの言葉に我慢出来る人などこの世にいるのだろうか。隣の家からまた物音が聞こえる。犬の散歩から帰ってきたのだろう。私もいっそ野良犬のように逃げ出してしまいたかった。こんな卑劣で弱小な私を、奈央は今どのように見つめているのだろうか。まるでゴミのように、がらくたのように見下ろしているのだろうか。

「……そう、なのね」

絞り出した私の声は、もはや私の声なのかどうか分からなかった。こんなしゃがれた声は知らない。

「奈央、ごめんなさい。ごめんね。こんなに辛い思いをさせて。こんな未熟な私たちが育ててしまってごめんなさい」

奈央が私をじろっと見たのが分かった。しかし私から視線合わせることはできない。もう失言していようが何をしようが関係ないのだ。だって私はもう分からない。なんて声をかけたら良いのか。心からの謝罪の念が私を溺れさせた。

「なんだよ、それ……最低」

奈央はリビングを出ると、音を立てて再び我が家から出て行ってしまった。私にはもう止める気力も無かった。駄目なことだとは分かっていても、とにかく奈央を解放させることが最優先だと考えたのだ。いや、考える脳すらもう萎縮したように無くなり、結局は手に余ることを誤魔化すための言い訳であった。誰もいなくなってしまった空虚で、私はただひたすらごめん、ごめんと呟いて溢れるものを止めずに無様に頭をテーブルに叩きつけたのだった。





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