しょうらいのゆめ

ぐう

背徳に溺れる



三話

「私ね……ずっと奈央くんを見てたの。毎日教室で本ばかり読んでいる姿、虐められている姿も見ていたけど、私はどちらの姿も好きだった。だって、奈央くんはやり返さなかったから。暴力に暴力で反抗しなかった。そういう所が知的で、優しいと思ったの」

日和が学校にいる時に僕のことを見ていたなんて初めて知った。それも虐められている時以外もなんて。しかし、日和は一つ勘違いをしている。

   僕は反抗しないのではなく、できない、が正しい。暴力なんかこの間の家出の一件で振るおうとしたのが初めてだ。きっと最初で最後だと思う。日和の僕の印象は、確実に上から塗られて、飾られていた。

「虐めを止めさせる勇気が無くて、ずっと傍観者のままでごめんなさい。だけど、昨日校舎の裏で奈央くんを見た時、今なら助けられるって思ったの。奈央くんに、私の手を取って欲しかった。一緒に嫌なことから逃げ出したかったの」

話している間も、日和は顔を上げなかった。声が震えて、僕に回した腕も震えていた。怒られるのを怖がっているのか、拒絶されるのに怯えているのか、はたまた自分自身を叱咤しているのか、僕はわからなかった。

   日和の腕に触れて、ゆっくりと自分から引き剥がす。僕を見上げる日和の目は、すっかり赤くなっていた。僕は繰り返し日和の頭を撫でた。

「話してくれて、ありがとう」

「違うの、待って。一番言いたいことは、これ」

泣き腫らした日和の顔が、急に近付いた。唇に、あたたかくて柔らかいものがあたる。それはしっとりとしていて、日和の香りを残して名残惜しそうに離れた。その間僕は何回も何十回も瞬きしたような気がした。まるで、時が止まっていたかのように。

   触れるものを失った僕の手は空中で浮いていた。

「私、奈央くんのことが、ずっと好きだったの」

だから、付き合って。と日和は言った。

   日和の声は、まだ震えていた。人生初の告白に、僕は思考が止まった。こんな僕のことが好き、と日和は言ったのか。虐める相手に反抗もできず、異世界に逃げおおせるこんな僕のことを。優しくて、知的?そんな、買いかぶりが過ぎる。

   僕は、嬉しいと思うより先に疑惑を持った。日和の感情は、愛情ではないのではないかと。きっと、世界での自分の脇役っぷりが、僕と合わせ鏡のようだと思ったのだろう。感情移入がしやすかったのだ。だから愛情と勘違いした。

   こんなに可愛い人が、僕のことを好いてくれるなんて、もう二度と経験できないだろう。しかし、僕はその告白を受け入れることはできなかった。

「日和、付き合うことはできない。ごめんなさい。たぶん、日和は勘違いしているんだ。日和の話を聞くに、日和と僕が似ているように感じるから、同情や共感が愛情に化けちゃっただけなんだ」

「……ちがう、そうじゃない」

「そうじゃないんだとしたら、日和が僕自身を誤解してる。本は好きだけど頭は良くないし、あいつらにだって反抗したい。できれば殴り返してやりたいよ。でも、情けないけど怖くてできないんだ。こんな人間なんだよ、僕は」

日和は顔を俯かせていて、どんな表情をしているかわからなかった。僕は必死になって日和の目を覚まさせたかった。僕なんかが日和に釣り合うわけがない。

   すると、日和がとった行動は、全く僕が想像していないものだった。ゴムが切れたような乾いた音が鳴り、僕は熱を持った頬に手を添えた。

   視線の先には、僕をひどく睨みつける日和がいた。

「なんで?どうして私が好きな奈央くんを、奈央くんに否定されなきゃいけないの!?自分に好意を受け入れる自信がないことを、そうやって私のせいにしないでよ!」

日和はまた、泣いていた。

   瞬きも、呼吸すら忘れ、僕は石像のように日和をみることしかできなかった。

「奈央くん、自分なんかって思ってるかもしれないけど、私はそんな奈央くんが好きなの。奈央くんがどれだけ自分の価値を見い出せなくても、私は奈央くんの良いところを知ってるの。だから、自分を卑下して私を遠ざけようとしないで、お願い」

「……わからないよ」

それが、僕の今の感情だった。

   日和の言っていることが、わからなかった。自分を卑下してなんかいない。むしろありのままの自分を暴露したつもりだった。僕は誠心誠意彼女の期待に応えた。

   日和から零れ落ちた涙は、僕達の足元にぱたぱたと跳ね、やがて薄い水たまりをつくった。

「わからない。そうよ、他人の感情なんてそうそうわかるものじゃないわ。けど、嫌悪と愛情だけはわかるはずなのよ。奈央くんは、他人を信じるのを怖がってるの」

日和はなにを言っているんだ。一体僕に何を伝えたいんだ。

   きっと、これは単なる告白ではない。そんな、単純明快な、青春チックなものではない。言葉では表せない、二人の壁が僕たちには見えるような気がした。

「勝手にキスしてごめんなさい。けれど、私の言いたかったことはそれ。今日も遊ぶ予定だったけど、少し時間をあけた方が良さそうね。返事、もう少し考えて欲しい」

「……うん、わかった」

僕が言う前に日和は男子トイレから出ていってしまった。蚊の鳴くような声を絞り出したが、日和には聞こえていただろうか。




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