いつか見た夢

B&B

プロローグ


 大分暖かくなってきたとはいえ、まだ薄着には早い春の日だった。 
 桜の花が咲き始め、街を彩るようになってきたある春の日――妹が失踪した。





 元々俺たち兄妹は、仲が良かった。特に妹はかなり重度のブラコンで、中学に上がる頃には親や周りが心配するくらいだった。どこに行くのでも、何をするにしても、開口一番に「お兄ちゃん」だったからだ。
 かくいう俺も、シスコンとまではいかないまでも妹のことは好きだった。やはりお兄ちゃん、お兄ちゃんと懐かれるのは、決して嫌なものではなかったし、年頃になると、よく兄妹喧嘩するような連中には不思議がられたり、羨ましがられていたからかもしれない。
 ……結局は自分が思っていないだけで、シスコンとは思われていたのかも知れないが。
 それでも年頃になれば正常な一男子として……まぁ、いたすことがあったわけで、そういう時は、確かに欝陶しさを感じなくもなかった。 
 また、家族間の仲も良く、例えそれが些細な事であっても互いが互いを支え合うのは、当たり前の事だった。
 そんな俺の妹は、いつだってこの家族の中心であった。 とても可愛らしい顔立ちをしていて、ちょっとしたお嬢様といった雰囲気があった。成績優秀、運動は可もなく不可もなくと言ったところだ。そうなれば、ブラコンであれ『まぁそのうちは…』となるのが人情のようだった。 
 それとこれは俺達家族だけが気付いているちょっとした自慢だが、妹は声がとても綺麗だった。透き通るような声でそれでいて、はっきりとした力強く凜としたものを感じさせる。若い娘には珍しい無理なく低音が響く、所謂美声の持ち主であった。その辺りまでは、見知った人でもあまり気にしていなかったであろう。 
 だが、俺にはこの声こそがこの妹の最大の魅力だと思っていた。なぜなら妹は歌うことが好きで、いつも家事の手伝いをしている時、部屋で音楽を聞いている時や、風呂に入っている時、気分が良い日の朝なんかにその美声を響かせてくれていたからだ。 
 また、人懐っこい明るい性格であっため近所でも評判で、学校でもやはり話題の中心であったし、親戚一同が集まったときなんかも、やはり必ず妹の話題が出たものだ。 
 よく二人で街に繰り出した時も、ふと目を離した隙に、ナンパ野郎から声をかけられたり、時には妹の前に群がっていたりするのは日常茶飯事だったのを思い出す。それでいて少し泣き虫で、虫一匹だって殺すこともできない心優しい少女だった。
 そんな妹に、俺はほんの少しのやっかみはあったが、どこに出しても自慢の妹だった。そう、自慢の妹だったのだ。





 タタタタタタッ 
 銃の連射音。黒い服を着た男達が、怒声をあげながら銃を撃ってくる。連中のターゲットは俺だ。
 それもそのはずで、連中のボスを俺が殺ったからだった。ふん、全くご苦労なことだ。お前達も、もうすぐにあの世に行くというのに。 
 俺は森の中に向かって、この日のために準備されていた逃走経路を走り始めた。 
 後三十秒か……なんとかギリギリで間に合ったな。程なくして、仲間達からの攻撃により、ここにミサイルが飛んでくる事になっているのだ。 
「良し。予定通りだ」 
 後ろは断崖絶壁で下には海。海面までは二十……いや、もしかしたら三十メートルはあるだろうか。いくら訓練してきたとは言え、いざ本番、ましてや夜の海にダイブするのだ。怖くないといえば嘘だ。
 それでも、怖じけづいている暇はない。 建物から出てきた黒服の連中が俺を見つけ、再びこちらに銃を撃ってくる。だがもう遅い。味方からのミサイル攻撃が建物を破壊するのだ。 
 俺は一呼吸おいて海へダイブした。身を投げたその上を、ミサイルが飛んでいき、あたりに轟音が響いた。 



「相変わらず、いい手際だったな。時間ぴったりだ」
 仲間の一人である男がそう話しかけてきた。 
「そうでもないさ。かなりギリギリだったぜ。後ほんの少し遅けりゃあの世行きだった」 
「そういいつつ、いつも完璧な仕事をこなしてるんだもんな。すごいぜ、あんたは」 
 そう言われて、俺は肩をすくめた。 
「ま、あんたらのバックアップもあったからできた芸当だ。たいしたことじゃないと思うがな」 
「クックッ…あんた、本当に変わりモンだな。そんな風に謙遜するプロは初めてだ」
「そうか?」 
「ああ。俺は職業柄、今まで何人と言わずチームを組んできたが、他の連中ときたら、『黙って運転しろ』と言うか、もしくは、何も喋らないかのどっちかと相場は決まっていたからな。 
 それか、俺ならできて当たり前、お前に言われるまでもないみたいな態度かだ」 
 俺はうつむきながら、思わず口元をニヤリと歪ませた。 
「ま、どうであろうといいさ。現場の最前線はうまくいったんだ。後は他の連中がうまくやるさ。 
 さて、悪いがちょいと運転手と話したいことがあるから席を外させてもらうぜ」 
「なんだ、あんた、もうあの女に目を付けてたのかい?」 
 その問いに、再び肩をすくめるだけだった。 
 俺達は今、船の中にいる。作業船というやつだ。俺は狭い船内を身を細めながら、操舵室へと向かう。 
「よぉ、運転には気をつけてくれよ」 
 操舵室に着くや、意地悪げにこの船の運転手に話し掛ける。 
「あら、あなたが船を動かすことに比べれば、大船に乗った気持ちでいても良いと思うけど?」 
 こっちを見ることなく、女が呆れた風に答える。 
「そいつは間違いないな」 
 クックッと肩で笑いながら、俺も返すが、この女の言っていることは本当だ。以前、作戦中に船を操縦した事があったが、ものの見事に横転してしまったのだ。ただ、あの時は今日のような穏やかな日ではなく、荒れ狂う嵐の日であったが。
 その際、その船に同乗していたのがこの女――藤原真紀ふじわら まきだった。
 こんな陰謀と暴力の渦巻く世界で、その名が必ずしも本名であるとは限らないが、そう名乗るなら、そうなんだろう。
 それにしてもあの時は良く助かったものだと思う。なんせ夜の海に、しかも嵐の中二人して仲良く投げ出されたのだ。今二人で、
こうしていることが奇跡のようなものかもしれない、そう思った。
 けれど、そう思った瞬間――あの時の、決して忘れてはいけない記憶が、まるで自己主張するかのように、唐突に、記憶の引き出しから鮮明に蘇ってきたのだ。海に投げ出されるなんてことよりも、はるかに大切なことが。
「いや、そうでもないか……」 
 そうだ。あの時のことに比べれば、そんな事は奇跡でもなんでもない。そうさ、あの時のことに比べれば。 
「何? どうしたの?」 
「いや……」 
 その言葉の後に、なんでもないと言おうとして、言葉を飲み込む。 
「……なぁ。 もし、もう二度と会えないかもしれないと思ってた奴に出会ったらどうする?」 
「いきなりね。何よ、唐突に」 
 今まで前を向いていた真紀が、振り向き、俺を見据えた。余程らしくなかったのだろう、女は小さなため息をついて、なかば呆れ気味に口を開いた。
「そうね………その時になってみないと分からないけど、相手によると思うわね。殺したいほど憎い奴なら殺すだろうし……そうじゃない人なら喜ぶんじゃないの? やっぱり」 
 少し間をおきながら真紀が応える。この女は徹底したリアリストで、こう言った『もし』だとか『だったら』といった話が嫌いだ。
 そんな真紀がこうして答えてくれたことに、少しの驚きと感謝と虚しさが込み上げてきた。 
「それにしても、あなたがそんなこと言うなんて珍しいじゃない」 
「……何、なんとなく、な」 
「なんとなくでそんな話に付き合わせないで」 
「くっくっ……悪かった」 
 やはりこうなったかと、意地悪げに笑いながら謝った。 
「しかしあんた、本当に話がいのない女だよな」 
 少しおどけた口調で喋りながら、真紀の方へ歩み寄る。真紀に密着するくらいの距離まで近づくと、両腕を真紀の背中に回した。そのまま左手を下の方へ動かしていき、そのムッチリとした尻を掴む。 
「話がいのない女なのに、こんなことするわけ?」 
「それとこれは別問題だろう?」 
「あなた……最低だわ」 
「そんなの今更気付いたわけでもないだろう? 頭のいい君ならな」 
 ニヤリと笑って、悪態をつく真紀の唇に口付けた。

 本来ならば、このまま突入するところだが真紀が船を操縦しているので、キスだけに留めておいた。 
「そろそろ上陸ポイントが近いわ。降りる準備をしておいて」 
「名残惜しいところだが……仕方ないか。分かったよ」 
「何言ってるの。大体私とあなたは、もうとっくに終わったはずの関係でしょう?」
 例えそうであっても、チャンスがあれば手を出してしまいたくなるのが男だ、とは言わないでおいた。操舵室を出て船室に戻り、そろそろ準備しろとさ、とだけ仲間達に告げた。 



 それにしても今回はあまりにあっけなかった。せいぜい飛び込みの訓練をひたすらにしたことがちょいとばかし、疲れたくらいだ。
 はっきり言って、作戦よりも飛び込みの訓練の方が何倍もかかったし、疲れたくらいだ。
 護衛の連中も、俺から言わせてもらえば三流もいいとこだった。最初にやった奴の服を着込んで、グラサンをかけただけで、もう仲間だと思ってやがったんだからな。どうしようもなく、間抜けな奴らだった。
 あんなのが日本、果ては世界でも有数の組織の幹部を守ってるだなんて、片腹痛い話だ、全く。 
 薄暗い部屋に戻った俺は、昨日の作戦のことを思い出しながら、一人酒を飲んでいた。目の前には、何部かの新聞が広がっている。
 昨日のことが載っているかどうかを、確認するためだ。もしかしたら、俺は自分が思っている以上に神経質なのかもしれない。
 とりあえずざっと見てみたが、それらしい記事は載っていなかった。新聞を見るのは、自分の仕事の不備があったかどうかを見るのには必要なことだ。場合によっては、そこから新しい情報があったりすることもあるかもしれないのだ。
 自分が関わったことだけに、その記事の扱いが小さければ小さいほど良く、最良は記事にすらなっていないことが望ましい。 
 載っていても、それは情報がうまいこと隠蔽されているわけだが、今回はそんな記事すらなかった。 
 もちろんインターネットを使って、それらしい記事があるかを探すのも忘れてはいけない。そして当然インターネットにも、そのようなページは一切見つけられなかった。
 と、そこでさすがに睡魔が俺を襲い始めたのか、どっと疲労感がでてきたようだった。眠りにつく前に、汗だけでも流そうと思い立って、シャワーを浴びることにした。 
 俺は、グラスに注がれていた綺麗な琥珀色をしたスコッチを、一気に喉へと流し込んだ。喉を突き抜けていく様な熱い刺激が、なんとも心地良い。 
 シャワーをわずか数分で浴び終えた俺は、先程のスコッチを手に取り、グラスにも注がずに、そのまま口に持って行き直接飲んだ。所謂ラッパ飲みというやつだ。再び俺の体内を、熱いアルコールがかけ巡る。 
 そのまま、まるで倒れ込むようにして、俺はベッドに入った。意識の失う前に、ベッド脇の小さなテーブルからペンの挟まった手帳を取る。ペンで栞されたページを開き、そこに書かれた名前に、バツ印をつけた。その名前は昨日、俺があの世に送ってやった野郎の名だ。 
「残り一人……後一人で終わるよ、沙弥佳……」 

 その言葉を最後に、俺は意識を手放した。




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