いつか見た夢

B&B

第15章

「……綾子ちゃん。この男のことどうする? 君のストーカーはこいつだ。俺個人の考えとしては、警察に突き出した方がいいと思うが」
「ん……」
 綾子ちゃんの渋い表情から察するに、警察に突き出した方がいいとは思っているのだろうが、顔見知りであるがゆえ、男を突き出すのにも、またためらわれるといったところだろうか。俺なら間違いなく突き出すところだがな……。
「……綾子ちゃん。君がもうそこまでしたくないというのなら、それはそれで構わない。実際、君の問題だしな。俺にああだこうだ言う権利はないんだから。だが、このまま無罪放免というわけにはいかない」
 俺はため息をつき、一つの提案をした。
「おい、あんた北条とか言ったな」
「ひっ……あ、ああ」
「綾子ちゃんはこんな性格だから、もうこれ以上、ことを大きくしたいとは思ってない。つまりだ、警察には突き出さない」
 北条は、まるで全ての罪が赦されたかのような顔と、驚きの表情をないまぜにしながら俺を見上げた。しかし、そう物事、ただでは問屋はおろさないものだ。
「これからあんたにも妹を探すのを手伝ってもらう。あんたの言い分がどうあれ、関係ないはずの妹が危険にさらされたんだからな。
 これはお願いじゃぁない。命令だ。いいな」
 有無をいわせぬ口調で、北条に命令した。北条も力なく頷き、警察に突き出されるかもしれないという、最悪の結末だけは回避されたため、安堵の表情をしている。
 どっちみちこの男にはもう従うしかないので、命令もなにもないのだが。とはいえ、はっきりと主従関係というものを分からせておく必要はある。
「良し。……綾子ちゃん。勝手に話を進めてしまって悪いが、これでいいな?」
「はい……私としては、もうあんなことをしないなら、それだけで……。
 それよりも九鬼さんこそ、これで良かったんですか?」
 その問いかけに、俺は肩をすくめながら言った。
「一応、依頼主の君がそういうんであれば、そいつに従うさ。
 もっとも、君が心変わりして、今からでも警察に突き出すというなら、話は別だがな」
 俺の言葉に北条は、ビクリと大きく肩を一瞬上下させ、綾子ちゃんを脅えるような眼差しを向けた。その様子を見ると、こんな男がストーカーをしていたとはまるで思えない。
 意外と事細かいことが気になる質なのか、まだいくつか聞きたいことも思い浮かびはしたが、今はそんなことを気にする暇はない。
「さぁ、立ちなよ北条さんよ。早速手伝ってもらおう」
「あ、ああ、わかってるよ」



 俺達は大急ぎで商店街へと戻った。綾子ちゃんには、家に帰っているようにと言いはしたが、自分も一緒になって探すと言ってきかなかった。
 俺としては、綾子ちゃんのストーカーと、俺が対峙した奴が別であったことにある意味で感謝した。
 俺が追っていた奴の危険性は、どう考えたって北条とは比べられない。奴には危険を通り越して、異常にすら感じたほどだった。
 また、商店街に戻る時に聞いた際、例の動物を殺してプレゼントして来たのは奴だという話だった。北条はただ単に、朝起きたら家の前に置かれていたものを指示通りに、俺達の家に置いていっただけだという。
 その話を聞いた綾子ちゃんは、あの時のことを思い出したのか、顔を伏せた。この時ばかりは俺も、自分のうかつさに軽く舌打ちしたが。
 とにかく、そんな奴とこの男が別だったというのは驚きもしたが、それ以上に納得した気持ちの方が勝っていた。
 綾子ちゃんの方は差し当たり危険はなくなった。だが、それは同時に、まだ奴に肉体的にも精神的にも傷付けられるかもしれない、という危険性もはらんでいた。だからこそ、その危険性が少ないであろう家に戻ってほしかったのだ。
 とはいえ、ついてきてしまったものは仕方ない。こうなったら、綾子ちゃんにも最後まで、付き合ってもらうつもりだった。
 それに綾子ちゃん自身、自分の身の回りから起こったことが、こんなにまでなってしまった、という負い目もあるだろうし、ことを最後まで見届けたいという気持ちもあるに違いない。
 もし俺が綾子ちゃんの立場であれば、間違いなくそう思うことだろう。
「で、あんたはここで俺達が出てくるのを待っていたんだな?」
 俺の言葉に北条は、不承不承に頷いた。俺達三人は今、つい30分ほど前まで入っていた喫茶店の斜め向かいの小道にる。
 なるほど。ここは暗く、小道というより、それぞれの店の建物を建てたら、隙間ができましたと言わんばかりのものだが、アーケードの照明に照らされ、人々の動きや流れなんかは、よく見渡せる。ここなら、監視するために隠れることもたやすい。
 おまけにアーケード街の照明が、暗いこの場所とアーケードをうまいこと区切ってしまっている。全身黒い服で覆われたこの男には、さぞかし、いいカムフラージュになっていたことだろう。
「妹が出ていった後、あいつが例のアクセサリーの店に行ったまでは分かってる。俺が知りたいのはその後だ」
「あ、あの子はその店を出たあと、その脇の道へ入っていったんだ。俺もその後を追ったから間違いないよ」
「良し。案内するんだ」
 半ば脅し口調になりながら、北条を先頭に沙弥佳が入っていったという脇道へと入った。そこはさっきの隙間道のような場所だったが、いくらかは幅も広い。
 しかしそれでも、普通ならこんなところをまだ年端もいかない女の子が、一人でうろつくというのは躊躇ってしまうだろう。
 いや、あの時の沙弥佳は普通の状態ではなかった。そんなことなど気にしなかったかもしれない。あるいは、こんな場所だからこそ入っていったとも考えられなくもない。
 沙弥佳の行動について考えているうちに、先頭を行く北条が立ち止まった。
「どうしたんだ?」
「俺はここまでしか追わなかったから、ここから先は分からないんだ……」
 そこは四方を雑居ビルに囲まれた、ちょっとした空間になっていた。そろそろ日が完全に落ちようとする時間で、見上げれば空は茜色に染まっている。
 だというのに、この空間はすでに日が差し込むスペースなどなく、空までの吹き抜けがなければ完全な闇になっていただろう。当然ながら、今だって夜といっても差し支えないほどの闇に覆われてはいるが。
「おい。本当にここに来たんだろうな……?」
 自分でも再び声が低くなったのがわかる。
「ほ、本当だ! 助けてくれるってのに嘘はつかないよ! そ、それにここに来た途端ここに突っ立って動かなくなったんだ」
「だとしても、なんだってこんなとこに……」
「……九鬼さん」
 綾子ちゃんが俺に呼びかけながら、横の壁を指差す。いや、壁ではなく、わずか五十センチほどの隙間だった。今歩いて来た隙間道も一メートルにも満たなかっただろうが、そこは本当に狭かった。
「……行ってみるしかないか。と、その前に」
 俺は携帯を取り出して、斑鳩に連絡する。短いコール音の後、間延びした聞き慣れた声が出た。
『もしも〜し。もしかして、さやかちゃん見つかった?』
「いや、残念ながらまだだ」
 俺は簡単に事情を説明した。どうやら、斑鳩もまだ探してくれていたらしい。てっきり、もう探すことなどやめて、新しく女の尻でも追っかけているとも思ったが、それは言わないでおく。せめてもの感謝の気持ちのつもりだ。
『んーオッケ〜。そんじゃ俺は南の方から探してけばいいんだね?』
「ああ、また何かあったら連絡する」
『了解』
「もう何十分も前だが、沙弥佳のあの状態から考えれば、もしかしたらまだその辺にいないとも限らないからな」
 携帯を折りたたみながら、心配そうな眼差しを向けてくる綾子ちゃんに、肩をすくめながら言った。





「お兄ちゃんが綾子ちゃんにプレゼント……」
 沙弥佳はポツリと、誰にも聞き取れないほどの小さな声で呟いた。もう何度目かも分からない呟きだ。
 自分の最愛の兄が、やはり自分の最も親しい友人に贈り物をする……。本来なら、祝ってあげるべきだと言うのは分かっていた。
 前に沙弥佳は兄に言った。たとえ綾子にも、自身の兄を取られたくないと。
 だがやはり、常識的にみてそれは無理であり、ただの束縛にすぎないとも彼女は理解していた。
 親友である綾子がうちに居候することが決まった時、最初は大切な友人を守れるかもという嬉しさがあった。また兄も、それをかって出てくれた。沙弥佳は、最愛の兄と無二の親友とともに生活できるということに、無上の喜びを感じたのだ。
 しかもその友人は日増しに、沈んでいた表情に、渇いた大地が潤い、豊潤な大地へと変わっていくが如く、明るさを取り戻していったのだ。
 友人としてそれも嬉しかった。また、あの綺麗で、明るくて元気な綾子とすごせると思うと、沙弥佳は嬉しさのあまり我を忘れかけたことすらあった。
 しかし、ある時から兄に一つの変化があった。今までは何をやるにしても、自分のことを放っておくことのなかった兄が、自分よりも友人を中心に物事を据えるようになったのだ。
 兄のことならなんだって知っているはずの自分。そんな兄が親友に、今だかつて見せたことのない態度と表情をしていたことに、どうしようもない嫉妬の感情が沸き上がってくるのに、沙弥佳は戸惑った。
 と同時に、そんな嫉妬はしてはいけないという、理性による叱責もあった。おまけに、兄は何かに巻き込まれたのか、制服が破れていたり、似合わない服を着ていたと思えば、腕を怪我していたりと、ただ事ではない様子だ。
 それは怪我をする前から勘づいてはいた。沙弥佳に隠れて何かをしていることに気付いたからだ。
 兄が自分が怪我をしてまで首を突っ込む理由は、綾子の様子と同様、綾子に気があるからではないか、そんな風に思えて仕方なかった。
 綾子も綾子で前のように明るさを取り戻してからというもの、どこかそれ以前のものと違うような印象を沙弥佳はうけた。それもそのはずで、綾子はきっと兄に好意をよせるようになったに違いない、そうとしか思えなかったのだ。
 事実、実際にカマをかけてみれば、やはりそうだった。
 兄が親友を見る眼。あんな眼をした兄は、今まで見たことがなかった。
 親友が兄に向ける眼差し。あれもどう考えたって、ただ頼れる人を尊敬するだけのものではない。
 沙弥佳は後悔した。こんなことになるなら、友人と兄を会わせるべきではなかった、と。けれど、その友人を見捨てることも彼女にはできなかった。
 それでも、自分の意思がどうあれ、兄と親友が恋仲になるのも、もはや時間の問題であるように思われた。
 そう思っていた矢先だったのだ。兄が綾子と囮作戦などと称して、事実上のデートをするようになったのは。
 だから沙弥佳は抗議した。友人にはストーカーからも解放されて、幸せになってほしい。できるものなら、いずれは結婚だってするだろうから、親友として一人の女として幸せになってほしいと思う。
 けれど、兄だけは駄目だった。兄とだけはやめてほしかった。しかし、兄はただの作戦であり、一緒に沙弥佳がいては意味がないとまで言い放ったのだ。
 そこまで言われては、もはや何も言うことができなかった。兄が言ったことは正論だったからだ。
 しぶしぶ認め、その日の放課後は一人家路につきながら、兄と親友の仲が進展しませんようにと、何度も祈った。信じてもいない神に、祈りさえした。
 だが結果は無情だった。家に戻ってきた二人は、これまでと明らかに違っていた。
 具体的にどこがというわけではなかったが、二人の纏う空気が、もはや恋人のそれだった。
 そういったことに鈍感な両親すら気付いたことで、それは自分の中に築いてきた兄の理想像を、根本的に瓦解させるほどのものであり、それからというもの、自分が兄へどう接していいのか分からなくなってしまったのだ。
 たとえ喧嘩しても、今までなら兄から謝ってくれた。けれど今回は事情が違う。
 どう接すればいいのか分からないまま、悶々としていき、それがまた兄に、素っ気ない態度をぶつけてしまう。
 だからこそ、沙弥佳は今日久しぶりに兄と遊べると思って、大して好きでもない男と一緒とはいえ了承したのだ。
 また、この気持ちとは裏腹に想いは屈折していき、兄に少しでも嫉妬させようと、斑鳩という男の自分への下心さえ利用した。だというのに最愛の兄は、これ幸いにと綾子にプレゼントしてみせたのだ。

 そんな中、気付けば商店街も外れ、繁華街へと続く途中にある公園に来ていた。沙弥佳はどうやってここまで来たのか、全く記憶にない。
 兄が、綾子に髪留めを渡したところまでは覚えている。その後、どうやって店を出てここまで来たかは覚えがなかった。ひたすら先ほどの光景が、頭の中でリフレインされるのだ。
「そういえば、携帯鳴ってたな……」
 沙弥佳は公園の椅子に座り、ぼんやりとした手つきでバッグから携帯を取り出した。
「……お兄ちゃんから」
 携帯のディスプレイには、50件を超える着信があったと表示されている。しかし、それに紛れて綾子と斑鳩の文字もあった。
 斑鳩はどうでもよかった。しかし今の沙弥佳には、『あやちゃん』と書かれた文字が無性に気に入らなかった。
 無二の親友……でも、お兄ちゃんをかすめ取っていった泥棒猫……。沙弥佳はそんなことを呟いている。
「……ひどいよ、あやちゃん……なんで私のお兄ちゃんとるの……あやちゃんなんて……」
 彼女は、それ以上先は言葉にすることはなかった。言ってしまえば、綾子との、そして兄との関係が終わってしまいそうで。
「お兄ちゃんもお兄ちゃんだよ……なんで私の目の前であんなこと……」
 沙弥佳の脳裏に、兄が綾子にプレゼントする光景が再び浮かび上がる。
 綾子は驚きながらも頬を染め、嬉しさに顔をほころばせている。兄もやはり同様に顔が赤くなり、渡した髪留めが綾子に付けられると、その姿に釘付けになっていた。
 そんな光景が、もう何度も浮かんでは消え、また浮かんでは消えていった。そして、ふと冷静になると目尻に涙がたまっていく……はた目には、まるで失恋したかのようにしか見えない。
 そもそも兄と綾子は、まだ知り合って一月も経っていないはずではないか。なんでそんな二人がもうあんな仲になっているのか。
 沙弥佳にはそれが理解できなかった。綾子にしてもそうだ。沙弥佳の気持ちを知っていながら、なんであんなことをするのか……。
 もう今の沙弥佳に、二人を信じることはできそうもなかった。そう考えただけで、先ほど言おうとしたが言わなかった言葉をいいたくて堪らなくなった。
「……お兄ちゃんも……あやちゃんも……私を裏切るんなら……いなくなればいい」
 言ってしまった。誰もいない公園で呟いた独白。だが、沙弥佳には何か、決定的な何かが失われたような気がしてならなかった。
「なら、俺がそいつらを消してやろうか」
 後ろから響いてきた声に、沙弥佳は驚いて後ろを振り向いた。そこには、これからの時間には完全に紛れてしまいそうに、全身を黒く覆いつくした男が立っていた。
 背丈は兄と同じくらいだろうか。ジャケットのフードを被っているため、顔は見えない。
「なぁ……なんだったら俺がその二人を消してやるぜ」
 男は再度、問いかけてきた。
「あ、あなた、誰!?」
「……別に誰だっていいだろう? ただ望むなら今あんたが呟いた二人……始末してやってもいい……」
「なっ……し、始末って……」
「……言葉の通りだ。この世から消す……要するに殺すってことだ」
「……………」
 沙弥佳は混乱していたが、無理もない。いきなり人殺しの請負人を名乗り出されたら、誰だってそうだろう。
 しかも、自分でも消え入るような小声と思う呟きを、この男はどうやって聞いたというのだろう。
「そ、そんなの冗談に決まってるでしょっ!?」
「……そうか。かなり本気のようにも思えたがな。……あんたとはうまく手を組めそうだったんだが」
「ど、どういうこと?」
「……今言ったろう? その二人……特に兄貴の方が少々邪魔になってきてね」
「お、お兄ちゃんが……?」
「……そうだ。だから始末してやろうと思っていたんだが……あんたの手を借りればうまくいくと思ったのさ」
 男の声は決して大きいものではないが、妙に響き、まるで沙弥佳の精神に響いてくるようでもあった。
「お兄ちゃんを殺すだなんて……そんなの許されるわけないじゃないの!?」
「……別にあんたに許してもらう必要はない。……それにな」
 男はそこで一旦言葉を区切った。フードの中で、顔がわずかに横を向いた。いや、向いたように見えた。
 沙弥佳はそれにならい、視線をむけると、その先には兄と親友の二人、それに顔も知らない誰かがいたのだった。





 俺達は隙間道を通って、アーケード街の裏に出た。そこはやや、寂れた感のする裏手通りになっていて、長年この街に住んでいるが、初めて来る場所であった。
 バーや何やらいかがわしげな店が、所狭しと並んでいる。
「この街にも、こんな場所があったんだな……」
 独り言で呟いた台詞だったが、北条は俺の機嫌を伺うようにいった。
「……お、俺が奴と初めて会ったのもここだったんだ」
 なるほど。この手の奴が好きそうな場所だな、と思った。歌舞伎町や、昔行った福岡の中洲という街の極小規模といったところだ。
 なぜかは分からないが俺は、不思議とこの手の雰囲気の街が結構好きだ。
 たとえやましいことが行われていようと、そんなの知ったことではないと言う、そんな素っ気なさのある場所は、とても好感がもてる。
 逆に言えば、人を選ぶ……というより、どんな人種も来ればしっかりと受け入れてくれそうな、そんな雰囲気が好きなのかもしれない。
 早歩きでチラリと後ろを見ると、綾子ちゃんは物珍しげに、それと同時に少し怯えたような目で周りを見ていた。そんな俺達を尻目に、北条は続けた。
「ここではたまに非合法のものの売買がされていることがあるんだ……」
「それであのカメラを手に入れたってわけか」
 北条は頷く。
 確かにやりやすいかもしれない。あの商店街の裏に、こんな場所があったこと自体初めて知ったし、ある意味では、それがいい具合にカムフラージュしているわけだ。
 さりげなく書かれている番地を見ると、あの商店街の隣町ということになるらしい。つまり、カムフラージュしたといより、カムフラージュされていると言った方が正しいのかも知れない。
 その時、けたたましく俺の携帯が鳴った。見なくてもわかる。斑鳩からだろう。なにかあったのかもしれない。
「もしもし」
『よぉ九鬼ぃ。目撃情報ゲットだぜぇ』
「本当か!?」
『おお、ほんとも本当。アーケードを南に抜けてったらしい。それもつい三、四分くらい前』
「三、四分前か……だったらまだ繁華街までには行ってないか……」
『俺の記憶が正しければ、公園があったはずだよ。それも結構大きな公園が』
「そこにいると思うか……?」
『んーなんとも。ただ行ってみる価値はあるかもね』
「そうか……すまないな、斑鳩」
『いいよ〜こういういかにも青春!ってのも結構好きだし』
 青春か……いかにも斑鳩らしい考え方だ。俺は思わず苦笑した。斑鳩がくれた情報に感謝しながら、もうこの男のことを許してしまっていたからだ。
 さっきまであんなに斑鳩のことを気に入らなく思っていたのに、俺という人間は全くもって、ひょうきんなものだ。
「九鬼さん?」
「ああ……もしかしたら、沙弥佳が見つかるかもしれない」
 俺の言葉に、綾子ちゃんは歓喜のため息をもらした。綾子ちゃんのそんな姿にも、また自分が自分じゃないような錯覚に捕われた。 最近は本当に綾子ちゃんの何気ない態度が、こんなにも俺を落ち着かせない気分にさせられる。
「つい三、四分前にアーケードを抜けて繁華街の方へ行ったらしい。途中にある公園あたりで捕まえられるかもしれない」
 綾子ちゃんは大きく頷いた。
 頼む沙弥佳、無事でいてくれよ。

 俺達はアーケードを南に抜けて、繁華街途中にある公園に着いた。ここはかなり大きな公園で、とてもじゃないが三人や四人で探せるようなものではない。
 しかし、今それを憂いているわけにもいかない。何か手掛かりになるようなものでもあれば……。
「おい北条さんよ。あんたこの公園詳しいか?」
「そ、そうでもないが……たまに来ることはある」
「そうか。だったらこの公園、噴水はあるか?」
「ふ、噴水? あ、あるにはあるが……」
「よし。ならそこに連れて行くんだ」
 わかった、と北条は短く答え、俺達三人はそこに向かって走り出した。沙弥佳は昔、だだっ広いところで迷子になったりすると、必ず人が集まりそうな広場や噴水のある場所にいた。俺はもしかしたら、そこにいるかもしれないと思い、噴水と言ったのだ。
「あそこだ」
 走りながら北条が指差すと、その先には確かに噴水があった。あたりにはもう俺達以外の人影はざっと見る限りいない。そして……見覚えのある二人の姿とともに。
 その光景を見た時、自分の中で時が止まったような錯覚を起こした。いや、違う。俺以外の、全ての時間が止まったように感じたのだ。
 そこには斑鳩の助言の通りに、見馴れた妹の姿とあの危険な全身黒づくめ野郎の二人がいたのだ。まだギリギリのところで間に合ったようだったが、奴との接触は危険窮まりないのには間違いない。
 あたりはもう日が落ちて、茜色だった空も西の方だけが、まだかろうじて太陽の残光が見える。しかし、日の届かなくなったこの場所には、すでに闇に侵食され始めていた。
 あの野郎の姿も闇に紛れ始めており、この位置からではうっすらとしか見えないでいた。
「あ、あぁ、く、九鬼さん……」
 綾子ちゃんも奴と出会ってしまった沙弥佳に、遅かったとでも思ったのか、その声色には悲壮感が滲んでいる。
 確かに奴と妹が出会ってしまったのは、俺としてもショックだ。だというのに、俺の中にはもう一つの感情が巻き起こっていた。それは、奴と出会えたことへの歓喜の感情だった。
 あってはいけないものなのかもしれない。だが自分とその周りの時間が、徐々に緩慢なスピードで動き出していくのと同時に、その感情は俺を包み込んでいった。
(ここで奴との決着を付ける……いや、付けなければいけない)
 俺の理性は、そう言い聞かせながら、歓喜というあってはならない感情を正当化しはじめていた。
 けれど、やはり身体は正直だった。数日前、奴に切り付けられた腕の傷がズキズキと痛み始めたのだ。いや、もしかしたらこの傷の痛みすら、奴との邂逅に歓喜しているのだろうか。
 まぁいい。どっちみち、奴には落とし前というのをつけさせないといけない。そうしないと、俺としても気が気じゃないのだ。
 俺のそんな考えが雰囲気に出ていたのだろう、綾子ちゃんは身じろぎした。
 俺は少しだけ笑って、綾子ちゃんには下がっているように言い、ゆっくり沙弥佳達の方へ歩み寄っていった。綾子ちゃんは、俺のすぐ後ろに奴から見えないように下がる。
 しかし当然というべきなのだろうが、後数メートルというところまで来て、奴は瞬時に沙弥佳の背後にまで移動し両手を後ろ手に組ませ、逆手に持ったナイフをその白い首のところで止めた。
「動くなっ! ……動いたら、どうなるか分かるな?」
「くっ……」
 後ほんの数メートルなのだ。たった三、四メートルかそこらしか離れていない。後一秒、奴が油断してくれたら一気に詰め寄れるのだが……。
 俺のズボンのポケットには、やはり数日前に真紀からもらったナイフがある。人を切り付けようなんざ、そうそうやれるものではないだろうが、今の俺ならためらう事なく奴を切れるような気がする。
 いや、しなくてはならないのだ。一瞬の躊躇いが、間違いなく勝負の分かれ目になるだろう。素人の俺ですら分かることだ。
 それに、沙弥佳を傷付けることだって有り得るかもしれないのだ。もちろん、それはあってはならないが。
「……あんたともあろう奴が、わざわざ人質を取るなんてな。見損なっちまうぜ」
「……ふん。どうとでも言うがいい。邪魔する奴は、皆始末してやる」
「……お、お兄ちゃん」
 俺とこの男のやりとりを聞いて、沙弥佳は顔面が蒼白としている。
「沙弥佳、安心しろ。必ずおまえを助けるから」
 この場には、不釣り合いな笑顔で沙弥佳に応える。暗くなってきたため分かりにくかったが、よくよく見ると沙弥佳は、小刻みに震えていたのだ。
 そして、蒼白にしているだけではなく、その顔を歪ませて恐怖の色を浮かばせている。
「……助けるだと? 冗談もほどほどにしておけよ。おまえは今日、ここで死ぬんだよ」
 奴の言葉に嘘はないだろう。事実、二度も殺されかけたのだから。三度目の正直という言葉があるように、今度こそ確実に殺すつもりであろう。
 だが、俺とて簡単に死ぬつもりはない。二度あることは三度あるとも言うではないか。
「……確かに不利だろうけどな、物事に絶対というのはないってのが、俺の信条でね。それに、あんたに一つ聞きたいことがある」
「……ほう。この状況でいい度胸だ」
「あんたが蒲生や今井、それにその二人に関わった連中を殺したのか?」
 その問いかけに、しばしの沈黙があった。だが、奴はその重い口を開いた。
「……そうだ。だが、それがお前になんの関係がある? もとよりお前はそれに首を突っ込まなければ、死ぬこともなかった」
「やっぱりあんたがやったのか……。確かにそうだが、俺としてもそういうわけにもいかなくなったんでね。
 それであんたは、なんでそいつらを殺したんだ? おまけに今井という奴に至っちゃ、首をバッサリといったそうじゃぁないか」
「……ふん。そんな奴、知らないね」
「なに? どういう意味だ」
「……言葉通りの意味だ。それより、もう前みたいなことがそうそうあるはずもないだろうが、そろそろあの世に行く時間だ」
「……残念だがな、俺は妹を助けると言ったんだ。言った以上は、俺は絶対にやる男なんだよ。つまりだ。あんたを殺してでも、妹は助けるということだ」
「くっくっくっく……」
「……何がおかしい?」
「おかしいに決まってるさ。……妹、妹と、そんなに妹が大事か?」
「当たり前だろうが!」
 奴の癪に障るような笑いに、俺はだんだんと怒りを感じ始めていた。だが奴はなにがおかしいのか、そんな俺のことなどお構いなしにまだ笑い続けている。
 これを機に素早く手をポケットに突っ込もうとしたが、奴のナイフは、沙弥佳の首元から一ミリだって、全く離れようとしない。
(やはり、こいつはただものじゃぁない)
 改めてそう思った。こいつの立ち居振る舞いは、北条のそれとは比べものにならない。
「くっくっく……そうか、だとしたらそれは残念だったな」
「どういう意味だっ」
「くくく。お前の妹は、お前などいなくなればいいと言っていたぞ」
「なっ……」
「う、嘘! 私そんなこと言ってない!」
「嘘は良くないな。言っていたではないか」
「さ、沙弥佳」
「…………」
 沙弥佳は俺からの視線に、顔を背けた。……本当なのか……?
 もちろん、態度がそれが真実であると物語っている。15年も一緒に暮らしていたからこそ、分かってしまうのだ。なんだかんだで、あいつと最も長く時間を共有していたのだから。
「くっくっくっく……ショックのあまり何も言えんか」
「……だ、だとしても……だとしても、俺はお前から沙弥佳を助けるということに変わりはない!」
「……お、お兄ちゃん」
「……麗しき兄妹愛とでもいうのかな。全く……ヘドが出る」
「なんだと……?」
「……もういい。こうなったら、おまえの前に妹から先に血祭りにあげてやろう。どうせ、殺すつもりだったのだからな」
「よ、よせっ! お前の目的は俺なんだろう! だったらまず俺からだろうが!」
「いいや。お前の妹を殺せば、お前のその生意気な態度も少しは変わるかもしれんからな。
 それに安心していいぞ。どのみち、お前を殺すというのは決定事項だからな」
 くそっ。話を長引かせて機会を窺うつもりだったのに、逆に窮地に立たされちまったのか……。
「言うことはもうないか? では、お前も恨むならあの男の妹として生まれたことを恨むんだな」
 その時だった。今まで俺の後ろにいたはずの綾子ちゃんが、奴に向かって何かを投げたのだ。
 俺や沙弥佳、あの野郎すら呆気に取られた行動だった。投げたものは、沙弥佳を抱きかかえていた奴の右腕に当たった。
「ぐっ!」
 すると奴は、ほんのわずかな時間だったが、痺れたように動かなくなったのだ。俺はこの機を逃さず奴に飛び掛かり、沙弥佳を押さえ付けていた腕を掴んだ。
「妹を放してもらうぜ」
 渾身の力で、奴の腕を沙弥佳から引きはがしていく。綾子ちゃんの不意打ちに動けなかった奴だが、徐々にその手に力が戻り始めていた。
「沙弥佳……今のうちに逃げるんだ」
「お、お兄……」
「早くしろぉ」
「う、うん」
 沙弥佳はその手で、奴の腕を振りほどき脱出する。
 これでいい……そう思った時だった。俺の腹に、何かが侵入してきた。
「な……?」
 わけが分からず下をむくと、奴が左手に持っていた、あの切れ味の鋭いナイフが腹に刺さっていたのだ。
 再び頭が混乱した。なんの冗談なんだ?  これは。奴のナイフが俺の腹に……?
「ぁ……」
 俺は小さな呻き声を出して、惨めに何度も奴の顔と自分の腹を見返した。
 奴の顔はそのフードに遮られて、うまく見ることができない。
 見ればブレザーの下のシャツに、じわじわと赤い血が染み広がり始めていた。
 徐々に力が抜けていく。だんだんと膝が震えだし、立つことも難しくなってきていた。
(せめて飛びつく前にナイフくらい出すべきだった)
 ぼんやりとそんな考えが頭をよぎる。
 そういえば、綾子ちゃんが投げたのはなんだったんだろう。徐々に薄れ行く意識の中、奴の足元に転がっているものを見つけた。
 それは、いつぞやに俺が青山から貰った、警棒状のスタンガンだった。
(だ、だめだ……もう……せ、せめてこいつの顔だけでも……)
 奴に倒れ込むように、精一杯の力で腕を動かす。奴のフードに手が届いた時、ついに俺はがくりと地に膝をつかせる。
「あ、綾子ちゃん……さや……か……」
 逃げろとまで言えなかった。腹を襲う灼熱の熱さと痛みで、もう何もできそうになかった。
 せめて一撃だけでいいから奴に……俺の意識はそこで途絶えたのだった。






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