いつか見た夢

B&B

第24章


 俺は今、N市の繁華街から外れたところにあるクラブにいた。
『マスカレイド』と書かれた看板が掲げられたドアを通りすぎると、ドアマンに仮面を渡され、これをつけるように言われた。これを外すのは、店を出る時と合意した相手といる時だけらしい。要するに、ナンパなんてのは店公認であるわけだ。
 口元だけは出すという白い仮面は、さながらオペラ座の怪人の主人公・ファントムの仮面のようだ。
 中に入るとなるほど、様々な仮面を付けた男女が大勢おり、まさに仮面舞踏会のようにも見える。顔が分からないためか、普段消極的なやつでも積極的になれるという趣向なのだろう。
 フロアに着くと、すぐさま給仕の恰好をしたボーイが御召し物は何にいたしましょうなどと聞いてきた。当然、給仕達も仮面をつけており、皆一様に髪をオールバックにしている。
 随分と本格的な作りに思わず苦笑が漏れたが、ハイランドパークをとだけ答えると、ボーイは畏まってすぐに前から消えた。
 俺がこの店にきた理由は一つだ。ここには、この街でも有名な情報屋がいるらしいからだ。前にいた店を出た俺は、携帯で真紀と田神に連絡をとってみたのだが、繋がらずじまいだった。
 仕方なく、街以外にも人脈があると言っていたガスのことを思い出し、奴からN市に優秀な情報屋はいないかと尋ねたのだ。そんなことにまで金を引き出そうとした、ガスの商売気には呆れるばかりだったが、それが情報屋というものなのだから仕方ない。
 ともかく、このマスカレイドという店に林という男がいるから、そいつに聞いてみるといいと言ってきた。そんなわけで、俺は今ここにいるのだ。

「お待たせいたしました」
 声からさっきの給仕だろう。琥珀色をした液体の入ったショットグラスを差し出してきた。それに応えグラスを受け取ると、給仕は腰から曲げて一礼し、去っていった。
 こうも皆が仮面を付けていると、誰が誰だか分からないが、林という男はすぐに分かる奇抜な仮面をしているとガスは言っていたが……。
 俺は辺りをさりげなく見渡すと、明らかに場違いと言っていいような仮面をつけた奴が目に入った。それを数秒の間凝視していると、向こうもこっちに気付いたのか、こっちにやって来た。
 そいつは仮面は仮面だが囚人がつけるような、顔だけでなく頭をすっぽりと覆い、首で施錠した鉄仮面つけていたのである。その異常さは、この非日常さを売りにしているこの空間においても、人目を奪わずにいられないだろう。
「……あんた、おれに何か用かい?」
 鉄仮面をつけた男が、その仮面のためくぐもった声で話しかけてきた。
「あんた、林か?」
 俺が問いかけると、男の雰囲気が一瞬変わったのが分かった。
「こっちだ」
 鉄仮面の男は指で着いてこいとジェスチャーし、俺はそれに着いていく。フロアの端に来ると、男は振り返った。
「あんた、なんで俺があんたに用があると分かったんだ?」
「単純さ。長年の勘……とでもいうのかな。ここではこうして仮面をしないといけない分、そういったものが磨かれたんだろう」
 声の調子から考えて、この林という男は四十は確実に過ぎているだろう。
「なるほどな。まぁ、いい。俺の知り合いにあんたを紹介されて来たんだが……ガスという奴だ。そいつがN市じゃぁ、あんただと言われた」
「ガス……ああ、やつか。やつは元々この街で情報屋をやってたのさ。やつがこの街にいた時は、おれか奴かで情報屋として、腕を競い合ったものだ。
 ……それで? 俺からどんな情報を買いたい?」
「あんた、さっきニュースを見たか?」
「ニュース? ……ああ、例の政治家暗殺の話か」
「ああ。そいつに関していくつか情報が欲しい。金ははずむ。なんでもいいから教えてくれ」
「分かった。まず、真田がなぜ殺されなければならなかったのかだが、真田は結構強気な発言や行動力で周囲を驚かしていたんだが、これには裏がある。あの男は、最初から政治家になろうとしていたわけではなく、日船工業という会社の人間だったらしくてね」
「日船工業?」
 聞いたことがある。確か、日本はもとより世界を股にかけて展開している、造船とその販売をやっている会社ではなかったろうか。
「ああ。今はもういないが、真田の父親は元がそこの大株主だったらしい。ようするに、そのコネで就職したんだろうな。
 そのせいもあって、奴は瞬く間に出世していった。三十代にして早くも幹部にまで昇りつめたんだが、何を思ったのか、突然政治家になることを決心したらしい。だが、それと前後して、奴の周りには奇妙なくらいに金廻りが良くなっている」
「幹部にまでなったんだったら、当然なんじゃぁないのか?」
「いや、幹部になる前から金を湯水のように使っていたという話なんだが、その頃からは、その数倍も使うようになっている。
 しかも、その使用目的が不明ときた。その不透明な金が、政治家になるための資金に使われたことは考えるまでもないだろうが、問題はその額だ。
 あまりに巨額すぎる金が動いているんだよ」
「巨額と言われても、賄賂に使われる金の相場が分からないから、なんともいえないがな」
 林は頷くような仕種を見せる。
「普通は、総理大臣になるためであっても、数億……場合によりけりだが、二億から三億だと言われている。
 だが、奴はそれを四倍も五倍も凌ぐ金を使って、政治家になろうとしたらしい。十数億だぞ? 明らかにおかしい。国会議員になるにしたって、そこまでの金は必要ないはずだ」
 言われてみればそうだ。それに、いくら会社の幹部になっていたにしろ、それほどまでの金を持っているだけならまだしも、惜し気もなく使う、使えるというのはどう考えてもおかしな話だ。
「現在は、もう日船とは手が切れているという話だが、今日行われるはずだった幹部会には、ゲストとして日船の社長が招かれていた。結局言っているだけなんだろう。
 真田になぜあれほどまでの金を使えたかは別として、奴は日船が政界に送り込んだ、エージェントなんじゃないかなんて話もあるくらいだ。まぁ会社ぐるみでやったかは、あくまで推測にすぎないがね。
 奴は日船の幹部になる前もなった後も、よくある金持ちのドラ息子ぶりで、あの手この手で業界の他会社を吸収していっている。まぁ、それだけでもすでに、殺される理由としては十分すぎるくらいだな」
 ドラ息子か……つい最近にも、どこかで聞いた言葉だ。大体二世というのは、どうしようもない奴が大半なので、今更どうこう言うつもりもないが。
「とまぁ、ここまでは情報屋やその筋の連中なら皆が知っていることだ。あんたが知りたいのはここから先なんだろう?」
「ああ。さっきも言ったが、金ははずむ。教えてくれ」
 仮面に遮られて分からないが、交渉成立と言わんばかりに言葉に弾みがついたように感じる。
「真田が日船の幹部になり、その直後から政治家になろうとした経緯は、今ひとつはっきりしないんだが、奴はどういうわけか、今までは付き合うことがなかったような業種の連中と付き合うようになっている。
 まぁ、政界人になろうとしている奴が、そんなことをやるのは別に珍しい話じゃないがね。だがそれでも全て納得できない。ある程度は、元いたフィールドに近しい連中に挨拶回りして根回しするのが、普通なんだ。
 だというのに、何を思ったのか真田は、いきなり製薬会社との癒着に精を出すようになっていることだ」
「製薬会社だと?」
 また製薬会社か……この製薬会社の話は、佐竹や六年前のストーカー事件の時にも出てきた。こう何度も出てきては、同一の会社かどうかは分からないが、一度それを含め背後関係を探っておいた方が良さそうだ。
「ああ。なぜ製薬会社と繋がりを持ちたがるようになったのかは知らない。しかも、そこにどんなやり取りがあったのかも、謎ときたもんだ。
 だが、その癒着に成功したのかどうかは別にして、それを境に真田は多くの大企業を、地回りしていることだ。その中には、昨晩地下倉庫で火災が発生したTビルを所有している企業なんかもあるんだ」
 俺は内心ほくそ笑んだ。しかし、これで真田と俺の昨日の仕事が関係あったことは、証明されたようなものだ。
「真田は、特にこのTビルには固執していたらしいんだが、それもそのはずで、Tビル建設の際に最も尽力したのが、真田という。それもあって、真田はTビルの企業に対して、絶大な権力を持っていた。
 あそこでは、何かが行われているという話もあるが、それは分からない。だが、それが間違いなく奴の命令であることは否めない。恐らく、昨日の火災もそれが関係しているはずだ。
 例えば、その中で行われていることを阻止させるためだとか、そんなことだ」
 長年培われた林の勘は、なかなかに鋭いようだ。事実、似たようなものではある。
「まぁ、それがそうだとしてだ。なぜ真田が殺されなくてはならなかったんだ? 別に可哀相とかそういう意味じゃぁないぜ。
 政治家なんぞ、千人だろうが一万人殺されたってどうでもいいが、昨日のビルの事故が奴の暗殺に繋がる理由が分からない」
「ああ、そのことなんだが……これは真田だけの話ではなくなるんだが、奴は責任を逃れようとしたから、なんだそうだ」
「責任逃れ? 政治家、いや政治屋なら、そんなのは別に当たり前だろう」
「いや、そうじゃない。政治家同士の責任のなすりつけ合いというわけではない。どうもそれ以外からの、らしい」
「それ以外?」
 林が頷くような動作をする。仮面など外せばいいのに、よほど顔を知られたくないのだろうか。
「真田が日船の幹部になった時、大企業をどさ回りしたと言ったろう。これが面白い話でね、これらの企業の幹部などの上層部や株主は、ある秘密クラブの会員らしいという話だ」
「秘密クラブ、だと?」
「ああ。残念ながらこのクラブは、N市はないから良く分からない。だが、真田はその秘密クラブと関わりを持つ連中と、月に一度、必ず会っていたという話がある。かなり厳重に管理されていて、おれみたいな個人ではそれ以上の情報は得られそうにないな。
 だがその会員権は、権力者なら喉から手が出るほど欲しいものだと聞いたよ。どこまでが本当なのか分からんが、秘密クラブというよりも、秘密結社といったものに近いとも聞いたことがあるな」
「秘密結社か……手痛い失態を犯したから殺された、そういうことかな」
 この二十一世紀の世の中で、秘密結社などと言われても、いまひとつ実感がわかない。俺は、途端に馬鹿馬鹿しい気分になった。
「信じられないかもしれないが、どうもそれが殺された理由らしいと情報通のあいだじゃ、目下の噂だ。
 となると、昨日のビルの火災は、ただの事故ではない可能性がある。奴があのビルで、一体何をさせていたのか……これが分かるだけでも、また変わってくるんだがな」
 それがデータであるとは口にはせず、俺はニヤリと笑って見せた。
「ありがとうよ。こいつで――」
 財布を取り出して、林に福沢諭吉が印刷された紙幣を数枚渡そうとした時だった。人込みの中に紛れてかすかに、かすかにだが硝煙の臭いがしたのだ。俺のように臭いの訓練もされ、なおかつかぎなれた臭いだからこそ気付けたと言っていい。
 だが周りにはいくらも人がおり、とてもではないが誰がこの臭いをさせているのかまでは、判別できない。おまけに硝煙の臭いと同時に、香水の香りがした。いや硝煙の臭いを消すために、香水をつけたと言った方が正しいかもしれない。
 だとすれば、女なのだろうか。しかし最近では、男でも香水をつける者も珍しくない。
 俺は、林に一万円札を4、5枚強引に渡し、その場を移動した。硝煙の臭いを染み付かせているやつを探すためだ。こういう時に限って、周りの連中もあちらこちらに好きに動いている。仕方ないが、止まれと叫びたい気持ちになる。
(どこだ?)
 さりげなくすれ違う人の匂いをかぎ分けながら、入口の方へと進んでいく。一向に匂いの主は見つからない。
 可能性は低いが、俺が硝煙の臭いと勘違いしたというのは? ないだろう。香水の下から漂ってきた臭い……あれをかぎ間違えるなど、万に一つもない。
 その時、ふと、フロアから入口に上がっていくための階段を一人の女が上っているのが見えた。それだけならあまり気にすることもなかっただろうが、その女の動きに俺は注目したのだ。
 優雅に、しなやかに、ゆっくりとした足取りで階段を上っているが、それとは別に、明らかに普通の動きとは違うものを感じた。そう、格闘技を会得している人間の足取りに似ているのだ。もちろん、素人が格闘技をやっているという可能性もあるが、
 この空間において、その姿(後ろ姿だけだが)から察するに、男達が放っておかなさそうな女であるだろう。だというのに、一人で店を出ようとしているのだ。
 ここがつまらないから、という理由も考えられなくはない。それでも、今日の夕方にあったN市での暗殺事件。硝煙の臭い。まだ夜はこれからであるはずなのに、帰ろうとしている格闘技をにおわせる女。こうもいくつもの条件が、一度に重なるだろうか。
 追う価値は十分あるだろう。もし違ったとしても、それはそれで女を口説く口実にもなるかもしれない。
 俺は女を追うことに決めた。それに、いい加減このマスクにも飽きてきた。俺にはこの店は肌に合わない。どうにも仮面の下に、胡散臭さも隠されていそうな雰囲気は好きになれそうにない。
 人の波をかきわけて階段を上る。女はすでに、一足先に店を出たようだ。店を出る際に、マスクを、と言われ、マスクを顔から外してドアマンに押し付けた。
 ビルの地下にあるため、階段を上がって地上に出る。
(女は……)
 二、三十メートル先でタクシーに乗ろうとしているところだった。俺もタクシーを停め、自動でドアが開かれたと同時に乗り込む。
「あのタクシーを追ってくれないか」
 そういって、財布から一万円札を二、三枚つかんで、運転手に投げるように渡した。運転手は下卑た笑みを浮かべると、車を急発進させる。
 女を乗せたタクシーは、目抜き通りを南に走っていく。運転手は、目標のタクシーを見失うことなく、一つ横の車線を走っている。
 大きな十字路にくる時は、必ず一台間に車を挟んで同じ車線に入っていく。車線を蛇行している感じだ。だが、女を乗せたタクシーは曲がる気配なく真っすぐと南へ向かっている。
 もう繁華街も通りすぎ、そろそろ街のベッドタウンに差し掛かろうとしている。そこで、タクシーはゆっくりと速度を落とし始めた。
「このまま次の曲がり角を曲がって、停めてくれ」
 俺の指示に従って、運転手は女を乗せたタクシーが停まったすぐ先の曲がり角を曲がって車を停めた。俺は運転手に一万円をさらに追加して払うと、早々にタクシーを乗り捨てた。
 小走りに女が降りた辺りまで行き、周囲を見回す。そこは昔ながらの古い住宅街になっていて、耐震基準に満たされていないような、木造住宅も少なくない。例の女は、この辺りに住んでいるのだろうか。
 俺は、所狭しと並ぶ木造住宅街に入っていく。ほとんど時間差はないはずなので、方向さえ間違えていなければ見つけられるはずだ。それに、比較的規則正しく造られているこの住宅群は、人を追うのに格段難しさは感じられない。
 女はヒールを履いてその足音を響かせていたことを考えると、近くに行けば姿が分からなくとも、見つけることができるかもしれないのだ。
 住宅群の一画に入ってさほど時間は経っていないが、ヒール特有の音が近くで聞こえた。辺りはすでに完全な闇に覆われていて、人気ひとけが全く感じられない。すでに日付も変わろうとする時間なので、当たり前と言えば当たり前だろうが。
 そのために、ヒールの音なんかは割りと響きやすいのだ。それを頼りに俺は、ヒールの音を規則的に響かせて歩いている、女の方へと近づいていく。
 ……いた。女は角を曲がったところで、その前方わずか十数メートルのところを歩いていた。俺は気配を悟られぬよう、足音を偲ばせながら後を追う。
 そこから、いくらも歩いたろうか。もうこの古い木造住宅群も終わろうとした時、女はある一画で曲がった。その際、肩にかけられたバッグの中に手を突っ込んで、手探りで何かを探していたのが見えた。家が近いのかもしれない。
 俺は女が曲がって姿を消した直後に、足早にその角まで行く。もちろん、足音は消したままだ。
 角まで来て、こっそりと女を盗み見ようとした顔を出した時、俺の背後から何かが這い出てきた気配を感じた。
「っ!」
 俺は後頭部に鈍い衝撃をうけ、その場に膝をついた。呻き声すら出ることはなかった。訓練されたからなのか本能からなのか分からなかったが、俺は瞬間的に俺を襲った奴を見てやろうと、横目でそいつを見た。そいつの手首には、髑髏のリングを付けた腕輪がされている。
 徐々に薄れ行く意識の中、そいつの顔を見ようとした時、前方からふわりと甘く、優しげな香りが漂ってきた。女が戻ってきていたのだ……やはり女はプロなんだと思った。
 そのどこか高貴な香りを最後に、俺は意識を失った。





「ぅ……」
 頭に鈍い痛みを感じながら、俺は目を覚ました。やけに眩しい。うなだれていた頭を力なくも、ゆっくりと起こしていく。
 窓からはすでに日が傾きかけていて沈もうとしている、強烈な茜色をした太陽が目に入った。
 ここはどこなんだ……そんなことを考えて手を動かそうとすると、手が固定されていることに気が付いた。ぼんやりとしていた意識が一気に覚醒する。
 そうだ。俺は確か女を追っていた時に、後ろから何者かに……多分手首のアクセサリーから、男であったと思われるが、そいつによって捕らえられたのだろう。
 とんだ失態だ。当然女もそいつの仲間であり、プロであるだろうから、俺の尾行にも気がついていた。そこで俺を捕らえるため、仲間である男になんらかのアクションを起こさせたのだ。
 クラブを出た時にはそんなそぶりは見せなかったので、タクシーに乗っている間に連絡したのだろう。
 俺はそんなことはつゆ知らず、まんまとそいつが待ち受けていた罠に引っ掛かってしまったのだ。しかも、周囲に気を配っていたにも関わらずにこの様だ。男もプロであることは、まず間違いない。
 それにしても、西日が眩しい。すでに日が傾いているということは、捕らえられてから、少なくとも十五時間から十七時間は経っているだろう。もしかしたら、一日以上経過している可能性もなくはない。だがこの頭の鈍痛から、そこまでは経っていないように思われた。
 それにしてもここはどこなんだ……。俺は痛みをこらえながら、周囲を見回した。まず、自分が背もたれのある椅子に、後ろ手に縛りつけられていることが分かった。
 また捕らえられていたのは、どうもあの古い木造住宅群の中の一つであるように思えた。窓から隣の古ぼけて、人が住んでいるかも分からないような、あの木造住宅が目に入ったからだ。
 部屋の中は、なぜ椅子があるのか分からないほど、古く本当に人が住めるのか怪しぶまれるほどだ。床は典型的な、古い木造住宅にありがちな畳で、日焼けして本来の色を失っている。壁も所々日々が入っていて、地震が来たら本当に倒壊してもおかしくなさそうだ。
 きっと奴らのアジトなんだろう。昨日この住宅街に入った時、やけに静かだったのは、寝静まっているからではなく、単純にもう人が、ここら一帯には住んでいないからだったからなのかもしれない。
(せめてカーテンくらいしろ)
 眩しい西日に照らされながら、そんなことを考えたりしていると、後ろに人がきた気配を感じた。
「ようやくお目覚めか?」
 野太く、低い声が聞こえた。きっと例の髑髏野郎だろう。頭を掴まれて、顔を上げさせられる。髑髏野郎は、細い一重瞼とおちょぼ口の奴だった。
 歳は俺と同じか、少し下といったところだろうか。ヒップホップを意識したかのような服装とアクセサリーを付けている。もちろん、例の髑髏付きの腕輪もだ。
 頭も見事なまでに非常に短髪にしておいて、どこかのステージにでも立っていそうな雰囲気だ。
 随分と素人じみた奴だというのが第一印象だったが、こいつもとりあえずは訓練されているはずなので、まだ下手は打つべきではない。もちろん、このツケは必ずおまえの命で支払ってもらうがな。
 俺は何も言わず、ただ黙っていた。冷静に、相手の感情を逆なでするように。
 だが、髑髏野郎もやはり黙ったままだった。
 その時、もう一人俺が縛られている真後ろに人の気配を感じた。いつからそこにいたのか、分からなかった。もしかしたら、始めからいたのかもしれない……そう思えるほど、気配を感じさせない。
 単純に考えて、例の女であることが分かるが、だとしたら、相当な奴であることが窺い知れるというもので、この髑髏のヒップホッパーなんかよりも、はるかに質が悪そうだ。
 俺が何を考えているのか悟ったのか、髑髏野郎は強引に俺の髪を引っ張り、意識を自分に向けさせる。
「……なんだ?」
 あえて、低い声を出して挑発してやった。髑髏野郎は、自分がまるで相手にされていないことが分かると、すぐさま顔に血を昇らせはじめ、右手で俺の腹を殴る。
「ぐっ!」
 続いて、左手がやはり腹叩き込まれる。また右手が、次はまた左手だ。また右手、また左……幾度かそれは続いて、ふいにそれが止んだ。
 髑髏野郎は息を切らしながら、俺を睨みつけている。さすがに一発目二発目は辛かったが、慣れると腹に力をいれて、なんとかやり過ごしたのだ。
 また、この髑髏野郎はこの業界に入って、まだ日が浅いと思われた。恰好もそうだが、立ち居振る舞いや行動がどこか素人じみている。ずぶの素人相手ならだませるにしても、俺や田神といった、何年もこの業界で生きてきた人間の目はごまかせない。
 この業界では、こういう奴が真っ先に早死にするということを、後できっちりと教えてやるつもりだ。俺はつとめて冷静に、溢れんばかりの殺意を隠しながら言った。
「……その髑髏」
「なんだ……?」
「くっくっ……いいや、なんでもないぜ」
「この野郎!」
 顔を思い切り殴られる。口の中で塩の味がする。殴られたために、口の中が切れて血がでてきたのだろう。
 俺は血の混ざった唾液を吐き捨て、髑髏野郎を見据えながら言った。
「何、その髑髏がださくてね。今時そんなの流行らないぜ。おまけに、なんなんだその恰好は。もしかしてお前さん、ヒップホップ歌手にでもなったつもりか?」
 思い切り見下した態度で言ってやった。ゴミでも見るかのような言い草でだ。
「それにお前、ちゃんと毎日鏡見てるか? 良くそんな似合わない恰好ができるな。俺なら死んだって、そんなダサい恰好しないぜ。いや、死んでもしたくないってのが正しいかな」
 嘲笑しながら、髑髏野郎に向かって血の混ざった唾を飛ばす。髑髏野郎は、一瞬何を吐き付けられたのか分からなかったようで、間抜けな面を曝して吐き付けられた部分を見た。
 みるみるうちに顔中が真っ赤になっていき、こめかみは言うにおよばず、額や目の下、鼻筋にすら血管が浮き出てきたのだ。
「どうした? 顔が真っ赤になってるぜ。それとも、ここでタコ踊りでも披露してくれるのかな。その頭にタコの物真似はお似合いだ」
 もうそろそろ釣れそうだ。そうだ、もっと怒れ。俺がぶち倒れるくらいに殴り掛かってこい。俺はこのタコ野郎を怒らせて、ぶち倒させることにしていた。
 連中は気付いていないが、椅子の足にくくりつけられていた脚は、縄が緩くなっていたようで抜けそうなのだ。片脚だけではあるが、自由になったらタコ野郎が唖然としている間に、股間を蹴り潰してやるつもりでいたのだ。
 同じ業界の一先輩として、俺がこの業界の厳しさというのを教えてやる。さぁ、そのためにも、もっと怒り狂うんだ。
 真後ろにいるはずの女が何も言わず、何もするでないのが気になるところだが、仲間がやられたら、さすがになんらかのアクションを起こす可能性が高いだろうが、まぁ、そうなったらそうなったらだ。
 その時、後ろから携帯の鳴る音が聞こえ、女が出たようだった。そのせいで、殴りかかりそうだったタコ野郎も冷静になったのか、殴りかかってくるのを止めた。
 くそ、変なところで冷静になれる奴だ。
「……残念だけど、時間切れ。そいつを眠らせる」
 別の仲間からの連絡だったのか、携帯を切った女はそんなことを言ってきたのだ。
「ちっ、いいところだったのにな! おまえ、運が良かったな。だが、次はないと思えよ!」
 タコ野郎が吐き捨てるように、睨み付けながら言う。だが、タコ野郎のことなんざ今はどうでも良かった。
 俺は思案した。今の女の声が、どこかで聞き覚えのある声だったのだ。なんとか振り向いて女を見ようとした時、例の香水の匂いを漂わせながら、女が俺の顔に何かを吹き付けた。
「うっ」
「ふふっ、もうしばらく寝ていなさい」
「くっ、お前たちは一体……」
 何者なんだと言おうとしたが、急激に眠くなって言葉が続かなかった。かなり強い即効性の睡眠ガスのようだ。この業界にいる女なら、必須アイテムと言っていいものだ。
 おまけに吹き付けられたため、目に薬液が入ってしまい、うまく目を開けることができない。また眠らされる不甲斐なさと、連中の良いようにされることに憤りを覚えながら、俺は意識が沈んでいくのを感じた。
 次は、どこで目が覚めることになるのか知れたものではないが、とりあえず今はまだ死ぬことはないようだ。
 俺は、もうどうにでもなれと思ったのを最後に、再び意識を失った――。




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